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ふゆゆん亭

ふゆゆん亭

● 私の中に、泣いている子供の私がいる ●

夫と突き詰めた話を何時間もします。
私はいつも、子供の頃の話になります。

「私はいつも一人で頑張っていた」
「私には味方がいなかった」
「私は一度も褒めてもらえなかった」
「いつも否定された」

「子供の頃から前に進んでいないんだね」
と、夫によく言われます。

ちょっとした単語に触発されて、子供の頃の事を思い出します。
思い出すと泣きたくなります。
孤独だった子供がいじらしくなります。
私の心の中で、泣いている子供がいます。
それは私自身です。

それを乗り越えるために、少しずつ子供の頃の事を
書いて行こうと思います。

いつか本当に笑う大人になるために。








●母からの電話● 2005・07・10

今日のは苦しい愚痴になります。
心が敏感な人は読まないで下さい。







昨夜、母から電話がありました。

2時間弱話していました。



何もやる気が起きない事。
一人でいるとぼんやりして来て、
曜日の観念も分からなくなる事。

音が無いと寂しいから一日中TVを大音響で付けている事。
(母は耳が悪いです)


いつも庭や雪かきでお世話になっている
シルバー人材センターの方からさくらんぼを貰ったので、
バスと電車を乗り継いで私の所に行こうと思っている事。

「体力が危ないので止めた方がいいと思うよ」
と言うと
「じゃあ、取りに来れない?」
と母。

これを言いたかったんだなあ、と思いました。

私が元気で、母の甘えをはじき飛ばすだけの性格で、
母に飲み込まれなければ行けるでしょう。

でも私は母に飲み込まれて潰れてしまうので頑張りました。


「私はこの間Aちゃん(叔母)の帰りにお母さんの所に寄ったけど、
その後3日くらいダウンして寝込んだの。
今も具合は良くないから私は行けないの」

「ああー、無理しない方がいいね。」

でもさくらんぼは仙台までバスで行けば、
あなたも近いから取りに来れるだろうと粘る母。

「○○さん(弟)は?」と聞くと
「あの人はさくらんぼが好きじゃないって言っていたから」
「そうだった?でも○子さん(弟の奥様)は好きじゃない?」
「私も出掛けないといけないと思って。バス停がすぐそこだから」
(答えになっていない。弟は手厳しいから避けたいという事か?)



自分の家で療養すると言って、
私の所に来るのを断ったのは母。

家政婦さんや介護センターの人を家に入れたくない
と言ったのも母。


「他人を入れたくない。人に家を片付けられるのなら自分でする。
でも今はやる気が無い。Kさん(親切な隣人)やあなたならいいけど」
(つまり私に来て欲しいと言っている)

弟の奥さんは可愛いから手を煩わせたくない。
(弟の奥さんにはいい人でいたい)

一人で誰ともしゃべらないでいると訳が分からなくなる。
「だからあなた電話して頂戴」
(全部私?)


「一人暮らしは気楽でいいけれど、デメリットもある事が分かって来た。
もっと人と関わらないといけないと思う。」

「じゃあ、地域の老人会とか趣味の会とか
何でもいいから人と交流を持てるようにした方がいいんじゃない?」
と言うと
「だって、知的な人がいないとイヤなんですもの」
「そんなの行って見ないと分からないんじゃない?」
「そんな所、行く気がしないもの」
(プライドが許さない?)

「じゃあ、何十人もいるお友達と会えばいいんじゃない?」
「月に一度のお食事会をしているAさんとBさんは、
Bさんが季節が穏かになってからにしたいって言うのよ。
そしたらAさんは2人だけでも会いましょうって言ってくれないの。
乗り気じゃないの」

「でも沢山いるでしょう?お友達」
「Cさんは私が退院した頃はせっせと誘ってくれたんだけど、
この頃飽きたみたいなの。誘ってくれないの。
私なんかにかまっている暇はないのよ」

「じゃあ、自分から誘ってみたら?」
「そこまでして会う気もないし、ねえ」
(ねえって、私に言われても・・・)

「Dさんは?」
「あの人は活動的だから、一時は健康ランドに連れて行ってくれたけど
旦那さんとお姑さんの世話があるし、スポーツをするし。」

「もっと沢山いたでしょう?お友達」
「沢山いるけど、こうなってからはあんまり連絡が来ないし」
「だったら自分から連絡すれば?」
「何だか何もする気になれなくて」


「会えないんだったらお母さんから電話すれば?
話すだけでも頭がはっきりしてくるって言ってたよね?」
「そうよね。でも私にかまってる暇がなさそうだし。あたしボケちゃったから」
(それを認める勇気が出て良かった)

「手紙は?毎日何人にも出していたでしょう?」
「書けなくなっちゃったのよ」
「書けないの?」
「書く気がしないのよ。
○○(弟)は私が書き物をしていた姿しか憶えていないくらい
私が書き物をしていたって言うんだけど、本当?」
(そんな事も忘れたのだろうか?慰めて欲しいのだろうか?)

