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戦前戦中の語り部

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2016.02.11
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今日二月十一日は日本の建国を祝う日、建国記念日です。

明治六(1873)年に、2月11日は、日本国の建国の日、紀元節として、祭日となりました。

]翌年から適用されましたが、敗戦後の昭和二十三(1948)年)に進駐軍 (GHQ)の意向で廃止されました。

その後、復活の動きが高まり、建国記念の日として、昭和四十一(1966)年に国民の祝日となり、翌年から適用されました。

二月十一日は神武天皇が、大和の樫原神宮で、即位された日で、、戦前の昭和十五(1940)年は紀元二千六百年で、
盛大に祝われました。

ゼロ戦こと、海軍三菱零式艦上戦闘機が、ゼロというのは、 二千六百年に造られたからです。

YouTubeから紀元二千六百年を祝う祝典の日本ニュースを転載しました。








Last updated  2016.02.11 14:46:16
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2016.02.04
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今日は立春。
春の気立つ日、冬至と春分の中間に当たります。

この日から立夏の前日までが春となります。

この日が寒さの頂点となり、翌日からの寒さを「残寒」または「余寒」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられます。

春とは、寒さが増さなくなった時として、旧暦で定められています。

そのため、旧暦では、春の初頭は当然に寒さが底を打った時期になります。

しかし、新暦では、春なのにまだ寒いと言い交わすことは、新暦5月頃に見事な""五月晴れ""と言い交わす事と同様季節が、あいません。

立春は、八十八夜、二百十日、二百二十日など、雑節の起算日の第1日目となります。

立春から春分の間に、初めて吹く南寄りの強い風を春一番と呼びます。








Last updated  2016.02.04 18:27:37
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2016.02.03
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今日は、季節の変わり目の節分です。

平安時代以降、節分には邪気(鬼)が生じると考えられ、それを追い払うための悪霊ばらいが、宮中で行われた「追儺」の始まりです。

『続日本紀』によると706年にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行ったようです。

節分は立春の前日であり、日付は年によって異なります。

日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることありません。








Last updated  2016.02.03 13:57:45
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2016.01.30
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80歳過ぎているのに、8月の熱い最中、海水浴に行ったり、大阪のなんばや梅田の間を歩きまわり、
水分不足から呼吸などの生命維持装置の脳幹に血栓が詰まる脳幹梗塞になり、年末まで、入院していました。

体力が回復してきましたので、節分以降、再開したいと思います。








Last updated  2016.01.30 15:12:29
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2015.07.18
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70年前の今頃、7月は空襲警報のサイレンが鳴り響くたびに、自宅の納屋の地下に掘った防空壕に、飛び込む日々でした。

物音ひとつしない深夜、突然鳴り響くサイレンの音は、今でも耳にこびりついています。

7月二十二日の昼過ぎ、突然、敵艦載機P--51一機が、私鉄の駅を出て、自宅の前の道を歩いてる人々に向け機銃掃射しました。

うわあと、大きな声を出して、数人の人が向かいの家に飛び込みました。

バリバリバリと、大きな音がしたので、居間を出て、防空壕に飛び込む瞬間、木々の隙間から、見ると電信柱すれすれに飛ぶ、敵戦闘機の操縦手の笑ってる顔が見えました。

あの笑った顔と、機関銃の大きな音は、今でも、鮮明に覚えています。

YouTubeから、本土各地を機銃掃射する敵艦載機を転載しました。

70年前の今頃
6月24日(日 帝都神田の焼け跡で、茨城の少年農兵隊が田植する
6月25日(月 沖縄での作戦終結を発表
6月30日(土 強制連行されたシナ人850人、秋田県花岡鉱山で暴動、処刑される。(花岡鉱山事件)
7月04日(水 インドネシア建国に向け、スカルノが皇軍と協力
7月07日(土 初のロケット機秋水、試験飛行で、墜落
7月10日(火 敵艦載機延べ1200機、 関東各地に来襲
7月13日(金 米国務省 病院船阿波丸撃沈に、責任認める
7月14日(土 敵艦載機の攻撃で、青函連絡船9隻沈没
7月16日(月 勝札発売開始、一枚,10円、一等10万円
7月17日(火 米英ソ、ポツダム会議開催
7月22日(日 敵艦載機P-51 200機 近畿各地を機銃掃射、家の前で目撃する









