YEMEN―イエメンの旅 5



まるくん駅舎


まるくん駅舎

― 闇にカマリアの灯りが浮かび 頭上には月が ――その3








サナアに戻りホテルで一休みした後、いつものようにスークを訪れた。
ホテルの丘を下り、マーリブ行きの乗合タクシー広場があるバーヴシャウブからスークへ入る。
日の入り近くになると、町のあちこちから温泉街のように煙が上がる。
夕餉の支度かと思えばさもあらず、街路のあちこちでゴミを焼いているのだ。
今晩は木曜日の夜、明日金曜は聖なる休日だ。
大通りから交差して延びる路地のあちこちに裸電球が数珠つながりにぶらさげられている。
これが何を意味するかは、エジプト、ギザのピラミッドがある丘の麓の、その昔はピラミッドの財宝を狙う盗賊の巣窟であった、ナズラット・サマーン村を夜訪れたことにより知っている。
それは何か?――夜通し、結婚式が行われるのだ。
煌々と輝く赤青黄色の電球の下でジャンビア・ダンスをしている路地にお邪魔してみた。
やはり、男性ばかりで盛り上がっている。禁酒の国ながら皆がかなりハイになっている。
カートの魔力ですね(笑)。
遠目から見学していた異邦人の私に誰彼となく招かれた。
この夜はジャンビアばかりでなく、肩にライフル銃までかけられた。
酒も飲まずに私もつられてハイになる。今日だけで、何度ジャンビア・ダンスを踊ったことか。
早々に踊り疲れて軒下で座り込んでいると、ジャンビアを貸してくれたり世話好きの男が茶色の茶碗を
差し出してきた。コーヒーをくれたようだった。
「ショクランッ(ありがとう)」一口啜ると、なんともいえない酸っぱい味がした。
ギシルというコーヒー豆の殻を煎った飲み物だと後に聞いた。
お礼を言って、花嫁のいない結婚式を跡にした。
昨夜約束した店へ訪れるためだ。
 そこは、バーヴシャウブをくぐってしばらく進んだ通りにあるテープ屋だ。
昨夜、ここでアラビア歌謡やジャンビア音楽をたくさん視聴して、大量のテープを購入した。
そのとき、カートで頬を膨らませた男にカタコトの英語で誘われた。
「明日もサナアにいるかい?カートパーティはどうだい?うちの店の裏であるから」
サナアのような都市部では、貧困からくるスリなどはいるにはいるらしいが、敬虔なイスラム教徒が多く、ナジプサが忠告した盗賊はともかく、治安についてはさほど問題ない。
彼らの自尊心さえ傷つけなければ、都会のサナアの夜でも、安心して外国人も過ごせる。
「じゃあ、明日店に寄るよ」と私は少しためらいながらも返事した―――。
 私が店を覗くと、Tテープ屋の店主は即座に雇用者らしい(店主とそっくりの)男に「案内させる」と告げた。おそらくふたりは兄弟だろう。
「店の裏」というのは意思の疎通の問題か、距離間の感覚の問題かはわからないが、暗い路地を少々歩かされた―――。
 男に促され、派手な装飾が施してある扉から家に入る。
玄関を跨ぐホールだった。
脇にある階段をらせん状に登る。
カートパーティの会場がどこかは、サナアの旧市街を見学したときナジプサから聞いた話や今朝ロックパレスを見学したことで知っている。
そのとおり、最上階の応接間に案内された。
「しばらく待ってくれ」と男はジャスチャアをして階段を降りていった。
しかし、まだ来客はなく、私ひとりがポツンと残された。
部屋中絨毯が敷かれ、四方の壁際にひじ掛けがついたクッションが置かれている。
絨毯の中央には、客を待つカートの枝の束が山積みされていた。
ほどなくして男が戻ってきて、真鍮のお盆に載せたチャイ(お茶)のグラスを渡してくれ、座るように勧められた。
広い応接間に会話がほとんどないまま過ぎていった。
お茶を飲みながら、いつおいとましようかとばかり考えていた―――。
 結局、このマフラージという応接間に三々五々集まるであろうひとびとの姿を見ぬままに、この場を離れることにした。
男は店主に申し訳が立たぬと不満顔であったが、私は腕時計をさして「宿に帰らなければ」と振り切った。
暗い階段をひとり降りて、外に出て家を見上げると先ほどまでいた最上階のカマリアの窓から七色の光が溢れていた。
あたりは太古の海に漂っているかのごとく暗闇であったが、あちこちに半月型のカマリアが月のように浮かんでいた。
 路地を歩き、なんとか大通りにでた。
足はホテルではなくスーク奥深くへと自然と向いた。
真っ直ぐ進むとスークはとぎれ、大きなモスクに行き当たった。
明かりが洩れている窓からなかを覗くと一日最後の礼拝も終わり、ひとけは少なく清掃をしている男が数名いるだけだった。
モスクのミナレットの上には、本物の半月があった。

