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木漏れ日の空間にようこそ !!

$1 【良心と小乗に関する記事】

 






【宗教は小乗思想の在り方で違がでる(再編集)】    
小乗がキチンと理解されないまま(究めるとは違う)大乗に走ると悪魔に足をすくわれます。例えば功名心に傾いていても気付かない等です。宗教理念として、当ページに記す宗教ととキリスト教の違いを述べるとすれば、一般(普通人の多数)にはできないこと、例えば「左の頬を打たれたら右の頬をも差し出せ」を私の宗教では、普遍的な教義としていないことです。実行しても相手に後悔の悔悛の念などの反作用が起きるから大丈夫でも、反作用の起きない人もあるのです。勿論、相手に反作用が起きる起きないは自己責任になります。自分が頬を撃たれるような行為を棚に相手が行ったことを非難すれば、右の頬を打たれて左の頬を差し出しても相手には悔悛の情も反作用も起きな筈です。自己責任の教えが抜けていると言わざるを得ません。

但し、神に願えば相手に悔悛の情や反作用が起きるかも知れません。私の宗教は神は信じる存在ではないと位置づけています。自己責任であるか?どうか?も自分で判断しなくてはならないのです。全ては自分の中にあるとする思想が宗教といえます。しかし、人間社会の相互関係の中にあって互に相手の責任を指摘すれば宗教ではなくなります。そこで、何故自分の責任になるか?互に知る必用が出てきます。しかし、相手にも相手自身の責任を追及することを要求すれば、又、宗教の意味が無くなります。要するに相手があっても相手にはしないで、自分だけのせきにんを追及する行為が小乗と言えます。自答自問などの自己追及の方法を一般に示せば教えになります。即ち小乗とは行いのことであり何の行いか?と言えば自己研鑽のおこないです。

仏教では、小乗(思想⇔原則は自ら答えを得ること)を治めてから大乗に移行することを基本としていますが、大乗を行うことの中で、小乗の在り方に気付いて行くとと云う思想もあるかも知れません。しかし、上記思想は、この世的な常識からすれば、エリート向きと言わざるを得ません。いわば特権思想です。又、しかし、魂はこの世的に限って論じられるものではないことも事実です。エリート思想もあり得るのです。自己責任にするしか仕方ありません。選択の自由があれば、結果は自己責任になります。上記マンネリズムに対して、間違っていても最善の努力があれば良心の抵触は解消されます。 以上は、宗教を含む、倫理に関する思想の自由に関して述べたこものであり、他の分野に属する思想は関知しません。

参考として、私の宗教には、研究と云う概念はありません。研究と云う概念は、科学の場で使う概念であって、宗教の場では、追及になります。霊的な概念も、原則としては研究の対象にはなりません。(私の宗教では)研究が追及になるからです。霊的な概念を追及すればいずれは、不思議なことに何らかの現象が得られます。得られると云っても必ずしも良いこととは限りません。現象がえられれば、研究材料になりますが神の存在(存在するか?どうか?)に着き当たります。神が存在すれば科学が登場してきます。そして科学でも未の存在があることを主張します。幾何学上で、四次元球体が循環と定義でるか?暗に神の存在を認めなくてはならなくなります。

鳥の雛にのDNAには流体力学の設計が組み込まれているのか?それとも必要に応じい設計が組み込まれて行くのか?設計は流体力学呼応(呼応していただける)の件してとは異なった構造になっているのか?尚、テレパシー開発ノウハウの有効性に関する、超能力者(霊能力者)の呼応(呼応していただける)の件して、2011年07月07日現在世界に該当する超能力者が100~1000万人存在(暫時増加することは考えられる)するとして、殆どが存在の確定はできない人達と考えなくてはなりません。私にとって確定できない存在は、霊的に目上の存在(善悪はあるかもかも知れない)と位置付けられます。霊的に善意の目上の霊が存在が判明するような形(判明すれば最後には切り結ばなくてはならない)で指導又は、協力するばはないと思っています。(2013/06/24)
 