Last updated  2015.07.18 11:47:36
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2015.06.19
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今年の六月は、80歳過ぎると、何時あの世へ行くか分からないと同窓会や飲み会で忙しい毎日ですが、70年前の今頃は、明日の命の保障もない地獄の日々を送っていました。

昭和二十(1945)年の六月は、授業していたのは国民学校だけで、中等学校生や高等女学校生は軍需工場や、電車の運転手や車掌に、動員され、旧制高等学校生や大学生は、学徒動員で、陸海軍に徴用されていました。

その国民学校も、通学途中で、急に空襲警報が鳴り、あわてて帰る日々で、授業した記憶がありません。

覚えているのは、道で、おもちゃや、チョコレートが落ちていても、敵が爆弾を仕掛けたり、毒を塗っているかも知れないから、持って帰らないようにと訓導から注意されたことだけです。

六月は、一日早々、朝9時28分から11時にかけての約1時間半にわたって、大阪港と安治川右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標として、敵B29爆撃機509機が来襲しました。

省線福島駅近辺の福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現八幡屋公園)、大正区福町(現鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺。大阪市西部を中心に、.港区と大正区に壊滅的な被害が出ました。また

この空襲から、わたしも経験した敵P51戦闘機による機銃掃射が始まったようです。

三月十三日深夜から十四日にかけての難波の家が焼かれた第一回大阪大空襲以来二ヶ月半ぶりの大阪大空襲 でした。

六月五日は、敵B29爆撃機350機による、焼け残っていた神戸市の東半分を焼く、神戸大空襲、

六月七日には、第三回大阪大空襲が朝11時9分から12時28分の約1時間20分にわたって行われました。

都島区高倉町、省線鶴橋駅付近、悄然天王寺駅付近。また城東の大阪陸軍造兵廠(今の大阪城ホール付近)をねらって、1トン爆弾を投下、都島区を中心とした大阪市東部と、兵庫県尼崎市に被害を及ぼしました。

大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いぎました。

この空襲では長柄橋に爆弾が直撃、橋の下に避難していた市民約400人が敵戦闘機の機銃掃射により犠牲になりました。

一般市民に対する大虐殺です。

淀川べりの柴島(くにじま)浄水場が破壊され、大阪市への下水道供給が停止しました。

新淀川橋梁から十三駅付近の爆撃被災により、京阪神急行電鉄(現阪急)は、新京阪線の梅田駅直通が休止になりました。

戦時統制により、京阪と、阪神急行が合併して、京阪神急行になりましたが、戦後、株主総会で、旧京阪(今の京阪電車)が作った、天神橋六丁目駅から京都までの新京阪路線が、取られてしまいました。

中津駅に、阪急京都線のホームが無いのがその名残です。

6月15日朝8時44分から10時55分にかけて、約2時間10分にわたって、敵B29爆撃機や戦闘機511機による、第四回大阪大空襲が始まりました。

米軍の照準点は阪神本線出屋敷駅付近、省線福知山線支線金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、省線鶴橋駅付近、省線天王寺駅付近の5か所でした。

大阪市および尼崎市をはじめ、堺市や布施(現東大阪市)、豊中市、守口町(現守口市)などに被害を及ぼしました。

この頃から、地方都市への爆撃が始まりました。

6月26日には、重要工業拠点への精密爆撃を狙った第五回大阪大空襲が、おこなわれました。

米軍の照準点は此花区北港の住友金属(現新日鐵住金)工場、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼしました。

その頃は、ラヂオから聞こえてくるのは、四ツ橋の電気館に在った中部軍情報部兵士の

中部軍管区司令部発表、近畿地区、福井県を除く、空襲警報発表

中部軍情報、敵B29約400機、紀伊水道を北上中と、

通常放送を中断して、今の交通情報のように、人の話し声が聞こえる臨場感ある放送を、耳にたこが出来るほど聞きました。


70年前の
6月
1日(金 敵委員会、日本への原子爆弾投下、トルーマン大統領に進言、第二回大阪大空襲
3日(日 独仏蘭からの引き揚げ邦人141人 シベリア経由で、満州里に到着
5日(火 敵B29爆撃機 350機神戸市東半分消失
7日(木 第三回大阪大空襲敵B29爆撃機418 機 大阪市空襲
10日(日 敵機362機 関東地方空襲
13日(水 日本交響楽団最後の定期演奏会
15日(金 第四回大阪空襲 その後は、地方都市爆撃へ
18日(月 沖縄ひめゆり部隊49名 摩文仁村の洞窟で自決
22日(金 敵B29爆撃機418機 近畿、中国地方を空襲
23日(土 第32軍司令部、長勇摩長官、摩文仁村で、自決
      沖縄守備隊、組織的抵抗終る 












