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福長浅雄顕彰委員会のあゆみ
昭和51年 福長浅雄氏の偉業を記念して、その生誕の地である浜松市大塚町に記念碑を建設する計画が持ち上がる。【民間機発祥の地 記念碑建設委員会】と称し、メンバーは次の5名 石川浅雄、小島国憲、志村好一、後藤忠好、村下 昇 昭和52年9月 建設予定地の転用申請 昭和53年 記念碑建設計画の概要 1. 【国産旅客機発祥の地】の石碑建立。 2. 天竜号(製作した飛行機の愛称)の模型を石碑の上へ乗せる。 3. その周囲は児童遊園地として、遊具を設置する。 4. 【天竜物語】を刊行する。 その後、この計画は具体化が遅れる。 昭和55年7月 福長浅雄氏は、飛行機製作に協力された方々に対する感謝の意を込めて、浜松市大塚町の水神宮境内に【謝恩の碑】を建立する。 瀧川孫雄、鈴木敏郎の両名が、福長氏宅を訪問し懇談する。この折に記念碑建設その他について、大塚町の方々に一切をお任せしたいとの話あり、快く承諾して帰る。 昭和55年8月 福長浅雄氏逝去。 同年11月 記念碑建設について、ご遺族より500万円の寄付を頂く。 同年12月 石川、小島、瀧川、鈴木の4名 初会合。 この集まりを「福長浅雄顕彰委員会」と名付け、記念碑建設並びに記念事業の推進に当たることとする。 昭和56年2月 浜松市立飯田小学校を記念碑建設場所と決め、浜松市教育委員会の了承も得られたので、建設位置を森校長、熊沢教頭立会いのうえ玄関脇とする。 同年4月 記念碑デザインを浜松市助役 中沢一夫氏に依頼、快諾を得る。 デザインの最終案は、航空自衛隊 村下昇氏が昭和52年にデザインされた案を参考にされたものとなる。 同年5月 記念碑最上部に乗せる【日本最初の旅客機】の模型を富山県高岡市のワシアルミ株式会社に製作を依頼する。 同年7月 記念碑建設の施工を林工組に依頼、福長氏遺族より100万円の追加寄付を頂く。 同年8月 記念碑の題字【日本最初の旅客機】を日本大学名誉教授 木村秀政氏に依頼する。 記念碑の台座中心部へステンレス製のカプセルを格納した。このカプセルの中には福長浅雄氏が大正10年に飯田村村長より表彰された際に贈られた金碑が納められている。 このカプセルの製作は浜松市下石田町 中野唯雄氏に依頼。 同年9月19日 記念碑完成除幕式、記念式典(木村秀政氏の講演もあり) 昭和57年5月 記念事業の一つとして、飯田小学校児童を対象とした創意工夫作品展を催し、その優れたものには賞状とメダルを贈ることとし、細部について学校側と打ち合せをする。 この行事の内容は学校側に一任する。時期は9月20日近くを予定。 同年9月20日 【夢ある飛行機】を題として全児童に絵を描かせ、その入賞者を体育館に集まった全校児童の前で表彰した。 航空史研究家 平木国夫氏の講演もあり。 毎年、飯田小学校では福長デーと名付けた行事を行う。 (内容は、学校に一任) 平成3年 委員会のメンバー 石川 浅雄氏死去 大塚町の辻 良夫、鈴木 克育両氏を委員に加える。 飯田小学校の福長デー 続く(内容は、小学校に一任) 平成20年 辻 良夫氏 脱会、代りに大塚町 滝川幹夫氏 入会。 平成21年 委員会のメンバー 小島国憲氏死去 平成22年 委員会メンバーに 下飯田町の杉本守之氏 入会。 ************************************************** 航空情報1981年12月号 「晴天乱流」より 日本最初の旅客機の碑 木村 秀政 先日、浜松市の石川浅雄氏が突然訪ねて来て、今度郷土の先輩福長浅雄氏の記念碑を建てることになったので、その碑文を書いてほしいという。この頃は、このような碑文のほか、額、色紙など苦手の毛筆を使って字を書かされる機会が多く、そのたびに、どうしてもっと習字に力を入れなかったのかと後悔する。しかし、私が学生時代から尊敬していた航空界のパイオニア、福長浅雄氏の碑とあれば、お引受けしないわけにはいかない。 恥をしのんで、どうやら書きあげた。 そんなわけで、今年の9月19日に行われた碑の除幕式に招待され、久しぶりで浜松市を訪れた。浜松市は今から44年前、航研機の滞空試験のために何度かやってきたことがある。パイロットの藤田少佐といっしょに、羽田から航研機で飛んできて、美しい浜名湖を始めて空中から見たときの感動を今でも忘れられない。古くから陸軍の航空第七(爆撃)連隊があり、当時極秘中の極秘とされていた陸軍の92式超重爆(4発、総重量25.5トン、ユンカースG38改造)の基地だったという土地柄だけに、この町には今でも飛行機マニアが多く、自作飛行機のグループ活動もなかなか盛んである。