「いつも書き物をしていたよ。常にしていたよ」
「あら、そう。そうだった?」
「そうだったよ。たくさんの人に手紙を書いていたし、3年日記も書いていたよ」


「○○(弟)が何もしてとは言わないけれど、
日記だけは書いてと言うのよ。
言われるから書くけど、面倒くさいのよ。
それに、時々死んだら面倒くさくなくなるんじゃないかって思うのよ。」

「お母さんは鬱病がぶり返したんじゃない?
この前退院した時は手紙を沢山書いていたし、
死にたいって言うのは鬱病だよ」
「あら、そう?」

「そうだよ。だから予約を待っていると一ヶ月も先だから、
病院に電話して早めに予約を入れて薬を貰ってきた方がいいんじゃない?」
「あらそう?」

「薬を飲むとやる気も出て来るよきっと」
「でもね、病院に電話するのもどうしていいのか
分かんないのよ。色々面倒でしょう?」

「○○さん(弟)に連絡して病院の予約を早めに取ってもらうように
お願いしてみるから。」
「そう?自分では何にもしたくないから助かるわ」

「一人でいると訳が分かんなくなるのよ。
こうだって言ってもらうとそれだけで頭がはっきりした気がする」
(だから今のままでは悪化するのに
 あれはイヤ、これはイヤって、どうしろと言うのだろうか?)



こういう会話をずーーっとしていました。
グルグルグルグル同じ事が廻って、
チャイムが鳴るまで止まりませんでした。

あれはイヤ、これはイヤ。
だってこうだもの。だってああだもの。

もう、私胸が痛くなってきてむかむかしてしまいました。
私にばっかり求めるのは何故だろう?
私がビシッと言えないから、甘えの存在としてだけいるんだろうか?

子供の頃は感情をぶつけて発散の対象にして、
思いどうりに育たないからと全否定して、
ボケ始めたら甘えるんですか?

これを書きながらも胸がドキドキしています。
ギューッて苦しいです。



日本の女性の平均年齢は86歳だったかな~~。
(まだまだ生きなくちゃいけないですね)
母は74歳で、86歳から見るとまだ若いです。
でもボケ出したら急に老け込みました。
子供返りにもなるし。
日によって違うし。


牛乳屋さんや新聞屋さんに
「届いていない」といちゃもん付けて揉め事を増やし、
「よく分かんないのよ~~夢の中みたいで」と言って
隣人や弟や私が奔走する。


通販にはまり、膨大な買い物をして家を埋めて行く。
整理が追いつかない。

一度綺麗にした大きな物置(車二台の車庫の上)が
どんどん埋まって行って、歩く所がなくなってしまった。


「どうせ死んだらお金は持って行けないから、
欲しいものはドンドン買って、退職金は使い切るの」

とおばあちゃんが言っていた、と息子に話したら
「子供や孫に残そうとは思わないんだ」
と息子。

そんな選択肢もあったんだなあ、と思いましたが
「おかあさんが楽しい事が一番だね」と言い続けていた私と弟は
そう、親を当てにしては生きて行けないという育ち方をしたんだと思います。