【自己顕示欲と自己表現の違いを示す】 1
岡崎高校先生、生徒に言わせてもらいます。「書いたものを特定人に預けて」私に渡していただいても何の意味もないのです。理由は、評判評価など教えてもらっても仕方がないのです。言いたくはありませんが、そうゆうことを行うのは矢田先生であると推測しますが果たして生存しているのか?どうか?も知りません。他に誰か行う人が居れば止めて下さい。訴訟行為に役立つと云うことでしたら、弁護士の承認を取っていただきたいと思います。該当する意向があったと仮定して、私が評価すれば自己の立場で、自己顕示欲が顔を出しているに過ぎないのです。自己顕示克服するは自己表現(オレにはこう云う才能があり、こう云うことができる)に変えなくてはいけません。相手の又は全体のために言行して表現しなくては克服はできません。尚,注意忠告は自己表現です。

「戦死を覚悟で執政する人に贈る寄せ書きと勘違いするな」と言いたくなります。又あなたが、自分でヤッテよいことか?悪いことか?判断を私に求めてはいけません。私は言葉では言いませんので、ふだんの言行で判断しなくてはいけないと云うものは、アドバイスでも注意でもありません。自己顕示欲を助長する思い方に過ぎません。確かに言葉で注意忠告できないばあいもあります。それは自己責任です。上記に関して岡崎高校の先生方をはじめ同窓生に心当たりが、なければ、外部の者、特定の警察官、政治家が同窓会に介入していることも考えられますので、事実調査を行い事実なら厳格な対策を取っていただきたいと思います。仏教では何と教えているか知りませんが、本能と自尊心と自己顕示欲は無くすることは出来ません。克服するものです。想念上で「よし解った」と云う概念が入りましたが誰か特定できません。(2013/06/23)



【小乗の概念と反省の意味を記す】
あの時ああしたのが悪かった!こうすればよかった!と云う反省は小学生の反省です。いやしくも経団連に名を連ねる者の行う反省ではありません。但し、反省材料の拾い出しなら意味があります。拾い出しが正確にできなくて謝罪しなくてはならなくなる場合もあります。従って第一段階の反省も必用です。指摘されれば直ぐに解ります。指摘されて解かるのでははんせいではありません。即ち、正確な拾い出しができるか?どうか?は第一段階の反省としなくてはいけません。第二段階は動機、目的が、愛であったか?貪りであったか?を反省することです。第三段階は、動機、目的を操つっていたものは何か?を反省しなくてはいけません。

例えば自尊心だとか、自己顕示欲、名誉欲、恐怖心です。本能は第一段階から第三段階まで通しで影響を与えています。以上の要素が顔を出す原因やどのように影響しているか?知らなくてはいけません。第三段階の要素は第一段階、第二段階に影響を及ぼしています。第二段階の要素は第一段階に影響を与えています。すり替えも第一段階から第三段階まで通しで存在し得る概念です。従ってすり変えは概念自体が悪(すり変える行為は愛ではない)であり選択の余地はありません。理由は形容動名詞だから他の概念を修飾して存在するからです。「知っていて何で間違うのか?」答えは文言や行為で確定されて居ないからです。解り易く言えば、文言で善悪を教えたり行為で愛を実行していないからです。

厳密には行為には愛とムサボリしかありません。但し、行為行動があっても、各段階で悪を選択すれば間違いを犯します。正確には間違いではなく選択した結果が現われるのです。例えば自己顕示欲が自己表現になり。(欺瞞を含んでいれば自己表現てはありません。欺瞞の無い自己をひょうげんする意欲)私は、自然か?不自然か?を考えることにしています。名誉欲が満足感として現われるのです。自尊心は克服されれば誇りに変わります。以上は行き着く先が判ると云うことであって現状の私ではありません。個人の現状なと無限であり、程度の問題です。神しか判らないことです。教えてもらって「よし解ったと云う奴があるか!」「それで誇りが持てれるか?」(2013/06/12)

 



