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顕正会 『叱狗論』

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2007年08月26日
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カテゴリ:布教講演

日寛上人について   理境坊住職 小川只道御尊師


つづきです。


  宗祖本仏義を鮮明に


 日寛上人の教義・教学を拝するときには、六巻秒は欠かすことができないと思います。その六巻抄等を通じて、一番私が感じる点は、日蓮本仏義でございます。日蓮本仏義というものを明らかにした、鮮明にされたという意味において、拝すことができると思います。



 日蓮本仏義を明らかにするにはいろいろなことから明かすことができると思いますが、まず第一は、日蓮大聖人を久遠元初の根本の仏であると拝している点、これは釈尊との違いということです。



 どちらかというと仏教では、身延辺りでもそうですけれども、どうしても釈尊を本尊として崇めるのですが、興門派においては、日興上人以来代々、大聖人様を御本仏と仰いでおります。



日興上人がご信徒のお手紙、あるいはご信徒から御供養があったときに、大聖人様の御影の前、あるいは仏の前へと言われた御文もありますので、大聖人様を御本仏と仰がれていたことは間違いないわけであります。


当時の釈尊が本仏という考えを打ち破るために、上行と釈尊との違い、大聖人様は上行菩薩の再誕として末法に出現する、これは経典の外用浅近(げゆうせんごん)と言いますが、経典の、表に出たところの意味において、一応は上行菩薩の再誕として出現されるわけです。



釈尊が滅後末法におけるところの弘通を上行に付する、大聖人は上行菩薩の再誕であるという意味によって出現する、これは経典の意味なのです。その本地をたどっていくと、釈尊より更に元々の仏である久遠元初を明かして、その久遠元初の根本の仏である自受用身の再誕が大聖人様であるということを明かされるわけです。


 発迹顕本された証拠として『開目抄』の御文に


 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて」(全集 二二三頁)


 というくだりがありますが、「子丑の時に頸はねられぬ」ですから、自分はもう頸をはねられた、そして魂が佐渡の国へ行ったと言われておられます。


 ということは、凡夫の日蓮はそこで亡くなって、発迹顕本した久遠の仏が佐渡の国に行かれ、そこからは御本仏の振舞いであると言われているのであります。



大聖人様ご自身も佐前の御書については「爾前の経とおぼしめせ」と言われておりますが、そういう深い意味があろうかと思うのでございます。


 で、「久遠元初自受用身の魂魄」というふうに解釈されて、そこに釈尊との違いを言われているわけです。それが第一だと思います。



 二番目には、大聖人は末法下種の教主である、下種の主・師・親三徳を具えられた仏である、という点について明かされていると思います。


 『開目抄』に


 「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂(いわゆる)主師親これなり」(同 一八六頁)


 と言われているように、仏と仰ぐことにおいては、主師親の三徳が具えられているという点が言われるわけでございます。


 大聖人様御自身も、『開目抄』に


 「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母なり」(同 二三七頁)


 と言われております。また、『産湯相承』という相承書には


 「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり」(同 八七九頁)


 とも言われております。


 三徳具備の仏が大聖人様であると言われている、ここにおいても日蓮本仏義の謂れをきちんと説かれているわけです。


 三番目、これは少し難しいんですが、本因妙の教主であると言われています。


これも釈尊との違いをきちんと立て分けられたものです。『百六箇抄』に


 「我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、その教主は某なり」(同 八六三頁)


 とございまして、この御文を依所とされておられます。



 釈尊は本果妙の仏であります。これは法華経の寿量品の文上の仏の開顕、本果の仏の開顕、釈尊が「我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗劫」と説かれています。これは、今まで爾前の教々には説いていなかった釈尊の本地というものを法華経寿量品において明かすのです。



あの涌出品で、ほぼ久遠を説きますけれども、本当に説くのは寿量品で五百塵点劫の久遠を明かす、そこから自分は仏になったのだということを説くわけですね。しかしながら、これは本果の仏の開顕なのです。



 そうしますと、本果があるということですから、本因もあるはずです。仏法は、必ず因果を説くというのは、一つの基本の筋道になるわけです。ですから、因があるはずであります。因は何かというと、文上においては「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」、つまり「我もと菩薩の道を行じて成じたところの寿命はなお未だ尽きず、上の数に倍せり」という、あの御経文です。


 これによって、自分が菩薩の修行をして悟ったという、その辺りのことを説くわけです。


 天台大師はこの御文をほぼ「初住に登るときに成就を得た」と、つまり菩薩の修行の初住に登るときに成就の生命を悟ることができた、これが本因である、というふうに説いたんですね。しかし、天台大師もそこまでしか結局は説けません。では菩薩の修行をした結果として初住の果を得た、その本の因はもっと先にあっていいわけですね。菩薩の修行をして果を得たわけでありますから。



 ではその本の因というのは何か、それが実の本因なのです。天台が言う本因本果の立て分けは、一応の立て分けでありまして、菩薩に登った結果の本果に通ずる、文上では本因ですけれども、本当はそれ以前に本因があると。なければ菩薩の修行をして菩薩になるということができないわけでありますから。


ではその本因は何なのか、それを明かすのは、本因を所持している仏でないとできません。


その所持しているお方が末法出現の大聖人様であります。


 そして、本因はどこかといえば、久遠元初にさかのぼるわけであります。五百塵点劫より復倍上数という更に先の当初(そのかみ)において、久遠元初のところで本仏が悟ったところの法、これが実の本因のところであると。その本因の仏法というのは、示同凡夫が即座にこの宇宙の法は妙法蓮華経であると開悟した、その法が本因である。そして、この本因の仏法を所持されているのが久遠元初の仏であり、久遠元初の自受用身であり、その再誕が大聖人である。ですから大聖人によって、その法は顕わされるということなのです。



 今度は、実の本因には本果があるかということですが、もともとの久遠元初の仏の本果というのは何なのかを考えていきますと、久遠元初においては、因果倶時といいまして、因の中にそのまま果が具わるわけです。ですから、即座開悟、そのまま直ちに法を悟ったというところにあるわけであります。



 私共が南無妙法蓮華経と唱える、そこに成仏の位が具わるわけであります。ただし、一回唱えたからいいかというと、そうではなくて、修行して更に南無妙法蓮華経の法の功徳に浴することによって、その修行を続けていくことによって仏性が磨かれて更に功徳を進むことができるわけであります。



 このような本因本果の立て分けによって、釈尊とは違いますよ、末法の仏は大聖人である、ということをきちんとされたわけです。




(大白法370号)


 つづく







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最終更新日  2007年08月26日 15時50分39秒
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