今度この記念碑が建てられるようになったのも、昨年福長氏が88歳の天寿を完うして逝去されたとき、ご遺族の要望に沿って、上記の石川氏と小島国憲、瀧川孫雄、鈴木敏郎の4人の飛行機マニアが福長浅雄顕彰委員会を組織して奔走した結果だという。 碑が建てられたのは、福長氏の母校である浜松市立飯田小学校の前庭で、環境はひじょうにいい。また学校の校内だから、心ないいたずらをされる心配もなく、いつまでもよい状態で保存されるであろう。 除幕は2人のかわいらしい小学生の手で行われた。碑にかぶせてあった白布をさっと引くと、しゃれたデザインの碑がパッと目の前に表われる。飛行機のロールアウトと同じで、なかなかいいものだ。 碑は高さ2.5m、その前面に「日本最初の旅客機」という私の書いた碑文があり、最上部に黒塗り青銅製の天竜10型旅客機の模型が取りつけられている。図面で見たとき、飛行機の形がうまくできるかと心配していたが、完成されたものを見ると、私が学生の頃見た天竜10型のイメージがそのまま出ていて、なかなか上出来である。天竜10型は福長氏の創立した福長飛行機研究所で大正11年(1922年)に開発したもので、エンジンはイタリア製のフィアット300馬力、乗員2名はオープンコックピットだが、乗客4名は、ガラス窓のついたキャビンの中に乗る。この構想は日本では初めてで、その意味では文字通り日本最初の旅客機なのである。 しかしわが国ではまだこのような旅客機を使って旅客輸送を行う気運が熟しておらず、せっかく出来た天竜10型も、本来の目的には使用されず、令弟の福長四郎氏の操縦により帝国飛行協会主催の競技会で、滞空3時間48分、飛行距離354kmの好記録を出したにとどまった。しかしこの時点でキャビンつき旅客機の開発にふみきった福長氏の先見性は高く評価されるべきで、顕彰委員会の諸氏が福長氏の功績をたたえる記念碑を建立するにあたって、その象徴として天竜10型機を選んだ意図もこのあたりにあるだろう。 碑の傍に黒い石に文字を刻んだ銘板があって、この碑を建てた趣旨が小学生にもわかりやすい文章で書かれている。「わが飯田地区が生んだ先覚者福長さんの業績を称えてこの記念碑を建てた。その優れた先見性と、未知の領域に挑戦する意欲は後輩の手本となる。この碑をあおぐ子供たちが、自分の将来に大きな夢を抱き、困難に敢然と挑むことを願ってやまない」という意味で、なかなかの名文である。 帰宅してから、改めて福長さんの伝記をしらべてみた。福長浅雄氏は明治26年、静岡県浜名郡飯田村の農家の三男として生まれた。高等小学校卒業後父親とともに兵庫県に出て製材業を始めたが、何事にも研究熱心で常に新しい工夫、改良を怠らず、また思いきって最新式の外国製機械を購入する等の積極的な経営が実を結んでたちまち財をなした。その資金をつぎこんで、少年時代からのあこがれであった飛行機の研究に没頭する。大正8年、ついに念願がかなって、静岡県掛塚町の天竜川河原に福長飛行機研究所を設立、飛行機の製作と飛行家の養成を始めた。彼が26歳のときであった。 この種の研究所として、当時千葉県を根拠に活躍していた伊藤、白戸等もあるが、どれも経営者の大空への情熱と乏しい自己資金だけによって支えられていたので、やがて大資本の航空産業進出とともに姿を消す結果となった。福長研究所も大正9年の天竜1型から大正11年の天竜10型まで9機種(4型は欠番)で一応新規開発の幕は閉じるが、こうして眺めると、やはり10型旅客機が、福長氏の業績を象徴する存在であったことに気づく。 (きむら ひでまさ・日本大学名誉教授)
カテゴリ:伝記
![]() 設計 木下善寿 製作 福長飛行機製作所 1922(大正11)年に完成した旅客4人乗り輸送機で、当時としては大変に意欲的な設計として注目された。翌年、下志津の第4回民間飛行大会に出場し、距離競技で531km(3時間48分)を飛び4位に入った。 発動機の後ろに4座席のキャビンがあり、操縦席は並列複座であった。 本機ははじめ民間において上海航空路開拓のために試作された長距離用機だったが、のちにこの計画が中止となり、主翼中央部の燃料タンクスペースを客室に変更したともいわれる。 [形式・構造]単発 複葉 木造骨組 羽布張り 全長:9.40m 全幅:12.95m 全高:3.10m 主翼面積:38.0平方メートル 乗員:2人+4人 発動機:フィアット 水冷式直列6気筒300馬力 自重:1100kg 全備重量:1800kg 最大速度:180km/h ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.11.01 17:28:42
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