Last updated  2015.06.19 10:01:13
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2015.05.25
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70年前の今頃、昭和二十(1945)年五月二十、五日は帝國日本は断末魔で、もがいていました。

五月二十四日深夜から、二十五早朝にかけて、陸海両軍協力の義烈空挺隊が、敵に占領された沖縄の中飛行場、今の嘉手納(かでな)空港と、北飛行場、読谷(よみたん)の滑走路に強行着陸して、敵陣に切り込み、全員壮烈な戦死したと知って、衝撃をうけました。

昭和20(1945)年)五月上旬、「義号部隊ヲ以テ沖縄北、中飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ其ノ機ニ乗シ陸海軍航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」と、陸軍第6航空軍が海軍とも協議して、特攻攻撃を決定しました。

義烈空挺隊(挺進第1連隊より抽出の1個中隊基幹)は昭和19年12月、B-29戦略爆撃機の発進基地であるサイパン島アスリート飛行場攻撃を主任務とし、隊長・奥山道郎大尉以下、陸軍中野学校出身者10名を含む136名で編成された部隊でした。

しかし、中継地点である硫黄島方面の戦況悪化により、数度の出撃中止や攻撃目標の変更を経た後、昭和20年5月沖縄戦への投入が決定されました。

輸送任務にあたる第三独立飛行隊隊員32名も、サイパン攻撃計画時は主任務である部隊輸送に加え着陸後のB-29奪取任務が付加されていましたが、沖縄では着陸後奥山大尉の指揮下に入り戦闘する事となりました。

隊員は、将校も含め墨染めの迷彩を施した兵用の服を着用して、一〇〇式機関短銃を含む各種小火器、手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などを装備していました。

その攻撃要領は、敵大・中型機には胴体に帯状爆薬を装着させて、破断するか、柄付き爆薬を、主翼下面に吸着させて、桁を破壊する目的でした。

また小型機には、手榴弾・爆雷を機体に投げ入れて爆破、施設、軍需資材は、爆破または焼夷攻撃を行うというものでありました。

この義烈空挺隊を空輸する第三独立飛行隊は、諏訪部忠一大尉以下32名、九七式重爆撃機12機で編成された。 爆撃機一機当たりの搭乗数は、飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名です。

5月24日18:50、諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が、陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。

敵のレーダにかからないように、海面すれすれに飛ぶ、飛行機の映像を、日本ニュースで見て、衝撃を受けました。

深夜22:11頃、諏訪部機より、突入を知らせる最後の無電「オクオクオクツイタツイタツイタ」がありました。

先導した重爆隊により、熊本を発った12機のうち6機が、沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされました。

残りの4機は、発動機の不調などにより、目的地に辿り着けず途中で帰還しています。

戦後の日本側の戦史でも、しばらくの間、戦争中のまま、北飛行場に6機、中飛行場に2機突入」の記録が残っていました。
アメリカ陸軍省の記録[では、24日22:30頃、伊江島の方向から義烈空挺隊のものと思われる双発爆撃機5機が低空で侵入うち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功したと書かれています。

滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っており、NHKで放送された、日本ニュースをYouTubeから転載しました。

飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っています。

アメリカ軍の記録などによると、その他の機体は激しい対空砲火により、読谷飛行場上空で炎上撃墜され、遺体数も確認されています。

胴体着陸を試みた爆撃機のうち、最後に突入した一機が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸、10名程の完全武装の空挺隊員(及び飛行隊員)が予定通りに航空機に対する破壊活動を行いました。

F4U戦闘機2機、C-54輸送機4機、PB4Y-2爆撃機1機が破壊され、B-24爆撃機1機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機が損傷し、合計26機の被害が後の調査で確認されています。

