当たり前の雲の向こう

モザイク1


―当たり前―の雲の向こうに見えてくるもの
at 2003 07/10

 なんの問題もないように、さも自然体を装いふるまうこと――。
ここにこそ、アタシたちは日常の検証―気づき―が必要なのである。


 たとえば、アタシが書いてきた【3月の幸せ帳―驚く心】で取り上げてきた「こども」というコトバを考えてみよう。
アタシはなぜ、4月以降、わざわざまどろっこしいような「こたち」と書いてきたか?
「こども」という呼称は差別語ではないか?
そんな疑問からの出発だ。
単数である「子」は「小さい」の意であるが、大人と対立させたとき、どこか下位におかれた動きが隠されていないだろうか?
ども―という接尾語には、ただ複数を示すだけでなく、殿が「家来ども」と呼びかけるのと同じく、見下す意味がこめられているのだ。
一人称で「てまえども」とへりくだって言うのだが、はじめから相手に対して屈服したかたちになっている。
つまり、おとなが小児に呼びかけるとき、対等の者が話し合うのではなく、上下の階層を前提にしているのである。
同じ語源に「ばら―輩」がある。女ばら、役人ばら、と同類のあいだのみで使われ、現在のように細分化した秩序の社会がなくなれば、古語へと押しやられていった。
複数を示す尊敬語には「かた」がある。あなたがた、というように使う。
では「たち」はどうか?
辞書をひいてみると―――たち、は古くは敬意を含み、神や貴人にだけつけた。
現在では「ども」、「ら」のように見下した感じはないが「かた」ほど敬意はなく、普段は尊敬すべき人にはつかない―――とある。
 ではなぜ、こたち、ではなくこどもなのか?
それは、ども、が動物に使用されたことと関連があるのかもしれない。
小児を成人した人間と比べ、小動物と近いような感覚がアタシたちの古層に残ってはしないか?逆にいえば、―子を犬や猫のように可愛がる―、という感覚もおなじことなのである。
つまり、子を「所有」している感覚があるのではないか?
一本立ちできなくて、弱々しく愚かで、ちょっと動物に近いもの――それがあなたがたの「こども」像なのだ。
女ども――というコトバを遊んだのはもちろん男だけである。
語感には男の優位性を男たちが確認している響きがあるのはいうまでもない。
もちろん、女性の地位向上にしたがい、気軽に使われなくなった。
アタシが家内、嫁、奥さんと呼ばずハニーとか妻という呼称をさんざん用いてきたのはここに同じ意味が込められている。

対等――という意思表示だ。

同じように旦那、主人という呼称を徹底して糾明してきたのも同じ意である。
あなたがたのBBSでも何度も言ってきたように旦那の反対語は使用人、主人の反対語は奴隷なのである。
日常で、当たり前のように使うことばですら、このように差別性というのは隠されている。

 それから、差別用語に関していえば、アタシは当事者主義ということを主張したい。
差別される(された)人にとって、自分たちがなんと呼ばれるかはもっとも気になるところである。
呼称への気がかりが差別の発見になり、それを蔑視と認識し、廃止を求めてきた例も多くある。
例えば「めくら」と書いて、その語がただたんに差異を表すのみでは問題ではなかった。
そこに負の価値を与えなければ問題ではなかった。
この呼称にさげずみ、同情、劣性、拒否といった感性がつきまとうからこそ、問題なのである。
つまり、アタシは差別語に対する態度は、「差別語によって指し示された当事者の意見にしたがう」、ということだ。
客観性――、などという幻想を抱いてはならない。

そして、差別は差別語の有無だけではない。
差別しようと意思すれば、どんな態度でも表現できる。
無言、身振り、表情、舌打ち、なにかを蹴る――という身体メディアを用いて。
あるいは文字表現、映像表現、音声表現、図像表現でも可能だ。
つまり差別の問題は「コミュニケーションのすべての様態」とその「表現」において論じられ、教育されなければならいのだ。
日常的な家庭での会話、立ち話、手紙、電話、ファックス、PC、メディア、CD、ポスター、工作物の設計、建物の設計、都市計画・・・・・日常のすべてにおいて。
文化のすべてにおいて。つまり社会のすべてにおいて。
「人権教育」が「人間存在のすべて」(その逆も同じこと)というのがおわかりだろう?

