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マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

15年間チャレンジ日記その4

第4回 夢の海外生活第1歩 え?くさい!!これがマレーシアの空港に始めて降り立った時の感想。
時は1990年12月。あの蝦醤というのだろうか、それともココナツ?とにかく「東南アジアの匂い」だ。
でも嬉しい。
やっとここまで来たんだ。(今のKL国際空港は新しく、こんな匂いもない。ちょっと寂しい。)

タイも含め、全行程2ヶ月の一人旅。
勿論、未だ役立って居ない「日本語教師養成課程修了証」も持ってきた。
“こうなったら自力で就職活動をするしかない。”気合いは満々。

まずは、そのさぞかし美味しいと言うマレーシアンフードでも食べて、戦に備えるべし。

そうです。私はその日から地図を片手に食べ歩き・・・ではなくて、就職活動に励んだのであります。

大使館で“日本語学校のリスト”を入手し、上から順に電話かけまくり。電話で手ごたえを感じたところへは、即刻足を運んだものでした。
でも?どうして?どこの学校へ赴いても、マレーシア語又は中国語が出来ない人は、ここでは生徒がつかないと、断られてしまうのだ。
なぜ?なぜ?
私は養成課で、“授業は100%(に近いくらい)日本語で行う”と学んだのに。
これが現実というものなのね・・・

勿論!ここまで来たのだ。へこんではいられない。強行突破あるのみ!である。

それにしても食べるもの、本当に美味しい。
就職活動の挫折なんか、どこへいったやら、と言う感じ。
一日何食したら気が済むのか、と思うくらい何でも食べたくなってしまう。

そして、人が優しい。
私が地図を片手にぽかんと口を開けながらふらふら迷っていると、必ず誰かが声を掛けてくれる。
「Can I help you?」
一人で行けるからと断っても、又少し歩いて振り返ると、まだその人が後ろをついて来て居たりする。
「心配だから」と。

若干不気味ではあるが。

だいたいが私はキャッチセールスや、街角勧誘、化粧品の販売員のお姉さんなどには根っから弱い性質なので、この根強さにはかなわない。
大人しく案内された方がいいかな、と半分あきらめモードでついて行く。

でも皆さん、ホントに親切。
その内食事に連れて行ってもらったり、地元っ子ならではの面白スポット(オカマが集まる通りとか)案内もらったりして、友達だらけになった。

そして、何より一番私の心を動かしたのが、とにかくこの国は活気に満ち溢れていること。

2020年先進国入り目指して、マハティール首相の元(注:この文章は今より3年ほど前に書かれたものにつき、現在はアブドゥーラ首相です。)、まっしぐらー!進めー!といった勢いが肌で伝わってくる。
街中、国中が前を向いて走っている。
首相が掲げている「ルック・イースト政策」(日本に学び日本に従え、といった意味)のお蔭もあってか、日本へ近づき、追い越そうとする向上心にも溢れている。

私は、この勢いに、一緒になって乗りたいと思った。
一緒に走りたいと思った。

そしてめでたく先進国入りした暁には、私もマレーシアの国旗を振って、マレーシア国民と共に祝おうではないか。
共に走り続けた成果を。

就職が見つからなくても、自分で日本語学校を興こしてでも住みたいと言う気持ち。
いや、この際日本語教師でなくても良い。ここに住む為なら何でも出来るだろう。

本気でそう思わせた2ヶ月間のマレーシア滞在であった。

そしてこの滞在は、私の“海外生活への夢”を決定的なものにし、事実私の人生を大きく変えることになる。(実は、運良く仕事先も見つかった。)

明けて1991年2月に帰国した私は、早速、身辺整理?開始。
就職した(と思われた)学校からも、9月の新学期からお願いしますということだったので、結構急な話し。

そして1991年9月、第1回目のコラムに書いたように、本当に私はスーツケース一つと当座の生活費30万円を持って、長い冬へと傾きかけた北海道のどんより雲を後にしたのでした。


今でも思う。初めの一歩って、多分こんな風に些細なきっかけと勇気なんだろうなって。
この一歩を踏み出してしまえば、後は多分運命の流れが私を運んでくれる。


マレーシアの上昇気流に乗るまでだ。


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