敵海兵隊と陸軍の記録には、異なる部分もあり、正確な損害は不明です。

さらにドラム缶600本の集積所2箇所が爆破炎上、70,000ガロンの航空機用燃料が焼失しています。

翌25日13:00頃、残波岬で射殺された日本兵が義号部隊最後の一人と考えられています。

この帝國陸軍空挺部隊の北(読谷)飛行場攻撃騒ぎの中、アメリカ軍側は2名が戦死、18名が負傷しています。

米軍の調査によると、確認された日本兵の死者は、北(読谷)飛行場で13名(胴体着陸に成功した機体内で発見された3名を含む)。

飛行場周辺で撃墜された他の4機には、各機とも14名ずつが乗り組んでいたと考えられ、全員が炎上した機体内やその周辺で死亡しており、その総数は69名です。

攻撃成功により少佐に昇進した奥山隊長は、戦死認定の後に二階級特進し、最終階級は大佐となっています。

飛行場の機能に一定の打撃を与えることに日本軍は成功しましたが、天候不良のためこの機会を生かすことができなかったといわれています。

第6航空軍司令官の菅原道大は、作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評していますが、敵の戦力を弱めた特攻作戦として評価されています。

翌二十五日は、映画、小さいお家でも描かれた、お家が焼失する、帝都東京の山の手の大半が焼失した、山手大空襲があり、新聞社が五社が罹災して、二日後の二十七日、藁(わら)半紙一枚の共同新聞が、一日だけ、発行されました。

70年前の今頃
5月22日火)第三十二軍、首里を捨て、沖縄南部へ撤退
5月23日水)デンマーク、対日断交を正式に通告
5月24日木)義烈空挺隊120名、敵占領下の読谷、嘉手納両飛行場に、強行着陸して、玉砕
5月27日土)東京の新聞社5社消失、共同新聞を発行
5月28日(日)朝鮮総督府、内地向き、乗車券発売停止
5月29日月)B29 とP-51 白昼堂々、横浜の市街地消失
       第三十二軍、首里を撤退しち翌日、摩文仁に到着
5月31日水)敵、首里占領







Last updated  2015.05.25 11:27:18
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2015.05.10
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安倍首相が日本の首相として、始めて、アメリカの上下両院合同議会で、45分にわたり演説したことは、敗戦国日本と戦勝国アメリカが、戦後70年にして、和解した歴史的な出来事だと思いました。

硫黄島攻防戦で、多大の被害を受けたアメリカの当時の攻撃隊長と、硫黄島守備隊長の帝國陸軍栗林将軍の孫が握手したのはその象徴でした。

帝國の絶対的生命線のサイパン島が玉砕した時点で、帝國政府が降伏していれば、340万人の(朝鮮、台湾人を含む)帝國臣民が無駄に死なずに済みました。

わたしの大阪難波の自宅も焼けずに残っていました。

戦局が悪化しているのに、親が空襲で焼け出される迄、疎開しなかったのは不思議に思っていましたが、NHKの朝ドラ、ごちそうさんを見て、防空法で、疎開も出来なかったのがわかりました。

 これは、昭和十六(1941)年12月8日開戦の日の前日の7日に、悪名高い特別高等警察(特高)の親玉、内務大臣が。防空法を改正して、退去の禁止(第8条ノ3)と、応急消火義務(第8条ノ5、昭和18年改正後は第8条ノ7)が規定されました。

空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」は、「退去ハ一般ニ行ハシメザルコト」と定めていたので、これにより臣民は全面的に退去を禁止されることとなりました。

国民学校生だけは疎開させましたが、中等学校生や女学校生以上の年代は、空襲されたら、まず消火を義務付けたため、たくさんの人々が逃げ遅れて焼死しました。

祖母が、バケツリレーで、屋根に上がり、水をかけたり、はたきを振っているのを見て、子供ながらあきれていました。

戦前の帝國陸軍は帝國海軍を目の仇にしていました。

陸軍が推し進めていた日独伊三国同盟に反対した、山本五十六海軍次官の命を狙ったため、海軍兵士が機関銃で、私邸を守りましたが、内地にいては危険なので、聨合艦隊司令長官になって船に乗ることになりました。