【現代では小乗と大乗を同時に説かなくてはならない 】
来世があるか?ないか?ついては、現在の私の状況では状況証拠も得られません。については仮定で言うしかありません。来世があると仮定すれば、魂の向上を心掛けない者は愚か者です。愛や慈悲、信についてはそれぞれの宗教の教えがあります。しかし、目的や動機を知ることに関しては宗教思想の違いは関係ありませんが重要なことです。理由は動機となる目的の先取りは打算が働くからです。人間である以上全く打算なしで言行することはできません。この世的には許されることですが、この世に於いて霊的な目的を先取りすると、結果が目的と一致しなくなります。あの世即ち、霊魂の世界では、想念が自分自身ですから愛や信以外の想念は周囲と強調出来なくなるから不都合がおきることは容易に理解できます。最も戒めるべきは霊的帰結(帰結とは予想される結果であって結果そのものではない)を先取りしないことです。

詳しくは先取りしても良いが、目的が善であるか?どうか?によります。つづいて善とは愛の動機で行った結果です。以上に記す目的の先取りは結果が存在しなくては出来ないことになり矛盾が生じます。(愛や信でなければ目的とする結果は巡って来ないのです。したがって動機が架空の目的をもった動機になる)以上は私の宗教で説明した結果で他の宗教については関知しません。参考のために記しますが「タンカ」は本来の目的は相手を懲らしめるものです。しかし、[タンカ」の功罪を知ると目的が自己の向上に進化することもあり得ます。(意識の呪縛から解放される)「思いきって叱る」ことも同じです。上記目的の進化する内容については密教は説明は行わない様子です。自ら知ることが即ち、修行なのです。

教には小乗(教義の概念)と大乗があります。小乗の部分が密教であり、(但し、密教を習得する者は全て正しく密教の概念に従っているか?どうかは関知しません)大乗の教えが顕教であると私は理解しています。理解しています。小乗は指導者の養成と試験です。私はそのように理解済ます。尚、旧来の仏教が何と言おうと、小乗、大乗は概念であって、内容を他人に教えなくては小乗、大乗の教えにはなりません。大乗は教授になる試験に合格した者が一般(鎌倉時代は無知なる大衆)大衆を方便によって一定の説明が行われていたと理解します。但し、実行が伴って(実行の記憶を説く)いれば方便とは言えません。しかし、現代では一般大衆は無知ではありません。方便の教えでは通用しません。

しかも、インターネットなどと云う情報伝達機関ができれば、教説する対象を特定することはできません。したがって、宗教を説く者は小乗(古来の仏教に従う者は小乗の教え)と大乗を同時に説かなくてはならなくなります。しかも、説明は方便では済まなくなります。真理を基にしなくてはならなくなります。一人で説明すれば行き詰まります。(真理を追究すれば行き詰まる)率先して説明してもらえる人が出てくれば当面は当面は行き詰まりません。しかし愛や信に関する真理が判らない以上最後は行き詰まります。しかし。説明した以上説明をつづけるか?途中放棄するか?の二つに一つになります。私は断り(ここからは各自で求めて下さい等)を入れて途中放棄します。但し、この世の現象に限るテーマは自己完結が可能です。「中国で天台宗の復活の機運がでてきた」のですか?

私が発案したアイディアやノウハウに関する利権は、分配したものを除いても、金銭に換算すれば多額になると思います。今生では不要なものになります。残された金銭は子供達に相続できますが、生まれ替わるとして、日本に生まれ変わる可能性は大きくなります。従って日本に寄付します。但し、今生に於いて一旦、私の所有名義にならなくてはいけません。唯の金銭で残すより、ナホトカが買収可能なら買収資金(国の出費と合算して)にして貰った方がよいのです。理由は、実例をもって大乗の教えとすることができるからです。(ロシアとの合意は個のよ的なことです)但し、霊的な解釈をもって私が購入して国に寄付することはできません。又、ロシアの意向を無視していただいてはいけません。ロシアの反対ではなくアメリカや中国の横槍があってもいけません。不可能なら取り止めていただくだけです。(本音を言わせて殺したい人がいるのかも知れません)(2013/06/29) 
 