今の日本では問題の無い家なんて無いでしょうけど、
母の事を考えると出口の無い迷路を彷徨っている感じです。

いつかは私もボケて息子と娘を煩わせるんだろうか?
と怖い気もします。



今日の日記は自分の心を整理する必要に駆られて書きました。
さて、どうしたらいいのかな~。


読んで悲しくなったり、不快になった方にはお詫びします。


母には電話で言うと忘れるかもしれないから、
もしくは忘れた振りをするから、
FAXで話した事や私に出来ない事の確認の手紙を書こうと思います。











●出せなかった弟へのメールに寄せて● 2005・07・26

暗い話になります。
心が苦しい人は読まない方がいいかもしれません。




22日(金)の夕方遅く母から電話がありました。
また二時間近く話しました。


母は最初、自分の不安や愚痴を話していました。
新築した実家にやっと顔を出したと言う話しもしていました。

実家では自分の弟夫妻と甥夫妻が暖かく迎えてくれて、
挨拶に半年も行けなかった事など
これっぽっちも気にしていなくて、

本当にいい人達で自分もあのように暮らしたいものだ
と言っていました。

それが急に「あなたもお世話になったでしょう?」
と言われ「なったよ」と言うと

「お世話になったでしょう!」と口調が
責めるものになりました。

「なったよすごく」と言うと
「そうよ、あなたは小さい頃から
すごくお世話になったのに!」

私が自ら選んだように言いました。
私を実家に預けたのは親のあなたでしょう?

一緒に顔を出さなかったのが不満だったのです。

「でも今は頑張れないの」と言うと
「Aちゃん(叔母)の所に来た時にくらい
あなた顔を出しなさい。それくらい出来るでしょう?」

「今は頑張ろうと思うと具合が悪くなるの」
と言うと

「そんな事ではダメじゃないの。
自分を奮い立たせるべきよ!

私も外に出るのがイヤだったんだけど
実家に行ったらいい気持ちで7枚も手紙を書いたのよ。

あなたも頑張らないと!」としつこく言うんです。
何回も、何回も。

あんまりしつこいので、

「非難されて育った人間は
自分を受け入れるのが難しいんだよ。

だから、自分でこうしたいと思っても
なかなか出来ないの」

と言いました。すると母は
「カウンセラーの先生も立派な人なんだろうけど、

子供の頃の心の傷をわざわざこすって
痛い思いをさせるなんて余計な事をしてくれる」

と言いました。
論点がずれている!と叫びたかったです。

汚物を見ないからと言って、
汚物は消えてしまわないのです。

私の心の傷はなくならないので
立ち直ろうと頑張っているのに。

「そうじゃないんだよお母さん。
私が例えばテレビとかを見ていても

あるシーン一つで触発されて
辛い事を思い出してしまうんだよ」と言いました。

すると母は
「あなたは激情的な人間なのよ。
MY(弟)とも言ってたんだけど、

いつまでも子供の頃の事を引きずってるなんて
激情的な人間だからよ。

もう大人なんだから子供の頃の事は
いい加減断ち切って大人として生きなさい!」

と言われました。

したい事をして、
私の事なんか考えずに行動していた人に
激情的と言われるとは思いませんでした。

あまりの母の言いように
もう我慢が出来ませんでした。

母の看病をして疲れた事。

母が私に心配してもらうために
ワザと寝込んでいた事を知って

心がぽっきり折れてしまったので
しばらくは頑張れない事を話しました。


母は少し無言でした。
「もうこの話は止めましょう」
と言い出しました。

ずるいと思いました。
自分の旗色が悪くなると逃げ出すのです。

自分から仕掛けてきたのに。

それでとうとう私は24歳の時に母から
大っ嫌いと言われた事を言ってしまいました。

「でもねお母さん。それは子供の時だけじゃないんだよ。
私が24歳の時にお母さんはベルトで私の足元を叩きながら

あんたなんか大っ嫌い!!!大っ嫌い!!!
って言ったんだよ。」

すると母は「ふ~~ん。そんなの知らない。
言ったとしたらごめんね。
でも子供の事を本気で嫌う親なんかいないんだから」

と言いました。
これを聞いた私は泣いてしまいました。

子供を本気で嫌いじゃないから大嫌いだと言って
その後言った事すら忘れてしまうなんて。

その時に私がどれほど傷付いたか
これっぽっちも考えなかった人が言える事だろうか?


母は「あら、泣かないで」と言いました。

泣きたい時くらい泣いていけないのだろうか?