―― 天空の城にてジャンビアを踊り、いっきに海へ ――その1


コーカバン




 親しんできたサナアの町とお別れを告げ、ホディダに向かう。
ホディダは紅海に面した港町だ。
その町にいたるまでの道のりは風土豊かなイエメンを最も象徴した魅惑的な行程だ。
まず、高原地帯のサナアを出発し、しばらく緑豊かな田園(畑だが)風景。だんだん山道になり、やがて旧北イエメンの南北を縦断する3千メートル級の険しい山岳地帯になる。
そして、西へ向かいながら高度を下げていく。平野が広がる。熱帯性気候の地帯だ。
紅海沿岸のティハマ平原である。ホディダはまもなくだ。
今日一日、すばらしいスペクタクルの連続であった―――。

 サナア郊外に中国風の東屋があり、そのまわりに漢字で名前が刻まれた墓碑が多くある。
アラビア半島にあって何故?と違和感が多少あるが、ナジプサの説明を聞こう。
「サナアからホディダへ通じる道はイエメン最初の舗装された幹線道路です。この道は1961年に中国の援助で、中国人労働者により完成しました。起伏の激しい山岳道を作るのが中国人は得意としているのです。しかし、工事は難航し、ダイナマイトや転落などにより、多くの犠牲をだしました。彼らを弔うための墓碑なのです」
しかし、帰国後、図書館でイエメンの文献を読んでいるとき驚くべき記述があった。
「――自分たちの領土を勝手に掘り返すとはなにごとかと、激昂した部族の襲撃を受けライフルで撃たれて亡くなったひとも多く――」なのだそうだ。なんとも理不尽な異国の地での最期ではないか。
 サナアを発ち、1時間ほど走ると、車はどんどん高度を下げていく。
羊の放牧をしている親子をみかける。羊が牧草をはむ向こうに山がある。
それが、イエメン最高峰、シュワイヴ山だ。標高は富士山より高い3,760メートルあると地図にある。どんなにか険峻な山かと期待していたが、富士山どころか阿蘇山外輪の米塚のような山だ。
 穏やかな山道をジープは走行しはじめた。
道の両脇にはコーヒー畑だ。
 この地方は春夏にはかなりの雨量があり、古来よりアラビアでは「バニー・マタル(雨の子孫)」と呼ばれている。旧約聖書が伝える―大洪水の後にノアが方舟から降り立った地―はトルコ東部のアララット山であると伝承されているが、シュワイヴ山もその候補にあがるらしい。
ノアの息子セムがサナアの町をつくったこととい、イエメンも旧約聖書の伝承が多く残されている。
ところで、洪水がおさまり、ノアが最初にしたことがワイン作りとされているが、アラビア語でワインをカウアといい、コーヒーと同一言語である。
さて、コーヒーである。
エチオピアあたりの東アフリカ発祥のコーヒーは、紅海を隔てた対岸にあたるイエメンのバニー・マタル地方が、温暖な気候と一定の降雨量による条件が整って、最高級のモカ・マタリを生んだ。
「コーヒーが廻り世界が廻る―近代市民社会の黒い血液―(臼井隆一著・中央公論社刊)」に詳しく述べられている。
イエメンで採れるコーヒーが紅海の港町モカで積み出され、ペルシャやトルコ経由でヨーロッパに広く伝わり愛飲されるようになった。17世紀、先の著によれば、「――増大の一途を辿る需要に対して、コーヒーの唯一の供給源は依然、イエメンだけである。イエメンは世界一場に独占を誇った――」らしい。そのことは、ハドラマウト地方が乳香という芳香によって古代ローマ人をして「アラビア・フェリックス(幸福のアラビア)」と呼ばせた時代から随分の時を経て、南アラビアが再び芳香を放つ幸福の地として認知された一時代ではなかったこと思う。
しかし、歴史の狭間で輝きを放つのはどこの国、どの時代でもそうであるように、一瞬のことで、現在では国の総輸出量の10%あまりあったコーヒーは、南米や東南アジアの大規模なプランテーションに押され、また生産もどんどん減少傾向にある。イエメン人自らの意思によって。それはなぜか?
「カートの栽培に変わっているのです。カート栽培はコーヒーのように手間がかかりません。しかも即現金になります。自分たちも楽しめますし」ナジプサは苦笑いして言う。
イエメンのどの町も喫茶店など皆無で、また国民もコーヒーを飲む習慣があまりない。
よく飲まれるのはチャイ(紅茶)で、昨晩サナアの路地裏でいただいたようなギシルである。
ギシルとは、コーヒーの殻を煎り、砂糖と生姜で味付けした飲み物だ。
なるほど、車窓の風景はまたたく間に、コーヒー園からカート畑に変わった。
街道には日本のスイカ売りやリンゴ売りのような青空店のごとく、通行者を待ち構えている。
我がドライバーたちも、一々停車してはカートの束をつかみ吟味している。
カートは早朝に若芽を摘み、トラックで大消費者を抱えるサナアなど都市部の市場に運ばれ、その日のうちに全て消費されるらしい。
昨日、ジャンビアダンスをみかけ、車を止めてもらった村はカートスークで有名なスーク・ワル・アディであった。
ドライバーたちも毎日、一定の時間になるとこぞってカートを噛み始める。

