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顕正会 『叱狗論』

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2009年07月19日
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では、本門の本尊についてから、いきましょうか!


(正像の本尊)


大聖人様は


正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。(観心本尊抄・御書654頁)


と御指南されていますよね。


また、日寛上人も『観心本尊抄文段』(御書文段203)には


若し天台大師は止観の四種三昧の中には弥陀を以て本尊と為し、別時の一念三千の時は南岳所伝の十一面観音を以て本尊と為し、正しく法華三昧の中には但法華経一部を以て本尊と為す。若し伝教大師は迹門戒壇の本尊は四教開会の迹門の教主釈尊なり。根本中堂の本尊は薬師如来なり。但し多くの相伝有り云云。


ここは、代表的な像法時代の迹門の伝教大師と比較してみますね。


(天台宗の本尊)特に一尊一仏に限定せず、久遠実成無作(くおんじつじょうむさ)の本仏とする。


※延暦寺内だけでも「薬師如来」「大日如来」「釈迦如来」「阿弥陀如来」等が祀(まつ)られているみたいです。何が本尊でも良いよう感じですね。

 
で、大聖人様が御顕現された御本尊は、


(本門の本尊)『寿量品』に建立するところの本尊


「本尊とは法華経の行者の一身の当体(とうたい)なり」(御義口伝・御書1773頁)


「無作(むさ)の三身(さんじん)とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云(い)ふなり」(御義口伝・御書1765頁)


「寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初(そのかみ)より以来(このかた)、此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊是なり」(三大秘法禀承事・御書1594頁)


と御教示されています。


 
『寿量品』には、釈尊が説いた在世(ざいせ)脱益(だっちゃく)のための文上『寿量品』と、末法下種のための文底『寿量品』があります。




以下は、御宗門の日寛上人の六巻抄と日寛上人と興学より引用してみますね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



問う、文底独一本門を以って事の一念三千の本尊と名づくる意如何。(六巻抄47頁・文底秘沈抄第二)

答う、云云。

重ねて問う、

云云。

・(47―末)次に、「但文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名づける意はどのようなものか」という問いを設けられていますが、その答えには堅く口を閉ざされました。(日寛上人と興学より)


問う、修禅寺決に曰わく、南岳大師一念三千の本尊を以って智者大師に付す、所謂絵像の十一面観音なり。頭上の面に十界の形像を図し、一念三千の体性を顕わす、乃至一面は一心の体性を顕わす等云云。既に十界の形像を図し顕わす、應に是れ事の一念三千なるべきや。


・(48-3) しかしこれについて、今度は『修禅寺決』を引いて、別の角度から問いを発せられます。それは南岳大師(天台の師)が天台智者大師に付した、十一面観音の絵像があります。 頭上の面に十界の形像が図された、全体で一念三千の体性を顕すと伝えられています。 


一念三千の具象化として事相にあらわされたものと言えますが、これが事の一念三千の本尊になるのかという問いです。(日寛上人と興学より)



答う、之れを図し顕わすと雖も猶お是れ理なり、何んとなれば三千の体性、一心の体性を図し顕わす故なり。應に知るべし、体性は即ち是れ理なり。故に知んぬ、理を事に顕わすことを。是の故に法体猶お是れ理なり、故に理の一念三千と名づくるなり。例せば大師の口唱を仍お理行の題目と名づくるが如し。若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。(六巻抄48頁・文底秘沈抄第二)


・(48-6)日寛上人ははっきり否定されます。


 そもそも十界の体性とは、あくまでも心の中に思い描いた観念であり、それを事(形)に顕わしても、元々の法体が理であれば、事の一念三千とはなりません。 天台大師も題目を唱えましたが、これも「理行の題目」で、「事行の題目」でないことは、大聖人が『三大秘法抄』(新1594)などで仰せられている通りです。 いわば、理論・理屈である「理」に対して、「事」はその具体化・具象化であるという短絡的な理解に対して、以上の例を挙げて日寛上人は否定されたのです。


・(48-9)こうした論旨をふまえた上で、日寛上人は「事の一念三千の本尊」の締めくくりとして、以下のように示されました。


 「若し当流の意は事を事に顕す、是の故に法体本(ほったいもと)是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」(日寛上人と興学より)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



大聖人様の御本尊は、理の一念三千の本尊ではなく、事の一念三千の本尊であることには、顕正会員も異論は無いですよね。


つづく







最終更新日  2009年07月19日 15時05分35秒
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