私が母の前で自分のために泣いた事なんか
一度も無いのに。



この後また堂々巡りをして、
それでも何とか電話を切りました。


調度娘が近くに来て「大丈夫?」と聞きました。
私は疲れて顔に手をやり、
ふうっと息をして大丈夫と言おうとしました。

でも驚いた事に泣いてしまいました。
泣きながら「大丈夫じゃない」と言いました。


私は随分素直になったものだと思いました。
子供達の前では明るい母でいようと頑張っていましたから。

母と話して、もう頑張れなくなっていました。
もう会いたくないと思いました。

当分会えないと思いました。

手が震えて御飯を作れませんでした。
夫も疲れていたので
娘にホットケーキを作ってもらいました。

ニンジンと玉ねぎを摩り下ろしたホットケーキ。

食欲は皆無なのに、義務的に食べました。
そしてパソコンを見ると弟からメールが来ていました。

母が前向きになっているので
昔の話はしないで欲しいと言うメールでした。

母が弟に電話して何か訴えたのでしょう。
追い討ちを掛けられたような気持ちになりました。

何とも言いようの無い空しさと疲労感に襲われました。
かなりのレベルで落ち込みました。



それで一日置いて、
事情を間単に書いた謝罪のメールを送りました。

弟はほぼ毎日のように母の所に行って
面倒を見ているのです。

鬱病を再発し、まだらボケの母を
励まし続けている弟には本当に申し訳ないと思いました。



実は当日に弟宛に書いたメ-ルがあります。
ここに載せようと思っていましたが、
あまりにもリアルな感情が伝わるので
やっぱり止めにします。



弟からはその翌日に返事が来ました。

家族なんだし年寄りなんだから
適当に流して欲しいと書いてありました。



そうか、
私は流す事をしないで全部真正面から受け止めたから
耐えられなかったんだ、と気付きました。

息子がよく言う「いんじゃね」が
私には無いんですね。

だからすごく傷ついてしまった。
母の一言一言に反応してしまった。

母なんか昔から自分が一番偉いのに。
私はそれを知っているのに。


弟のメールで少し目からウロコでした。


よーーし!母を喰ってやる!!!!

くらいの軽いノリがあれば、
もしかしたら母に傷つけられずに
母に飲み込まれずに済むかもしれない。

と思いました。
でも、思ったからと言って出来るか
と言うとそうは行かないんですけどね。


一日半心が死にそうになり、
2倍の薬に頼りましたが何とかなりそうです。


あれから三日半が経とうとしています。
私はかなり回復しました。大丈夫です。










●モラハラとアダルト・チルドレン・1 2006・05・04

先日、ある方のブログを読んでいたら
コメントに「モラハラ」と言う言葉が
何度か出て来ました。

それで調べてみました。
それは「モラル・ハラスメント」(精神的虐待)と言うものでした。



(それは『こころのサポートセンター・ウィズ』
と言うHPの中の『テーマ別』の中の『虐待・暴力』の中の
『モラル・ハラスメント』に詳しく載っていました。
こちらのHPは女性の自活のために活動している所です。
リンクや文章の抜粋を載せる許可を頂きました)



読んでいるうちに泣けて来ました。

それは私が子供時代に母から受けた事、
結婚していから夫から受けた事、
全部が当てはまる物でした。

このHPで書いてあるほど強烈ではありませんが
どれもこれも身に憶えのある事ばかりでした。

非常に客観的に的確に書いてあるので
物凄く心に染み透りました。



「親や教師、上司など、立場が上の者から下の者に
 モラル・ハラスメントが行われる場合、
 「教育」や「しつけ」「指導」
 などという名のもとに行われることがあります。」

「加害者は、自分は正しい、
 自分は全てわかっていると思っています。」

「加害者は被害者に問題があると主張します。」

「暴力は、指導、教育という名、つまり、
 いたらない相手のために愛情のある自分が指導、
 教育してやっているという意識で行われ、
 実際は相手を支配するのです。」

「加害者は、されることには敏感で、
 自分の苦しさは強く訴えますが、
 その割には自分がする事には鈍感で、
 虐待をしているという認識がありません。」

「加害者は、被害者に問題があると主張しますが、
 実はその問題の部分は
 自分自身の中にも見られます。」

「加害者は、他の人のことをひとりの人格として
 対等に見ることができません。
 自分の意のままに操れる生きた対象を所有したい
 という欲求があるかのように、
 他の人を自分の所有物と見なし、
 思い通りに扱うのです。

 人間としての対等な関係ではなく、
 自分にとって都合のいいように使える
 駒かどうかということが、
 その人とつながっている理由になります。
 相手の感じ方や考え方を認めず、
 相手の苦しみや屈辱感を完全に無視し、
 無理やり同意させ服従させるのです。」



私はこれであやうく人格崩壊を招きそうになりました。
耐えるだけの日々で、
母には一度も褒めてもらえず責められて要求されて、
夫の欲求を満たすための道具と成り果てて
生きているのが苦痛以外の何者でもありませんでした。


