石狩思いやりの心届け隊
東日本大震災支援 石狩思いやりの心届け隊 ~GW現地支援活動を終えて~ 【 経 緯 】 3月11日(金)午後2時46分 三陸沖にてマグニチュード9.0の巨大地震が東日本を広く襲いました。死者・行方不明者は合わせて2万5千人以上、建築物の全壊・半壊は合わせて10万棟以上、ピーク時の避難者は40万人以上に上りました。 未曾有の大震災が発生し、多くの国民が悲しみに暮れ、被災者に同情し、そして多くの救いの手が、全国から被災者へと差し伸べられました。 そして石狩でも、多くの市民が様々な形で、被災者支援に関わってきております。 私たち石狩商工会議所青年部でも、まず、3月19日に緊急支援として災害用飲料水500mlを2,400本、応援の気持ちを綴った手紙を添付して、石狩市を通じて被災地に送りました。 次に、3月19日・20日に、ビックハウス花川店前にて、石狩青年会議所様と共同で、義援金募金活動を行いました。多くの皆様から寄せられた義援金は2日間で778,832円になりました。この支援金は、日本青年会議所を通じて被災地の方のために使われております。 またその次の週、3月26日・27日には、災害救援物資の受付窓口を開設し、石狩市民約600名の皆様から、約40,000点もの支援物資が集まりました。石狩商工会議所女性会の皆様や石狩青年会議所・石狩市総務課のお力添えを頂き、救援物資を仕分けをして石狩市を通じて被災地へと送ることが出来ました。たくさんの市民の方や、関係者・仲間の皆様のご協力を頂き、精力的に災害支援に取り組んできました。 しかし、これだけの支援で本当に十分なのだろうか、そんな想いが頭の中に常にあり、支援活動を終えるたびに、次は何をしたらよいのか、被災者はどんな事で苦労しているのか、そのような事を考えていました。 そして、このたび「被災地へ行って支援しよう」そんな小さな呼びかけが大きな力となって、多くの皆様のご支援・ご協力を頂き、有志4名は、皆様の思いやりの心をたくさん積み込んで、被災地へと旅立つことができました。 【 感 謝 】 この度の支援活動は、多くの皆様のご協力・ご支援と思いやりの心を頂き、実現しました。私たちは皆さんのお気持ちの代理人として、被災地へ行かせてもらいました。 皆様の思いやりに改めて感謝申し上げます。大変ありがとうございました。 【 発 端 】 3月11日の震災以降、私は知り合いの大工さんや親族の安否確認など、主にネットなどを使用し、毎日のように情報収集をしておりました。 震災から35日が過ぎた4月15日同じ青年部の熊さんより1本の携帯メールが届きました。 そのメールにはこう書かれてありました。 「市民から集めた、支援物資が20箱以上ストックされているが、行政の支援物資リストに載っていない品目のため行き場を失っている。そして、被災地では物資が各避難所まで行き渡っておらず、未だに不便な生活を強いられている。それであれば、この支援物資を直接現地へ届けたいと思っているがどうだろう?」 私の返事はずっと前から決まっていました。「よし、行こう!」 それからは、本当に多くの皆さんの温かい思いやりがどんどん届きました。支援物資や炊き出しの材料、肉・米・野菜、そして活動資金のカンパ。 大変ありがたいと思いましたし、本当に市民のみなさんの意識の高さを感じることができました。 仲間のみんなも本当は自分で行きたいが、仕事など諸事情でなかなか行くことができない、そんな中、私たちが行くとなったから、そこに行けない自分を重ねるように、支援をされているだと強く思いました。だから、私はみなさんの代理人で行かせてもらっていると言う意識でこの現地ボランティアを行なってきました。 【 被災地 】 私が被災地で見たものは、まずは自分が考えていた被災地復旧・復興の姿とのギャップでした。想像していた光景は、GW初日でもありましたし、復旧復興に向けた、現地や全国から集まった沢山の重機・ダンプカー・作業員・ボランティアによるガレキの撤去、さらには水道・ガス・電気などのライフラインの復旧工事。 まちの至るところで復旧作業が行われていると思っていました。しかしどうでしょう、どこまでも続くガレキの荒野に建設重機のひとつも見つけることはありません。ガレキなかで作業をしているのは自衛隊の車輌数台程度です。 石巻市街地も雄勝町も気仙沼市も女川も南三陸もそして岩手の陸前高田市でもどこへ行っても、ガレキの荒野に誰も作業はしておりません。 「どうして?」と思いました。なぜ、震災から50日も経って、なんの復旧作業も進んでいないのか。この現状はもう個人の力、個人の判断ではどうしようもない状況です。 国の指導力をもった人間はどこに行ってしまったのか、何をしているのでしょうか。 もしこれが、私たちのまち石狩で起きた震災だったら・・・と思うと何とも腹立たしい気持ちになってくるわけです。 私が強く言いたいのは、被災地はまだまだ復旧・復興出来ていません。