 【大乗の教えとさせていただきます(1)】
安部総理はアメリカやロシアの頭越しに外交を展開しても成果は得られません。の目下に位置しなくてはならなくなると云うことです。理由は構想を盗むことはできないからです。私の構想は私が発案したアイディアや技術の特許権が神の意志に添うようになっているからです。お断りしますが神の罰が無ければ、上記構想を盗む行為は特定人の特権とはならないと思います。要するに政治仲間(政敵とか党派が違うかは関係ない)の先輩罪を罰することは考えなくても済むと言うことです。神の罰がなければ、誰でも先輩の罪を罰する必要はなくなると云うことです。先輩の中には恩のある人、借りのある人も当然ありますから神の罰が無ければ恩義や借りも無視できます。以上は秩序の破壊です。矛盾に挟まれると秩序の破壊になります。無意識の内に恩や借りを取り入れた意識が行為に出ているから矛盾に挟まれるのです。即ち片方では神を信じ、片方では神の存在を信じていないから矛盾が起きるのです。理由は小乗ができていない内に大乗を行おうとするからです。(行いたくても行えないのです)



【大乗の教えとさせていただきます(2)】
岩倉神社の京都支殿が落成したら、囃子で使う衣装を境内で販売して、購入者にネットワークのダウンになってもらうようパンフレットを添えておけば、年に一回くらいの祭りの費用はできる思います。以上は、、販売業者が神を利用するものではなく神社自身が自己の為にお行なうものですから罰は当たらないと思います。販売業者が境内で販売して利益の一部を神社に奉納すると罰が当たるかも知れません。したがってパンフレットは神社が経営する内容でなくてはいけません。「よし解った」ではない。お前は解ってはいない。(もうよいと云う波動を感じる)お前をだけを対象として記しているのではないのだ!「他の神社がお守り」その他をネットワークで販売することはいけないとは言えませんが、お守りは趣旨からすれば、直接参拝したに人に販売するものだと思います。趣旨を考慮しなくてはいけません。又、岩倉神社に限らず、私の発案した「ネットワークビジネスのシスティムをご利用いただいても使用料はいただかなくても結構です。尚、上記に記す悪徳は私にとっては悪徳となっても神社にとっては功徳になるとの主張は自分が奉納したシスティムで、契約料を戴くことは、普遍的な悪徳になります。(個人的な悪徳ではない)からやはりご辞退します。(2013/05/27)



【良心の呵責から逃れる行為は復讐ではありません】 
当時の岡崎高校の先生方にいう。私は、竹下を公開の場で糾弾できる資格があるのです。(霊的な意味では公開の場で糾弾しても不都合は起きない)一つは、中学を卒業して後の最初の撞球会の振るままいを高校の先生方は追及する義務があると考えます。理由は彼も、私も岡崎高校の生徒だったからです。私だって同調せざるを得ない酷い者だったのです。彼は安田久雄さんのような、知能犯と凶報犯が同居するような性格(菅沼?広吉さんの怪我の内容は聞いています)ではないにしろ、私は、先のことも考えられる年齢に達していましたから、振り返って良心に抵抗があれば、彼を非難、糾弾しなくてはならなくなります。私は同調と云っても後片付けに参加しなかっただけです。真木由紀子さんは父親に告げ口したかもしれませんが、
私は、自称養父には告げ口はしませんでした。理由はは第六感で後につけがま回されることを知っていたからです。上記ないようでも、あいまいな姿勢では、良心の呵責から逃れられなくなります。(次から次えと接着かれます)それが゛良心と云うものです。
 



【神が護っていたことを知るには小乗の知識が必要】 12-04 #
霊的に護られていると云うことは、確かめるからそのように回答されるのです。ある意味では現在生きている人達は皆霊的に護られているのです。唯、今後のことに関して神に質問すれば、それぞれの人にに応じた回答があるだけです。神にも上には上があるから神に質疑を仰ぐことも可能になるのです。神が良心の中に存在する以上宗教無しでユートピア社会を現出するなどと云うことは出来ません。良心の囁きは神の存在を意味するものではないとする考え方は自由ですが必ず行き詰まります。確かめることも自由ですが自分の良心を確かめるなどと云うことはナンセンスです。霊的に護られていると云うことは、護ってもらえる人が居たと云うことであり、何故、護ってもらえる人が居たか?と云えば神のお計らいです。護っていた人の立場を考えれば解かります。解かり易く言えばAさんはBさんを護らなければ自分が破滅していたと云うこともあり得ますえるのです。例えば親が幼いわが子を虐待すれば社会的に自滅します。理由は其の他もありますが、人間技で出来ることではないと思います。




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