「モラル・ハラスメントの加害者は、
 自分の勝ちか負けかをいつも考えています。
 勝つことに強迫的にこだわり、
 まわりの人間には敵か味方かのどちらかしか
 いないというような極端な考え方をします。」


これも母にも夫にも共通します。
自分が一番じゃないと許せないのです。

例えば夫が運転中の車で移動中に
目的地への方向が反対に向いていたので
「こっちは逆だよ」
と言っただけで夫は怒り狂いました。

「黙っていろ!!うるさい!」
と言うのです。


方向音痴の夫は、
自分より私が正しい事が許せないのでした。

それがごく些細な事でも。
自分が言われたい褒め言葉以外の事は
怒り狂いました。

それで私は段々何も言わなくなり、
夫の機嫌が悪くならないように、
と言う優先順位になって行ったのです。








●モラハラとアダルト・チルドレン・その2 2006・05・05


それは、
息子が生まれた後に言われた事から始まりました。

「自分に決めさせて欲しい」と
ある日、夫が言ったのです。



夫は結婚式の夜に
ご祝儀を数えていたら
「これで付き合いで買った50万の
 ステレオの支払いが出来る」
と言いました。

結婚式はうちの両親が
「面子があるからどうしてもやるように」
と言う事でやったので、
資金は総て私の両親が払いました。

それでご祝儀は丸々私達の手許に残ったのですが
それを計画的に使おうと言うのではなく
自分の借金の穴を埋めようと思っていたのでした。


金銭では苦労して育った私は
これはこの人に預けていては危険だと思い、
貯金等は私が管理する事にしたのです。

私の方が年上だったので、
私はいつも調整して許す立場にありました。

私は長女だったので、
それが身に付いていました。

子供の頃の私は
弟の我儘に我慢して許す事しか出来ませんでした。

両親にとって私は弟の面倒を見る者、
家事をする者、
思い通りに育たない者でした。

どこも時代に我慢する事を
身に付けてしまったようです。



夫は昔、思い付きだけで話をし、
その場限りの事を言うので
全体的な事を把握している私が
自然と主導権を取るようになりました。

その主導権を自分が持ちたいと夫が言い出して、
私はそれは自立した大人になるためには
とても良い事だと思ったのでした。

他にも色々と事情がありました。



でも少しずつ焦点がズレて行ったのが
今思い出すと分かるのですが
当時はとにかく口出ししないようにと
我慢する事を私は頑張ってしまいました。

夫は段々自信を付けて行き、
父親になって行ったのですが
同時に何でも自分の言う通りになる、
と思ってしまったようでした。

そうして独裁政治のような
生活がはじまったのです。



「味方にしておきたい人が自分より上か
 同等の力をもつと思っている場合、
 親密さを相手にもまわりにもアピールします。
 しかし、相手が下だと思うと抑圧し、
 いいように使います。」


まさしくこれになって行きました。


「しかし加害者は、ほんの少しの批判や拒絶を、
 自分に対する反抗や敵意の表れだと受け取ります。」


私の方が漢字が読めるとか、
文章力があるとか、
そう言った事も
夫の怒りの対象になりました。


私と息子で女性の友人の家に遊びに行き、
夫の帰宅時間に遅れると怒り狂いました。

暗い家に帰るのが嫌いなんだと
最近まで私に当然の主張だとばかりに言っていました。

じゃあ私はどうなるの?
私の気持ちなんか考えた事なかったでしょう?
と最近聞いたら正直になった夫は
なかったと言いました。

自分の感情を満たす事しか考えていない人なんだと
ようやく分かって来たのです。


「加害者は、力のある者に対して迎合する反面、
 弱い者や敵とみなした者に
 対しては支配的、威圧的な態度をとります。」



私が話す大事な事を一切頭に入れなくなりました。
私は自分が奴隷だと感じるようになり、
とても惨めな日々でした。

赤ちゃんを育てているのでバイクに乗れなくなり、
SFを「そんな物をなんで読んでいるんだ」
と取り上げられ、
短歌集を読んでいると
「なんでそんな物を読んでいるんだ」
と責められ、