アメリカと戦争しているのに、陸軍は海軍が敵のように振る舞い、何かにつけて、張り合いました。

一番笑ったのは、帝國陸軍が海軍に対抗するために、陸軍潜水艦を作ったことです。

YouTubeから陸軍潜水艦の写真と、特攻出撃する戦艦大和に登舷礼した陸軍潜水艦の説明を転載しました。
最後まで読まれると馬鹿さ加減が分かります。

暴走した関東軍やシナ派遣軍の高級将校に牛耳られた帝國政府の高級官僚の無策ぶりが日本を焦土にしました。

泣く子も黙る特高警察の恐さは、戦後生まれの人には理解出来ないでしょう。

70年前の今頃、

5月09日(水 靖国神社一週間伏敵祈願を始める
5月10日(木 アメリカ統合幕僚会議、九州上陸のオリンピック作戦と、関東上陸コロネット作戦承認
5月14日(月 B29爆撃機480機、名古屋大空襲、名古屋城消失
5月15日(火 閣議、日独伊三国同盟失効を決定
5月17日(木 墜落した敵機の兵士、九州帝国大学で生体解剖する
5月18日(金 東京都、未疎開児童に寺子屋教育始める
5月19日(土 運輸通信省が廃止、運輸賞発足















Last updated  2015.05.10 22:01:08
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2015.05.02
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70年前の今頃は、殆ど国民学校に通学していた記憶がありません。

毎日、ラヂオから聞こえる四ツ橋の電気科学館に在った中部軍からの警報の放送を聞いていた記憶しかありません。

中部軍管区司令部発表、近畿地区、福井県ほ除く、空襲警報発令という兵隊さんの大阪なまりの声は、今でも、はっきり覚えています。

後年、知り合った人から、幼かったので、福井県を除くを、福井県覗くと勘違いして、福井県は望遠鏡で覗くと見えるのかと勘違いしていたと言っていました。

緒戦(しょせん)は連戦連勝の皇軍が、負けだしたのは、ミットウエイ海戦での、4隻の虎の子の航空母艦が撃沈されたことです。

しかし、敗戦が濃厚になったのは、帝國の絶対的生命線のサイパン島が陥落したのに東条首相が徹底抗戦に固執して、辞任せず、和平工作された皇族や政治家を次々逮捕しました。

それからの帝國は破滅の道にまっしぐらになりました。

YouTubeから転がり落ちる帝國の末路を転載しました。

学校で、敵はおもちゃ爆弾を落とすから、絶対道でチョコレートなどのお菓子や人形を拾わないようと、訓導(くんどう)から教えられたのは今でも覚えています。男先生だったと思います。

五月七日は、ナチス第三帝國のヒトラー総督が、愛人エバーとベルリンの総督地下壕で四月末に自殺し事か分かり、ナチス第三帝國が崩壊した日です。

その日から、大日本帝国は世界60数カ国と、一国で戦う羽目になりました。

真っ先に降伏した同盟国だったイタリア国が、帝國に宣戦布告したのには、あきれ果てました。

戦後、昭和時代、ドイツ人と合うと、次はイタ公をはずして、米英戦おうと冗談てよく話しました。

戦争経験の無い、戦後生まれのドイツ人には、ユダャ人虐殺を引きづり、この冗談話しは通用しません。

安倍首相訪米は、戦後体制のターニング・ポイントと思います。


70年前の今頃、

4月23日(月 大東亜共栄圏六カ国大使会議、東京で開催
4月25日(水 米ソ両国、エルベ河畔のトルべで合流
4月26日(木 帝國政府、病院船阿波丸撃沈で、敵アメリカ政府に抗議
4月27日(金 イタリアファシズム国総督、ムッソリニー、パルチザンに逮捕される
4月30日(月 ナチス第三帝國ヒトラー総督、ベルリンの首相官邸地下壕で、愛人エバーと自殺

5月2日(水 英軍、ビルマのラングーン占領
5月5日(土 敵機、呉と九州各地の航空隊基地空襲
5月7日(月 ナチスドイツ第三帝國、連合国に無条件降伏

































Last updated  2015.05.02 23:08:13
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2015.04.14
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70年前の今頃、近畿日本鉄道南海高野線の岸里駅で、汐見橋駅から来た満員の無蓋貨車に、よじ昇れずに、先に乗った母が行ってしまったあと、どのくらい取り残されて、心細かったのは覚えています。

