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カテゴリ:徒然
のんしゃらんさんの日記は最近このネタでもちきりで。
音大に行かなければ俗学をやりたかった私。 音大に行っても、ちゃっかり宗教学を取ってしまった私。 この手の話題は、とても私の中のナニかを刺激する。 ってコトで、トラックバックさせて頂きヤス。 しかも、ウチでも、何夜か連続になっちゃうな~、たぶん。 私の中の『神』は完全なる善であって欲しいという願望と、絶対君主的暴君という解釈がある。 完善の神に最も近いイメージの神はアフラマヅダ。 世界最古の宗教と言われているゾロアスター教の神。 アフラマヅダは『光と闇は表裏一体、善も悪もあって、初めて世界が在る』という。 つまり、闇の神アーリマンの存在を否定しない。 アーリマンは光の世界を侵食しようとするが、アフラマヅダは、光と闇の均衡を保とうとするだけで、アーリマンを排除しようとはしない。 私がゾロアスター教を好きな理由。 反対に、エホバ神は融通が利かなく。 イエス・キリスト(ま、このひとは神ではなく人ですが)は、弟子にいい様に担がれちゃってて。 神話のゼウスはどうしょもなく、自分勝手でもっとも俗っぽい。 いや、多分、神々に対しでは無いんだと思う。 神々の教えに対し、それぞれ宗派の解釈があり、その解釈が神を暴君にしている。 私は宗教学が好きだ。 だが、宗教活動の在り方には批判的である。 そもそも神の教えに、何故『宗派』『解釈』が必要なのか。 解釈とは、あくまでも人の考えが交錯したものになる。 神の教えに解釈は要らない、必要なのは預言でしょ? 代弁するだけでいいんだよ。 そこに人の考えは要らないでしょ? ともすれば、預言者すら要らないのでは。 神の住まう場所、それは人の心。 人間は弱い、弱さに負けそうな人は、神という拠り所を心内に持って生きていけば良い。 何故、わざわざ人の言葉を介して聞きたがるのかが不明。 なぜ、神ではないモノを手放しで信じることができるのか。 そもそも、神は異宗教を認めないという解釈がおかしいと思う。 神が認めないんじゃない、人が認めていないだけだ。 それを神の所為にしているだけ。 他を排除するための大義名分に、それはそれは軽々しく神を担ぐ。 だから、神は人の手によって、どんどん残酷な存在になってゆく。 リュックベッソンのジャンヌダルク。 ベッソンの解釈、映画の構成は好き。 ダスティンホフマン扮する神がジャンヌに問う。 『オマエハホントウニ神ヲシンジテイルノカ?』 『オマエハ確カニアノトキ私ニ続ケ!ト言ッタゾ?』 『神ノ名ヲカタレバ、ジブンノ罪ガ正当化サレルト思ウノカ?』 ジャンヌは本当に神の声を聞いた。 教会という名の代弁者の言いなりになり、神の名を掲げ他を侵害した。 本当に神はそんなことを望んだのか。 他を排斥することを望んだのか。 他を傷つけ、命を奪うことを許したのか。 神の真意に触れ、ジャンヌは望んで火刑に処される。 死を持って贖うことを許された。 これが、これこそが宗教の原点ではないだろうか。 無条件に人を愛し。 無条件に人の幸せを願い。 無条件に平和を願う。 神とはそんな存在だという認識を、宗教関係者が持つことが、一番神の教えを真っ当することだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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