他の事情もあって、
色んな事の制限が増えて行きました。
これは自分も極端な考えがあり
間違いだらけの選択をしていました。

でも、
思いは両手両足をもがれてしまったように感じて
悲しくて悲しくて、
この好奇心旺盛の人間から心を満たす物を奪ったら
もう残りカスしかありません。




「自分を偉く見せるために
 すべてを知っているかのように振る舞い、
 そのために言葉を利用します。」


これも結婚して知った事ですが
夫は知ったかぶりの名人でした。

直前に誰かが言った事を
まるで自分が思い付いた事のように
自慢げに話をしました。

私の言った事も
何度もやられました。

しかも無意識のうちにやるのでした。

多分、自分に自信が無いので
人の言った事を
まるで自分が思い付いた事のように振舞う事で
自分の自信にしていたのだと思います。


「モラル・ハラスメントの加害者は、
 起きたことの責任をすべてまわりの
 誰かのせいにし、
 他人の欠点を暴きたてます。
 それによって、
 自分は罪悪感を感じなくてすむのです。」


2年ほど前ですが
「MYさんの言う事は人を傷付ける。
 人を追い詰めて反撃せざるを得なくしてしまう」

と夫に言われた事があります。
かなり悩みました。

私は人を追い詰める?
質問は確かにするけれど。

母からいつも追い詰められていたので
無意識の内に同じ事を人に対してやっているのだろうか?」

「追い詰める」は
夫から20年以上言われ続けて来ました。

自分ではそんなつもりは無いので
気を付けるように質問していたつもりです。

考えても納得が行かず、
その頃はかなり客観性を持っていた息子に
聞いてみました。


息「それは逆だよ。
  親父は自分を知らなさ過ぎる」


やっぱりそうだったんだと、
納得しました。

私は人から言い切られると
そうもしれないな?と
単純に受け取ってしまう所があります。

私自信に問題がある事に
どんどん思い至りました。




ここまで考えて来て、
私は何故そんな所に長年はまり込んでしまったのだろうか?
と言う疑問に立ち戻ります。


私は若い頃からずっと疑問でした。

私は自分の考えがはっきりしている人間なのに
どうしてイヤと言えないのか?

どうして断われずにいろんな事に巻き込まれて
損な事にばかり入り込んでしまうんだろうか?

人のためならどんな事も厭わないのに
自分のために動く事が出来ないのは何故だろう?

ずっと疑問でした。
そしてここで私の現実を見つけました。

「アダルト・チルドレン」
最近よく聞く言葉でしたが
調べた事がありませんでした。

かなり特徴が頷ける点ばかりでした。

モラハラ的家庭で育ったために、
私は自分を充分に主張できないアダルド・チルドレン
だったのでした。










*「暴力・虐待」にはモラル・ハラスメントの他にも
 ドメスティック・バイオレンスや
 セクシャル・ハラスメントなども載っています。
 ほかに子育て・認知症・母娘関係・アサーションなど
 沢山載っています。

「こころのサポートセンター・ウィズ」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/index.htm

