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マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

15年間チャレンジ日記その6

第6回 新ビジネス


前回の“とほほ”は現実となり、
とにかく、我々があてにしていた日本語教室の入札は、
当面実施されないというのが本格的になり、
まだ若く、経験も知識も薄かった私たちは、
その後の事を考えていなかった為、途方に暮れた。


でも私自身は相変わらず懲りていない。


捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、
私の二重生活の夜の部である日本食レストランで、
「どうせ昼間暇なら会社に弁当でも持って来ないか」と
常連のお客様から持ちかけられたことが、
私のアンテナをピピッと刺激した。


そこの会社というのが、
都心から高速道路で小1時間ほど離れた工場団地にあり、
当時周りにあったものといえば、
パイナップルの木と椰子の木とバナナの木とドリアンの木ばかり。
辺りには食堂もなく、そこに働く従業員は
皆会社の社食で昼食を済ませるのだという。
ところがそこがまずい。
とてもじゃないが日本人には口に合わない、のだそうだ。
でもこの田舎町(失礼!)まで弁当を宅配するような業者は、当時はなかった。
という訳で、私は半ばボランティアで、早速次の日この方へお弁当を届けた。


「え?ホントに来たの?」


・・・そうですね。
勿論誰もがそう言うはず。


でも喜んでくれた。


実は私は料理が趣味。
高校生の頃から、マネージャーをしていたハンドボール部員へのお弁当など、
ワクワクしながら作ったものだ。
ススキノホステス時代にも、ひょんなことから、
勤めていたクラブの系列のすし屋でバイトさせられ、
厨房で料理長からたくさん料理を教えてもらった経験もある。


世の中何が幸いするか分からない。


競争相手が居ないこともあって(ここがポイント)
このたった一つの半ボランティア弁当は、
その後次から次から顧客を増やしてくれた。


その頃、うって変わって、Nさんは悩んでいた。
だって彼にとっては長年の夢であった
“政府主催の”日本語教室への道が閉ざされてしまったのだから。


お弁当宅配業に何かしら将来が見えていた私は言った。
「今、お弁当ビジネス始めようと思ってるの。良かったら一時しのぎでもいいから一緒にやらない?」


彼も面白い商売だと思ったと言う。
うまくいけば一山儲けられるかも、


なーんてね。


そしてちまちまと家で作っていた頃から、
段々注文が増えてきたのもあって、我々は、
ちょうどこれまた運良く、住んでいたアパートの下にあった、
売れないピザ屋のキッチンを安く間借りさせてもらえることになって
そこに移り、業務用の調理道具も一通り揃えた。


私は調理、Nさんは配達、ワンさんは
ビジネスライセンスの取得に関わる政府関係の仕事を担当することになり、
当初の予定とは全く異業種ではあったが、
3人で会社を回していくことになった。


本格的な「アイール弁当ビジネス」の開始である。 


朝4時に起き、前日下ごしらえをしていたものの仕上げをし、
弁当箱に詰めて11時にはNさんに渡す。
それからすぐ明日の準備に取り掛かり、寝るのは毎日12時過ぎ。


当時のマレーシアには、今ほど便利な日本食材が流通していなかったので、
例えばおでんを作るとなると、魚を下ろしてすり身を作ってから
さつま揚げなどを作らなけらばいけないし、
がんもも、豆腐を擂って作っていた為、随分時間がかかっていた。
(私はマレーシアで最初にがんもを作った日本人として
日本のテレビ局から取材を受けたいといつも願っていたほどだ。)


そういう訳で、寝不足生活は続いたが、
多分私の15年間の中で一番充実していたし、楽しかった日々だと思う。


何より私は料理が好きだったから、
お弁当を作ることに何の苦痛も感じていなかったし、
好きなことをして生きている贅沢感みたいものもあったから。


それに、私のお弁当を毎日心待ちにしてくれている顧客が増えている。


小さいながら、人に喜んでもらえるというのは、幸せなことであると思う。


ホステスも、弁当作りも、こういう点では私にぴったりの職業なのだろう。


アイール、マレーシアで早くも天職を見つけたか???


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