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カテゴリ:富士の信仰と化儀
お墓について
お墓の「墓」という字は、土の上に人が横になり、その上に日が当たり、草が茂っている形をあらわしています。つまり埋葬した遺体や遺骨をおおっている土盛り(塚)を意味しているのです。もっと簡明に言えば、「墓」という字は死者の遺骸や遺骨を葬る所を意味しているのです。 一般的には、遺骨を埋葬する敷地とその上に立つ墓石などを総称して、お墓と言っています。特に土葬の土地柄の所では、石碑の代わりに木の墓標を使うこともあります。 石を使う風習は古代の縄文時代からありましたが、後に仏教が伝わって、その造塔思想の影響から、埋葬した部分の上に仏塔を模した石碑を立てるようになったとされています。 ともあれ、日蓮正宗では御本仏・日蓮大聖人の教えに基づいて、葬儀や追善供養の在り方と共に、お墓についても厳格な化儀としての意味があります。 もちろん、第六十六世日達上人が 「我々の行く道はもう決まっておる。大聖人様の下である。死んで行く所が無くてどこへ捨てられるか分からないようでは困るが、ここに大聖人様とつねに生きておるときは御本尊様、死んでも大聖人様の下であるという、固い決心のもとに信心していっていただきたいと思います」 と御教示されているとおり、生も死も、共に大聖人のもとに住したいと願う、信心の一念が大切であることは、言うまでもありません。 ◇ 人間の体とお骨 ◇ 仏教では「人間の身体をはじめ森羅万象は、地・水・火・風・空の五つの要素が仮に和合したものである」と説いています。当然、人間は死によって、その和合したものが崩れ、五つの要素は離散することになります。しかし生命それ自体は、生前につくった業によって、また仮に和合して善悪の生を受けることになります。 このことから、あくまで仏法の因縁因果から見れば、遺骨は身体の一部であり、故人の生命全体と見ることはできません。 仏様の身体で言えば、仏の一つの身体に生身と法身とがあります。生身とは釈尊のような仏の生身の身体そのもので、法身とは法体そのもの、真理そのものということです。 またこの生身には、心身を含んだ全身の舎利と、肉体の一部としての砕身の舎利があります。火葬した遺骨は、この砕身の舎利ですから、仏の心身全体を指す全身の舎利には及びません。ですから、 『法華経』の法師品には 「舎利を安んずることを須(もち)いず」 と説かれているのです。つまり仏法の生命観・仏身観から言えば、たとえ仏の遺骨(砕身)であっても、礼拝の対象(本尊)とはなりません。仏の遺骨でさえそうなのですから、私たち凡人の遺骨そのものが、礼拝の対象となることはありません。 と言っても、遺骨そのものが無意味であり、無用のものであるとないがしろにするのではありません。反対に故人の遺体の一部ですから、細心の注意を払って丁重に取り扱うように教えています。のみならず、正しい信仰に則って、真の報恩感謝となる追善供養を、真剣に心がけていくように教えています。 ◇ お骨と追善供養 ◇ 大聖人は、『本尊問答抄』に 「願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候」(全集 三七四ページ) と仰せになられています。 つまり、この妙法の功徳を以て、父母や師匠をはじめとする一切の生きとし生けるものに回向しよう、それを請い祈っています、ということです。 ここに大聖人御自らのお振る舞いにことよせて、私たち自身の仏道修行による即身成仏の功徳を、他に向かわせ、利益することの大切さを教えられています。 当然、故人の回向に対しても、あくまで御本尊様に読経・唱題申し上げて、その功徳を故人に向かわしめることが、本当の追善供養の在り方となります。また、直ちに遺骨を礼拝の対象として行うのではありません。 そのことを、第九世日有上人も 「仏界より九界を利益する姿なり」と御教示されています。 つまり日蓮正宗における追善供養とは、あくまで仏界(本尊)より九界(凡夫)を利益するところに、大きな意義があるのです。実際、大聖人が富木入道殿に与えられた『忘持経事』にも、 「富木殿は、離別忍びがたい母のお骨を首に懸けて、足の向くままに街道に出て、下総の国から甲州身延の地に参詣して来た。そして、本門の御本尊様の御宝前に母の遺骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、その尊容を拝すると、歓喜が一身に溢れ、心の苦しみがたちまちになくなってしまう。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口である。…その後、随分に追善回向を奉修し、つつがなく帰られた」(取意) と説かれています。 ◇ 墓石と墓参 ◇ 日蓮正宗の化儀から言えば、当宗の僧俗の墓地には、妙法の題目を認めた墓石を建立することが前提となっています。 そして墓石にお題目が刻んであれば、謗法に与同する姿がない限り、村落の共同墓地内であれ、一般の霊園内であれ、墓地の所在を問われることはありません。 大聖人御在世当時の故人の遺骨も、それぞれの墓地に埋葬されて、妙法の題目によって回向されていました。それは大聖人自身が、南条七郎殿の墓参をされていること、弟子の日興上人を同じ南条殿の墓参に遣わされたこと、更にまた弟子の大進阿闍梨を高橋入道殿の墓参に遣わされたことなど、御書数編の記述が物語っています。 当然、現在でも私たちは、埋葬やその他の墓参などのときに、方便品・寿量品(自我偈)を読経し、お題目を唱えて、追善の回向を行うのです。 このようなことから、寺院が信仰の根本道場であることは当然ですが、これに準じて日蓮正宗の墓地などにも、死後における信仰の道場としての大きな意義があるといえます。 日蓮正宗の寺院の墓地に、三師塔、つまり日蓮大聖人、日興上人、日目上人の供養塔が建立されていますが、これは、その墓地が妙法の威光にあまねく照らされた、死後における信仰の道場としての意義を有することを端的に表しています。 当然、御信徒にあっては、日蓮正宗の寺院の本堂における法要を済まされ、次に三師塔に詣でて、その後に各自の墓地にお参りするというのが正しい在り方です。また共同基地内や一般の霊園内に墓地がある方も、まず寺院での法要を済まされ、その後に各自の墓地にお参りするようにして下さい。 その際、お塔婆を持参し、墓石の後方に建ててから、読経・唱題を行って下さい。 大聖人が『上野殿後家尼御返事』に、 「いかにも・いかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし」(全集 一五〇六ページ) と仰せになられていることを、忘れないようにしたいものです。 (大白法第394号) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年09月29日 19時45分20秒
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