隣国サウジアラビアでは、イスラムの戒律に則り、麻薬に準じるものと指定され、カートは禁固刑であるのに比べ、いまさらながらイエメンはカート天国だ。
嘘か本当かイエメンでは「閣議ではなく、大統領主催のカートパーティで重要施策が決まる」だの、「近年の経済的停滞を解消するためカート対策委員会が設けられたが、会議の中断中、委員全員がカートをはじめた」なんて逸話もあるくらいだ。
品質にもよるが、一束千円近くにも高騰したカートをネコも杓子もこぞって楽しんでいるが、70年代のオイルブームにより、「サウジなどに出稼ぎに行きだして金銭的余裕ができた」かららしい。





緑がどんどん減り岩肌があらわになるなか、山岳ルートは急上昇して行き、やがてヘアピンロードの連続になってきた。
今日こそ「3号車のアリ」の車でなかったことを幸運と思ったときはない(笑)。
カーブごとに大きく左右に揺らしながら見たのだが、岩山の急傾斜に段々畑が山頂に向かう階段のごとくへばりついている。ズラと総称されるアワやヒエなどの穀物類だ。
そして、段々畑が延びるその先の頂上であるが、ずいぶんと険峻な岩山かと思いきや、なんと驚くべきことにそれらは村の家である、というではないか!
イエメンで最も驚愕する瞬間だった。
たしかに、山岳部族と再々聞いてはきたが、まさか山の頂上に・・・・・・。
まさに「天空の城」である。
何にゆえ、こんなところに村を築かねばならなかったのか―――?
「――山のてっぺんに住んだのは、わずかな土地と水などを巡って村同士の抗争が頻発していたからである。抗争時の防衛の便を考えて、人びとは畑の上に住むことにした。山のてっぺんの村どうしの行き来は容易ではない。こうして村が分散し、お互いに孤立した集団は国家を必要としない――。『季刊・民俗学61号』佐藤寛寄稿」なのだそうである。
なるほど、旧北イエメン社会をもがこの文章に凝縮されているではないか。
決して昼真っからカートにジャンビア・ダンスにうつつをぬかすばかり民たち、ではないのである。
 その、「決して怠惰ではない民」が暮らす、「国家を必要としない集団」の村のひとつを訪れた。
サナアからホディダ間は直線にして約200キロの道のり。道からはずれれば断崖絶壁の奈落の底、命からがらといえばやや大げさだが、ようやく中間地点のマトゥナ峠だ。
峠近くの宿場町マナーハに到着する。
マナーハから、さらに悪路のでこぼこ道を行き、臀部の苦痛を耐えながら30分ほどで、巨大な山からタケノコがニョキニョキ生えたような、例の高層家屋が寄り添う村に到着する。
ハジャラ村という。
堅牢な城壁に囲まれた村、はすでにイエメンに来てもうおなじみだが、なにせ築かれた場所が場所である。
「ハジャラはおよそ2,400メートルの山に築かれています。人口はおよそ400人。雨の恵により、村びとはほぼ自給自足の生活を送っています」
イエメンではおなじみの村へ入る唯一の門をくぐると、これまたおなじみの高層家屋の家々が出迎える。
玄武岩や花崗岩を積み上げた家にはサナアと同じく漆喰が塗られ、サナアと違う点は半月形のステンドグラス「カマリア」ではなく、アラベスク模様の木窓であった。
門の外に出、マナーハから来た道を少し戻るとイエメン観光局が発行するポスターなどでつとに有名な絶壁から生えたハジャラ村全景が見渡せる。
つくづくその凄さがわかる。
ここは、たまたま「青空トイレ」を探し求めて歩いていたとき、ふと振り返ったとき気づいた。
ここを天空の城、と呼ばずして何と呼ぼう。