関心のある方はご覧下さい。








●カウンセリングで見つけた事● 2006年05月11日

今年度最初のカウンセリングで
見つけた事。


自分がアダルト・チルドレンであるかもしれない事に気付いて
そこから脱したいと言う話をI先生にしました。



私は他人が関係すると
強くなれます。

つまり誰かが困っていると
周りや恥かしいなんて事は全く関係無く
どんどん交渉を進める事ができます。

所が自分の事になると
からきし何も出来なくなってしまうのです。

相手に嫌な気持ちをさせてしまうのであれば、
自分が我慢した方がいいんじゃないか、
と思ってしまうのです。

だから肝心な事ほど言えないのです。
そしてどんどん追い詰められてしまうのです。


自分を大事に出来ないんだと思います。
人を優先して自分はいつも犠牲になります。

これは良い事ではありません。
でも、言わなくてはならない時でも
言えないんです。


自分のしたい事と行動が一致していないんです。
つまり自己矛盾しているんです。

本心では納得しないで生きているので
いつまでも苦しい訳です。



I先生に「受身なんですね」
と言われました。

そうだな~と思いました。
いつからだろうか?と考えると
多分、
物心付いた時からそうなっていた気がします。



私は小学校に入るまでは
同居していた父方の祖母が面倒を見てくれないので
母の実家に預けられていました。

母の実家は大きなお寺で、
常に人が出入りしていました。

葬式に法事、寄り合いにお念仏。
しばしば近所の婦人達が集まって
食事を作っていました。

寺男のような、
近所のおじさんが世話役をしていました。


そうして夜になると客間ではなく
土間に近い大きな囲炉裏を囲んで
大人達が相談事を決めていました。

私はいつも隅っこでお茶を飲みながら
大人の話し合いを聞いていました。
あんまり話をした記憶はありません。

 
お寺を継いだ叔父はお酒を飲むと大暴れするので
祖母と叔父の奥さんと叔母と私の女4人がかりで
押さえ込もうとして押さえきれずに
大騒ぎをしていた記憶があります。

今もお酒で乱れる人を見ると
嫌悪感を催すのはそのでいでしょうか。


日中は近くの保育園に行き、
お寺に帰ると大人はみんな忙しいので
お墓の中を一人で遊びまわりました。

裏山にも一人で登りました。
蝉取りも一人でしました。

この時に一人で遊ぶ事を身に付けたのかもしれません。
とにかくわーわー騒いだ記憶はありません。



私が小学校に入学するために実家に帰って
これからの恐ろしい生活を悟った事は
以前の日記にも書きましたが、

その後の2年間くらいは記憶がありません。
どうも学校から帰ると祖母が遊びに出るため
毎日一人にされて泣いていたようです。

泣いていたと言うのは
母から聞いた話です。


母は勇気を出して祖母に頼んだらしいです。
MYが帰る頃に家にいて欲しいと。

すると祖母は(祖母は助産婦でした)
「オレは一人で子供を育てたんだ。
オレの子供達は朝まで一人で待っていたんだ。
夜になったらお前らが帰って来るんだから
そんな事は贅沢だ」

と言って取り合ってくれなかったそうです。
その記憶の無い2年間に
私は多分この家に合わせて行く事を
毎日泣きながら学んだんだと思います。


母の実家の祖母は優しくて働き者で
寡黙な人でした。

だから愛情を受けつつも
私は預けられている身なので
端っこにいさせてもらっている感じでした。

そして自分の家ではもっとお客のような
発言権でさえ無い情況に合わせていったのだと思います。




夕食のテーブルで睨みを聞かせているのは
意地悪婆さんの祖母で、
会話などは無くてシーンとした中で
もくもくと食事をするのでした。

祖母は両親の給料を全部取り上げて
少量の小遣いを渡すだけだったので
夕食のおかずを買ってくる母にしても
豊かなものを買えるわけは無く
食卓は貧しいものでした。

おやつなんかも無かったので
いつも飢えていましたが、
夕食を美味しいと思って食べた事は
殆んどありませんでした。

でもおかずを1番目に選ぶのは弟で、
食べる直前になると
「やっぱりこっちが良い!」
と言って別の皿の魚を選んだりしていました。


今思えば、いつも睨んでいた祖母も
弟の我儘は許していました。

祖母は家の中で絶対権限を持っていたため、
両親は何も言わずに我慢して従っていました。

私は途中から入り込んだ人間ですから
その決まりに従うしか道はありませんでした。


弟は外を歩く時に
「オレの隣りを歩くな!
 後ろを歩け!」

と命令するような少年でした。
まだ3~4年生くらいの男の子でしたのに。

部屋のドアの開け閉めも
自分の都合の良いようにその都度理屈を変えて
威張りまくっていました。




その話をしていたらI先生が
「どう思ったんですか?」
と聞かれました。

私「自分に都合の良いヤツだと思いました」
I「いえ、どう思われましたか?」
私「?しょうがないと思いました」
I「どうして闘わなかったんですか?」
私「????そう言う選択はありませんでした」
I「それもご自分で選んだ事ですよね」
私「???選んだと言えば選んだのかもしれませんが
  闘うなんて出来る状況ではなく・・・・・・
  そんな事を考えた事がありませんでした」

私は弟に対して未だに言いたい事が言えません。
自信家でプライドが高くて、しかし傷付きやくて
人を許さない狭量な人なので
弟が望まない事を言うのは恐ろしくて出来ないのです。


