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日蓮大聖人様の正系門家である御宗門と舌先三寸の屁理屈名人の浅井会長とは、まともな法論にならないことに気付いてね。
その2 浅井会長は、『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』で 「もし戒壇の御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとするならば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか」 「事の戒壇とは、広布の暁に建てられる御遺命の戒壇である」 と書かれていますよね。 しかし、顕正会員のみなさん、このように断定的な言い方をする浅井会長の書き方自体に、トリックがあるといえますよ。 「この定義変更の(欺瞞は二つある」として、まず 「その一つは、『正本堂が御遺命の戒壇か否か』ということと、『戒壇の大御本尊のまします所が広布以前にも事の戒壇といえるか否か』ということとは、全く無関係・別次元の問題なのである。しかるに「事の戒壇」という名称を共通せしむることにより、顕正会の破折を(紛らわせ、池田の誑惑があたかも通用するかのように錯覚せしめているのが、欺瞞の第一である。 と言っていますよね。 この一点目の、「『正本堂が御遺命の戒壇か否か』ということと、『戒壇の大御本尊のまします所が広布以前にも事の戒壇といえるか否か』ということとは、全く無関係・別次元の問題なのである」ということ自体は、たしかにそのとおりでしょうね。 d_(>o<) よく出来ましたー!! まず、その一つは、『正本堂が御遺命の戒壇か否か』ということ、御宗門でも正本堂が御遺命の戒壇とは認めておりません。 正本堂の意義について、昭和四十七年四月二十八日の日達上人の訓諭は 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。(大日蓮昭和四十七年六月号二頁) ************************ 以下は、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」 の破折書より引用します。 自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の悪書 「重ねての対決申し入れ書」の悪義を破折す より 三歳の童子にも分かる訓諭への たばかり また次に貴殿は、『御遺命の戒壇となる建物を前もって建て』と述べ、将来、「御遺命の戒壇」となるべき正本堂を建立したこと自体も誤りであったかのごとく誹謗する。すなわち、「訓諭」における日達上人の「後代の誠証」の言を取り上げ、『「誠証」とは真実の証明の意である。「願望」しただけならこの語は不要であろう、「決定」したからこそ「後代の誠証」とした』とし、『御遺命の戒壇となる建物を前もって建て』たことは、正本堂を「御遺命の戒壇」と「決定」したことであると強言し、『信じ難いたばかり』と毀呰するのである。 しかし、これこそ貴殿の『たばかり』の言というほかはない。「後代の誠証」の御言葉が、後の「正本堂は、」以降の全文にかかることは一目瞭然である。 すなわち日達上人が「後代の誠証」とお述べになられた意味は、まさに、「意義を含む現時における」「広宣流布の暁」「たるべき」等の文言をもって、正本堂が現在直ちに「御遺命の戒壇」にはあらざること、そしてまた将来の広宣流布の暁には「御遺命の戒壇」となることを、「宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証」とされたのである。「広宣流布の暁」との前提がある以上、当時の正本堂が直ちに「御遺命の戒壇」でないことは三歳の童子にも分かる道理ではないか。 御法主日顕上人猊下に対する浅井昭衛の 不遜なる「対決申し入れ書」を破折す より さらに、こんな記録もある。 浅井先生は、(中略)昭和四十年十月、今から四年前に行なわれた正本堂御供養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗を賜ったことを発表した。(富士 昭和四四年九月号) 当時、貴殿は正本堂御供養に対して日達上人から袱紗を賜ったことを、嬉しそうに発表しているではないか。このときに喜んで正本堂御供養に参加したことは、のちに慢心を起こして方向転換した貴殿にとっては、よほど都合が悪いらしく、『顕正会「試練と忍従」の歴史』では、 正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、「供養の誠を捧げよ」と、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。(富士 昭和六一年八月号) と言い訳するのである。 しかし、悪いことはできないものである。昭和五十二年には、貴殿が、 時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。(富士 昭和五二年八月号) と述べていたことが、明々白々と残っているからである。 このように、貴殿は、昭和四十年当時の状況につき、一方では、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われずと述べたかと思うと、他方では、同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたと、全く正反対のことを述べているではないか。 こんな矛盾した貴殿のいうことを、まともに聞くのは顕正会と名乗る貴殿の悩乱した眷属だけである。このことについて日顕上人は、平成十六年の全国教師講習会において貴殿の発言の矛盾を指摘されているが、これに対して貴殿は、口を鼻の如くにして、黙したままではないか。 ****************************** 管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず と述べたかと思うと、他方では、 同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた と、全く正反対のことを述べているではないか。 <(。_。)>わけわからん です・・・ね。 浅井会長は、二点目として、「第二は、本宗の伝統法義の上からは、広布以前に戒壇の大御本尊まします所を「事の戒壇」とは絶対に云えないのである」 と言っていますが、これは浅井会長の断定的な決めつけではありませんか? 浅井会長の言うことが正しいという前提で、初めて成り立つ論ですよね。? 浅井会長は、 「もし戒壇の御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとするならば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか」 と言っていますが、戒壇の大御本尊様の住処は法体における「事の戒壇」であって、三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命は、事相の「事の戒壇」建立を遺命されたものであって、なんら矛盾するものではありません。 また「日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか」ということも、浅井会長の断定的な言い切りですが、ここにも根拠は示されていませんよね。 一言で言えば、「本門の本尊」はもちろん御本尊様ですが、「本門の題目」は御本尊様に向かって唱えるお題目、「本門の戒壇」は御本尊様のおわします処です。 顕正会員のみなさん、ここで注意しなければならないのは、、「本門の題目」は、ただ南無妙法蓮華経というお題目が「本門の題目」なのではなく、御本尊様に向かって唱えるお題目が「本門の題目」です。 同様に「本門の戒壇」といっても、建物に主眼があるのではなく、「御本尊様のおわします処」が「本門の戒壇」であるという点が重要ですよ。 三大秘法といっても、あくまで御本尊様が中心であるわけです。 まずこのように、三大秘法の捉え方自体が、日蓮正宗の僧俗と顕正会員とでは、違っているのです。 それで、三大秘法を六大秘法に開かれるにあたって、「本門の本尊」に人と法があり、「本門の題目」に信と行があるように、「本門の戒壇」に事と義があることを日寛上人が示されとたいったところでしょうか。 顕正会員のみなさん、何も最初に「御遺命」があって日寛上人が三大秘法を六大秘法に開かれたのではなく、御本尊様を中心に捉えていけばよいと思いますよ。 浅井会長は、「日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか」とういう根拠となる明確な文証を、顕正会員のみなさんに提示すべきですよね。 おおっ!! それ (d―。―b) いいね~♪ では、顕正会員のみなさん、この件を浅井先生にお願いしてみてください d(゜ー゜*)ネッ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月13日 22時01分40秒
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