戻って来た母と再会してから、新しい家に入った記憶も、転校した学校の記憶も全然ありません。

女学生のような若い代用教師?の林訓導(くんどう)が可哀想と思われ、白い布に、赤い切れの日の丸を縫い付けたハチマキを戴いたの覚えているだけです。

次に覚えているのは、祖母が米の買出しに、広島県の山奥の親せきに連れて行ってくれた時です。

切符も配給制で、大阪駅の窓口で、罹災証明書を見せて、切符を買い、東京駅を前夜の22.50発に出て、大阪駅を09.50発の下関行き急行列車に乗りました。

大阪駅のコンコースに入ると、敵のルーズベルト大統領が死去したと、構内放送したことです。

まわりの人々が、大きな拍手をしていたことを、今でも、ありあり思い出します。

70年前の4月12日か13日と思われます。

東京発22.50発下関行き急行列車は、糸崎駅の次は広島駅まで停車しませんが、蒸気機関車一両では、急坂を上れないので、もう一両の蒸気機関車を八本松駅で連結して、重連にするため、時刻表に載っていませんが、停車していました。

糸崎駅で、次の普通列車に乗り換えると、二時間待になるので、八本松駅で下りて、親せきの村へ歩いて行きました。

途中、岡山駅直前で、幼い女の子が踏み切りに入り、しばらく停車しました。

轢かれて、血みどろで助け出され、抱かれて行ったことも、鮮明に思い出します。

福山へ行くという幼い女の子と、長々と話したことも鮮明に思い出します。

今、お元気なら74-5歳でしょうが、終戦の8月15日までは、誰も命の保障がなかった時代ですから、幼くしてなくなった人も多かったです。

お前生きていたか、が、敗戦当時の大人たちの会話でした。

その日の晩は親せきの家に泊まる予定でしたが、闇米の手入れが入り、起されて、夜行で帰っています。

敗戦 四ヶ月前の今頃でも、時刻表を調べると、特別急行列車富士など七本の東京行きの夜行列車が載っています。

帰ってからは、、毎日、通学途中や授業中、空襲警報が発令され、あわてて家に帰ったり、授業も、本土決戦のため、敵を倒すが竹やり訓練が日課になった記憶しかありません。

晩も、寝入りばなに、空襲警報のサイレンが鳴り、家に作った防空壕に飛び込んだ記憶は鮮明です。

以前に書いたとおり、東洋一のプラネタリウムが有った四ツ橋の電気科学館から、中部軍管区の兵隊が毎日、今の交通情報のように、中部軍情報を、 大阪中央放送局の放送を中断して、警戒警報や空襲警報を出していました。

中部軍管区司令部発表、近畿地区、福井県を除く、空襲警報発令、

中部軍情報、敵B29爆撃機数百機、紀伊水道を北上中、又、別の敵艦載機数悌団高野山上空を北上中と、警報放送を聴くだけの日々でした。

今でもはっきり覚えているのは、7月22日、家の屋根すれすれに飛んでいった敵P-51戦闘機が、屋根すれすれに飛び交い機銃掃射されたことです。

バリバリと大きな音を出して、機関銃を無差別に撃ちまくくり、駅から下りて来た人が、ワーと向かいの家に飛込み、にやにや笑いながら敵操縦士が狙い打ちした光景は今でも鮮明です。

わたしが、大日本帝国が負けると感じたのは、集団疎開先で、朝日新聞の記者が、慰問に来て、講演したときが最初です。

太平洋の島々は2000以上あるから、一年に、一つ玉砕しても、何年もかかるから、そのうち、君たち小国民も、戦い勝てると講演して、何をいっているのだと、あきれたことです。

次は、毎日、疎開先の滋賀県上空をB29の大編隊が、飛行機雲をなびかせて、名古屋方面に飛び去り、見えなくなった後、日本の飛行機が上空に現われたときです。

戦後、特攻隊生き残りの兵士に聞くと、爆撃を避けるため、避難させたからだと言っていました。

YouTubeから本土空襲するB29爆撃機と機銃掃射するP-51戦闘機を転載しました。

70年前の今頃
4月12日木 敵大統領ルーズベルト死去、トルーマン後任
4月13日金 国民義勇軍創設、敵B29 東京無差別空襲、明治神宮消失
4月14日土 東京帝室博物館、美術品疎開開始
4月15日日 吉田茂ら、和平工作で、憲兵隊に検挙される
4月16日月 軍需インフレで、二百円紙幣発行
4月17日火 ガンジー、インドの完全独立を゜む声明発表
4月18日水 東郷外相、重光前外相のスウェーデン経由の和平工作打ち切り
4月21日土 沖縄伊江島守備隊主力全滅
4月22日日 ソ連軍戦車隊、ベルリン市街に突入














Last updated  2015.04.14 22:21:18
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