弟が恐。
母も恐い。
何故恐いと思って我慢するだけになってしまったのか、
そこが総て私の苦しみの元を作り出していると思いました。

つまり、
それが私の生きる上での「クセ」です。


この「クセ」のせいで
私は大変な目に合ってきました。






●自分で決めたクセ・1● 2006・05・12


アダルトチルドレンとは
大人になり切れない子供のような大人だと思っていたのですが、


「子供時代を子供として子供らしく過ごすことが出来ずに、
 そのまま大人になった人たちのこと」

でした。



アダルトチルドレンについて調べていたら
とても分かり易い「心理オフィス ステラ」と言うHPを見つけました。

カウンセラーの方が自身AD(アダルトチルドレン)で
自分の経験などが細かくかいてあります。

文章とHPのリンクの許諾を頂きました。
この下の文章は抜粋です。



「両親や家庭環境によって
 子供時代を歪められて成長した人々です。
 過剰な期待、過保護、過干渉、無視、
 精神的虐待、暴力(言葉による暴力)など。
 本来であれば、親と子の適度な境界線があって、
 子供は一人の人間として愛され
 尊重され成長するものですが、
 親に呑み込まれたり、または突き放されたり、
 子供を私有化したり存在を無視してみたりと、
 一人の人間として十分に尊重されずに
 子供時代を過ごして大人になった人達です。
 こういう家族を機能不全家族といいます。」



多分、
機能不全家族は沢山沢山あるだろうと思われました。

そんな中でもキチンと生活している人達は沢山いて
それはそれは尊敬に値する事だと私は思います。


私も普通の生活が送れるようになりたいです。
最近は自分の心の歪みがドンドン見えてきたせいか
もう自分を騙して平気な振りをする事が
出来なくなってしまいました。

こうなっては自分の歪みや生きる上でのクセを
しっかり自覚して微調整しながら
生きて行き易くしたいです。




そこで先日のI先生との話で出て来た
生きる上での自分の「クセ」をチェックしたいと思います。



はっきり自覚出来るものでは、
弟との関わりから自分で決めた事を思い出しました。

これもI先生と以前に話していて思い出した事なのですが、
人前では自分の事で泣けない理由があったのです。

人の事ではすぐに泣く私です。
涙もろいですが、自分の事になると
絶対我慢するのです。


子供時代を振り返ってみると、
私が母の実家から自分の家に戻った時、
独裁者のおゆうさん(祖母)
を軸に家は廻っていたのですが

何故か弟の我儘だけは特別枠として設けられていました。
弟の身勝手な言い分はおゆうさんも見逃していましたし、
自分だけが正しい母も弟を許していました。


弟の我儘はまるで母を子供にしたような感じでした。
弟は自分が一番偉かったのです。

だからその場しのぎのメチャクチャな発言をしていました。
でも許されるのです。

ですがうちは変な所で厳格な家だったので、
姉弟ゲンカをしていると追い駆けられて
家の隅に追い詰められ、
「ケンカ両成敗だ!」と言って
理由も聞かずに往復ビンタをされました。


これには腹が立ちました。
理由を話して悪ければなぐられる事も
まだしも納得出来ますが、
理由も聞かずにとにかく殴るなんて、
私からすれば暴力を振るわれたととしか感じませんでした。

だから私は絶対泣きませんでした。
それが「私は悪い事をしていない!」
と言う唯一の表現でした。

片や弟はと言えば、
自分に都合が悪くなると泣きました。

すぐに泣きました。
それを見るともっと腹が立ちました。

いつも威張りくさっていた弟が、
都合が悪いと泣いてすぐに逃げる。

子供が泣くと大人は許すのです。
とてもずるいと思いました。


昔の家のトイレは半分外にあったので
恐がりの弟は夜になると泣いて
親に付いて行って貰っていました。

あんなに威張って私をバカにしてばかりいるのに、
都合が悪くなるとすぐに泣くのです。

自分の為に都合の良い事なら
すぐに泣いて思いを遂げるのです。

私はそれを見て、
どんなに恐くても恐いとは言うまいと決めたのでした。



そして
我儘=迷惑。
自分の為に泣く=卑怯者。
と言う図式が自分の中で出来上がったようです。


だから弟のように
我儘は言うまいと決めたのです。

だから自分の為に
人前では泣くまいと決めたのです。

あんな、見苦しくて卑怯な事は
私は絶対しない!


弟の言う事は何でも言いなりの親。
私の言う事は届かない親。
私が何をしているのか知らない親。
弟がどんな事をしているのか知らない親。

それなのに要求だけはする親。


泣かない事は私に出来る数少ない
反抗と心の表現だったのだと思います。



●自分で決めたクセ●


1、我儘は言わない。(我慢する)

2、自分のためには人前で泣かない。




以上、今日の自覚した「クセ」です。

だれに強要されたのでもない、
自分で決めた事でした。

重い鎧の二つでした。







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