そして、あなた自身がいかにおおくの差別をしてきたことに気づかないようでは、あなたは人間をおやめなさい、とでもいいたくなるくらいここは自尊感情も他所にアタシは強く主張するのである。





at 2003 07/12

――アタシの知人の友人で、アフガニスタンで医療ボランティアに携わる医者がいます。
その医者はアフガニスタン国境のパキスタンのある村である一少年と出会いました。
彼はその少年がもうすぐ死ぬという事実は、医者として受け止めなければなりませんでした。
村人が望む―治癒のための薬―は、現地では希少価値だったのでためらいがあったそうです。彼は甘いシロップを一さじ、少年に含ませた。
すると、その少年はニッコリ笑ってその夜、死んだそうです。
その微笑んだ笑顔に村人たちは本当に感動して、医者を神様のように崇めたそうです。
彼はアタシの知人にこう言ったそうです。
「一瞬の微笑みのなかに、感謝する世界がある。一瞬の微笑みに感謝する世界がここにはある。一さじのシロップが恵みである世界がここにはある。生きているということ自体が素晴らしい恵みである世界がここにある」
「それが人権だよ」知人も感動して、そう伝えたそうです。――

 長くなったが、これはある学習会で、アタシが「私にとっての人権とは何か」と題したワークショップのなかで引用して、みなさんに話した内容の一部だ。
 ワークショップとは参加型学習のことであり、参加型の学習活動(これをアクティビィティと呼ぶ)で気づき、発見したことをみんなで共有しながら、次のアクティビティへつないで、発展させていく学習形態のことだ。
今回の「私にとっての人権とは何か」とは、一言で言うと―私からの出発―だ。

―私からの出発―

 「自分らしさ、私らしさ」というのは、「他者と違うこと」を自覚する以外にありえない。
何度も言いつづけてきたように、「自己に向き合っても」何も生み出すものなどない!
自分とは何だろう?と自分に問いかけてもどこにも答えなどない。あるのは自慰だけだ。
その不確かな自慰で生きていけるわけもない。社会の共通性を否定することだからだ。
徹底して他者との違いを共通認識・理解する努力以外、人間社会は成りたたない。

 「私にとっての人権とは何か」は、自己へ問いかけ、みんなで話し合うなかで、「関係性」により自分を見つめなおすきっかけにもなる。
「差別はいけない。人権は大切だよ。命は尊いものだよ」
このことは、大半の人がアタマのなかでは「思い込んでいる」ことだ。
「平和は普遍の願い。人類みな平等」これと全く同義語だ。
人権とは?「人間らしく生きる権利」とステレオタイプの答えが返ってくるのが現実だ。
しかし「私にとっての人権とは何か」との問に、―私にとって―の部分で、言葉に詰まるのが、あなたがたの隠しきれないもう一方の現実だろう。
これを、アタシたちの世界では「建前」という。
建前としての「人間らしく生きる」ことから、もう一歩進んで自己の問題として、「自分の生き方」として人権を考えてもらいたい、取り組んでみていただきたい。
 
 許しがたく耐えがたく人としての嘔吐するだけではすまされないような忌まわしい事件が続いているが、それらの問題点をも包括しているのだ。
「一人ひとりの心の問題」として訴えかけても一体どこの誰に届き響くというのか?
「せつなく痛ましい」と叫んでみたところで、心情にとどまった世界で、豊かで明るい社会を構築したことがかつてアタシたちは経験なしえたか?
「命の尊厳」という建前を乗り越えて、よりよき技能と態度を身につけることを学びつづけなければ、アタシたちに未来などない。
あなたの「身近にある」問題ではないのだ。
「あなた(アタシ)自身のなかにある」問題なのである。
 
 
 別の機会の学習会では、「権利の熱気球」というワークショップを行なった。
グループのみんなに10枚のカードを渡す。そこにはいろいろな権利が書かれている。
それを自己にとっての権利のランキングをしてみる。
そうして、みんなで話し合う。
すると面白いことに、参加した各人の優先順位はまちまちなのである。
それはなぜか?
仮に中学時代にひどいいじめにあった人は「いじめ問題」を最も大切な権利として優先するだろう。親や教師に縛られず「好きなことをしたい」と主張する人もいるだろう。
それぞれの生き方、生きてきた旅路(人生)の歴史によって、それぞれ人権の重みが違ってくるのだ。
―ぼんやりとしか考えてなかった人権とは人それぞれ違うのだ―ということを、知るのだ。
己を知る、とは他人を知る、ことである。
すると、さきほどの「私にとっての人権とは何か」を再び問うと、ほとんどの人が雄弁に「語る」ことができてくるのだ。
これをアタシたちの世界では「人権の構造化」と呼んでいる。

 
 以前アムネスティ日本支部が主催した「人権とは何か」という作文コンクールがあった。
最優秀賞を受賞したのは30代の主婦だった。
彼女は「人権とは私の30余年間のすべてだ!」と言い切っている。
これはアタシと同じではないですか(笑)
そして彼女はいかに自分の人生が偏見と差別との闘いの人生であったかを振り返るのだ。
しかし、彼女はあるとき重大なことに「気づいた」。
それは日常で、自分の子に対する言葉にいかに人権を無視していたかということに―――。
自分の人生を振り返り、「私にとっての人権とは何か」を問いつづけなければ、自分の足元、落とし穴に気づかないものなのである。


今回の『手帳』は鎮魂歌でもある・・・。

―あなたにとって、人権とは何ですか?―





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