zyanbia marukun



しばらく呆然とした時間が過ぎていった―――。
 呆然自失から呼び覚まされたのは、正午のジャンビア・ダンスの音色だ。
礼拝もそこそこに(?)ドンタッタ、ドンタッタ、ドンドコドンと鐘と太鼓の音。
みんな、相変わらず好きだなー・・・・・・・そして私も(笑)。
「兄ちゃん、また性懲りもなくやっとんかいなー」呆れられるのは私。
「昼食前の準備体操ですがな・・・・・」
「嘘こき、目が訴えとる。おっちゃんらが持ってる鉄砲触りたかったんやろ?(笑)」
―図星ですがな・・・・・―
このハジャラ村も含め、このルートではほとんどの成人男子がライフル銃を携帯している。
―――訪れた時期が5月初旬、ちょうどコーヒー豆の収穫の時期であったが、農作業に向かうひと、ちょっと散歩をしているだけのような老人も、みんなみんな肩にライフル銃。
 マトゥハ峠に着く前に、あるコーヒー園にお邪魔し、そこを見学した。
そのとき、同行していた女性が財布を落としてしまったらしい。
ことのいきさつは省略するとして、私は「3号車のアリ」の車に乗り、「4号車のアリ」と「5号車のアリ」ら(ややこしい)とある村へジープで向かった。
そこで展開したのは村びと約30人対、ドライバーたちのすさまじい口論であった。
くだんの女性が落とした財布はコーヒー園をくまなく探したたがどこにも見当たらず、コーヒー園にてまとわりついていた少年たちが拾っているのではないか?ということでの村への訪問らしい。
いや、すごいのなんの、5号車のアリはジャンビアの柄をもち抜かんばかりの格好だし、しまいに興奮しずぎた村の男のひとりが空に銃を向け打つなど、私は遠めにしていながらも怖くなり、サボテンに身を潜めて覗うばかり。
「アンタ、なにしに行ってん?」そのとおりなのだが、私にも立派な勲章がある。
サボテンに近寄りすぎて、トゲだらけの顔が――。
埒があかないまま、アリたちとコーヒー園に戻ると、どうやら少年が財布を発見した形で一件落着していたらしい。
「アンタ、また抜け駆けしてたん・・・・・」大阪のオバチャンにはしきりにうらやましがられていた。
―――しかし、ここ天空の城ハジャラはどこまでも陽気な舞踏会であった。