雄勝のまちなど、今日、昨日津波が来たのかと思うほど生々しい状態のままです。 子供たちは満足に食事もできずひもじい生活を送っています。 おじいちゃん、おばあちゃんは、下着も洗濯することすらできず、代わりの下着も届かず、人間の尊厳を大きく損なわれる日々を過ごしています。 避難所は一日二食ですよ!おにぎりやパンの配給を受けても、入れ歯がなくて物が噛めない、食事も満足に食べられなく、長期の避難所生活で、体力や免疫力も落ちてきている。このままでは、お年寄りたちが辿る道は、容易に想像が付きます。 4月29日雄勝小学校での、私たちの1日目の炊き出しはジンギスカン丼、牛バラ丼、とん汁、カニ雑炊で、200名もの皆さんが行列を作りました。そして、その行列がやんだ頃、避難所の女子中学生が数人我々の周りで様子を伺っています。 私たちの女性スタッフが「どうしたの?」って聞くと中学生たちは「ご飯まだ、ありますか?」って、 「大丈夫だよ~いくらでもあるよ~沢山食べなよ~」 子どもたちは、一度食べ終わったあと、まだ足りなくて、けど避難所の人、全員が食べ終わるのを待っていたのです。結局、一人の女子中学生はどんぶりを3杯もおかわりして・・・ 食べたいだけ、食べられない避難所生活。我々の生活が普段、どれだけ恵まれているか。 そのほか、女性スタッフは、避難地へはチョコレートも持っていってました。しかもダンボール2箱分も、超大量のチョコです。数百~千個はあるでしょうか。 それを箱に大盛りにして、子たちに声を掛けました。 「チョコレートた~くさんあるからね~みんな持って行ってね~!」 雄勝小に避難している子どもたちは、この時2~30人しかおりませんでした。 そして、小学校低学年位の女の子が、チョコを貰いにきました。チョコの山を見て、モジモジと言いました。「何個までいいですか?」 「何個でもいいよ~、いくらでも持って行ってね、だって沢山あるんだから・・・」 そう言って、女の子のポッケに入れれるだけ、詰めてあげました。涙が出そうになりました。 こんな小さな子まで、避難所生活のルールが自然と身に付いているのです。避難所では、物資も食料もすべて分け合って、助け合って生活しています。チョコが沢山あっても、みんなで分けないといけないって、こんなに幼い子でも・・・ 行政の支援は限られていて大雑把です。たとえば雄勝では4月始めに初めて民間の炊き出しがあり、杉良太郎がカレーライスの炊き出しをしております。そこに国からの支援物資、おにぎり2000個が届いたそうです、これが国のやる事です。 確かに到底無理なんですよ。行政の機能が復活していないのですから。 だからこそ、これからも民間のボランティアのきめ細かな活動は間違いなく必要であり、長期的な支援が必要です。 陸前高田市の30代の被災者に、今必要なものはなんですか?と聞きました。最初はそれはとても難しい質問ですと言ったあと。 答えたのは「家・仕事・電気」と返ってきました。確かにこの三つは私たちのボランティア活動ではどうにかなるものではありません。しかし、被災者の声を被災者の叫びを広めることで大きな力となると信じています。 【 被災者 】 私事になるのですが、当社に数十年間、務めていた鶴島大工さんと言う方がおりました。大工さんは陸前高田市の出身で、今回の震災でお亡くなりましたが、息子さんとお孫さん男の子二人は助かり、今は親族宅で身を寄せています。すでに、避難所ではないので、支援物資の支給などは受けていないようです。 私が生まれる前から、当社で働いており、寡黙で優しく笑顔の可愛い大工さんでした、お線香をあげさせてもらいましたが、位牌がふたつありました、もう一つは息子さんの奥さんでした。助かった子供たちのお母さんにあたる方です。これからは、仮設住宅の抽選に当たるのを待つばかり、仕事も探さなくては生きていけません。 国・行政には、仮設住宅の早期建設、失業対策にも力を入れて欲しいです。 震災から1ヶ月半、何一つなさせていないのが非常に不思議です。確かに未曾有の被害ではありますが、国や行政がもっともっとしっかり指導力を持って、支援策を講じて欲しいと願っています。 【 ハチドリのひとしずく 】 森が燃えていました 森の生き物たちは 我先にと逃げ出していきました でもクリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます 動物たちがそれを見て 「そんなことをしていったい何になるんだ」と言って笑います クリキンディはこう答えました 「私は、私にできることをしているだけ」 私たちの今回の支援活動は、ほんの小さなひとしずくにしかなりませんが、こうして皆さんへお伝えし、継続して活動をすることで、やがて大きな力となる事と信じております。 私は私に出来る被災地支援を、これからも思いやりの心を持って行なっていきたいと思います。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。