ハジャラを去り、マナーハに戻る。
マナーハのホテルで最も大好物の鶏の骨付き腿揚げを食べる。あとにもさきにも出会ったことのない美味さだった。私は今でも、この大好物をふるさとで食べるたび、空に届かんばかりのマナーハ村や、ハジャラ村のジャンビアダンスを思い起こす。
 マナーハからは下り道になった。
感嘆の声をあげながら、何台もの谷底へ転落した車を見かけた。
錆付いた戦車まで転がっていた。
 しだいに、山から渓谷の風景へと変化して、水をたたえた川があり沿線にはバナナ園がつづいた。
とある渓谷でドライバーたちのカート休憩となったが、肌や鼻腔になんともいえぬ生ぬるい空気がまとわりついてきた。
またしばらく進み、平原になり、窓からは熱風が入ってくる。
ティハマ平原だ。
「ティハマを見なければ、イエメンの半分しかみていない」は大げさではない。
これまでの高原気候から劇的に変化するのだ。
ミシェランの地図を見てみると、ティハマ平原は海岸に沿って山脈が縦断しているが、その幅は30キロから50キロ。地図では大部分が砂漠として描かれているが湿度100%近い熱帯性気候だ。
車中で、いながらにして体力が消耗してくるのがよくわかる。
ここを思えば、ルブアルハリ砂漠さえもかわいいものだ。
車中のムシ厚さに耐えながら私はジャンビアダンスの太鼓の音色に想いを馳せていた。
――どこかで聞いたことのあるリズム――
それは、母の故郷今治の春祭り「小鹿踊り」の太鼓にそっくりであったことに思いいたった。
耐えがたい暑さや砂が眼に入ったのではない、あきらかに違う涙が流れだした。
この旅のちょうど1週間前、今治の祖母は旅立っていった―――。

湿度はどんどん上昇する。
気候ばかりではない、風景も変わる。
平原に点在する藁ふきの家。そして通り過ぎていくひとの顔。
ここはアラビアではない。
――アフリカへ来た!――
私は「次に繋がる旅」は、ブラックアフリカのどこかになるだろうと、そのとき直感し、2年後に実現した―――。
 

 ホディダのホテルで荷を解き、「夕焼けの紅海へ行こう」と大阪のオバチャンたちをお誘いした。
「こんどは、抜け駆けしなかったでしょ(笑)」
「ナニ言うてんの!さっき私がロビー横切るとき、浜松のKちゃんを『海見に行かへんか』いうて誘ってたのしっかり聞かしてもろたわ」
「まぁまぁ、そう言わないの、責めないの(笑)」
「Kちゃんに「疲れているから」とあっさり断られてん、しかたなくアタシらをタクシーの割り勘要員で誘ったんちゃうの?」
―図星だ―
大阪のYさんと連れの札幌のHさんをタクシー代の割り勘要員で(笑)お誘いしたのは当たっている。
「で?どしたの?Kちゃんには断られたん?あんた、避けられてるんちゃうの?(笑)」
「違います!『疲れている・・・・・』と申しておりました」
「でも、タクシー待たせておいて、相変わらずこういうことは段取りええね!」
Yさんは、―相変わらず―、にアクセントをつけて皮肉る。
たしかに私はKを誘う前にタクシーをホテル前で待たせて交渉していた。
「紅海が見える浜辺まで日没まで。そのあとは、市民公園とタハリール広場を経由してスークのある通りからホテルまで帰る。オールクルージング、300リラ!」
まるでデートコースのような演出ではないか。
あとは、今晩のロマンチックな演出に思い出の花を添える女優の登場を待つばかり。
「なんで、YさんとHさんなん!(笑)」
「あんたには、アタシらで十分!」とYさんは笑う。
つられて、タクシーのドライバーまで意味がわからないまま笑っていた。 
ワイン色に染まった紅海に着いた。
海岸線には砂浜が広がり、黄昏時の夕涼みをするホディダ市民で賑わっていた。
「わぁー、大きなクラゲがワンサカいてる」Yさんは浜辺に打ち上げられた巨大なクラゲたちと戯れていた。
私は、夕日がいまかいまかと沈みゆく瞬間を捕えようと、カメラを構えている。
ファインダーから茜色に染め上げられた一色の海に人影が写る。
男がひとり、思索する賢者のように海を眺めている。
「絵になるなぁ」と、男に断りもいれてから何度かシャッターを切った。
白装束の髭がモジャモジャの宗教指導者のようなその男に写真を送ってくれ、と頼まれる。
容姿よりもかなり若そうな男にメモとペンを渡し、「オヌ、ワーヌ(住所)」を、と勧める。
しかし、男は微笑みながら何度も何度も自分が腰掛けている堤を指さすばかりだった―――。


旅行blogランキングバナー1




© Rakuten Group, Inc.