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木漏れ日の空間にようこそ !!

●因果応報の実情を語る


大海原


はじめに、ここに記す一連の記事は、評論として書いたものではなく、体験として書いたものですので、そのようご了承下さい。又警察や相手側(複数あり)の目も通りますので、隙のあるものは書けません。したがいまして、内容や表現が堅苦しいものとなっておりますが、ご了解下さい。

五輪の菊

因果応報の思想を語る(1)
原因は全て自分にあるならば
過去生までさかのぼらなくは
真偽は解からない

■本物、偽物を問わず殆どの宗教は、善悪やその他の行為行動は、己自身に還ってくると説きます。因果応報の思想です。そしてこれが、宗教の根幹を占める思想であるとも云えます。ここまでは納得できますが、必然的に、今ある全ては、己自身(の過去)に原因があるとする、逆説が同時に成り立ちます。



そうしますと、どうしても納得のいかないことが生じます。その一つは生い立ちであり、極端には、目の見えない人、耳の聞こえない人、その他、先天的な病気を持って生まれてくる人が居る以上、そのことに付いても納得のできる説明をしなくては、ならなくなります。



その答えとしては、両親その他、周囲の人達の原因を指摘するものがありますが、これは、全体としてどう捉えるか?の問題であって、社会教育の問題です。勿論宗教は社会教育をも内包すべきものではありまが、その個人の原因追求の回答にはなっていないのです。即ち、その原因が本人以外にも、あると云うことになるからです。



後天的問題にしても、拉致被害者をはじめ、今日、この頃の犯罪被害者など中にはは、そ原因が、本当にその人の中に在ったのか?と想いをはせれば、ノーと云わざるを得ないものもありましょう。



以上の事柄から類推すれば、行為行動以前の心の中の動機や想いについても、納得のいかない境遇を背負った人々も、当然世の中には存在すると思います。そこで、出てくるのが、前世からの因縁説であるが、これには指導をする方も、受ける方も気をつけなくてはならないと思います。

五輪の菊

因果応報の思想を語る(2)
他人の過去生を知る能力のない人
がアドバイスをするなら、問題解決の
方便にすぎない、無責任である


■エドガード、ケーシーのリーディングその他の例もあり、過去生の因縁は否定しがたいにしても、指導する方としては、他人の過去生の正しいリーディングのできる人、能力の有る人なら、たとえリーディングはしなくても、過去生の事情を知っているのだから、正しいアドバイスができると思うのです。そういう人は云うところのカルマの法則でもって、過去世からの因縁をアドバイスする資格はあると思います。



又リーディングをする能力のない人でも、人生経験、体験、状況証拠などから、確固とした、信念と、自信、熱意と責任を兼ね備えた人,例えば精神医学にたずさわる人などが、説くなら良いでしょうが、ともするとそのような考え方、捉え方に、何の裏づけも根拠もなく、ただ問題解決の方便や単なる手段としてのみに使われると、その行為自体が、風潮化して、管理できなくなり、一人歩きをはじめ、蔓延化する恐れがあります。宗教そのものが堕落します。これはカルト宗教によく見られる現象です。



GLAがそのよいお手本です。今にして想えば、何の根拠も責任も持たない、講師と言われる人達が、自分の想像で創り出した過去世から、因果律をもって、自からの反省の物差にするのは良いとしても、自分自身に当てはめることに留まらず、他人のアドバイスにも持ち込まれて、一般会員にも伝わり、風潮と化して蔓延していたのだから驚きです。しかし講師と言われる指導者にとっては、相談を受ければ、何かをアドバイスしなくてはならないのですから、そのように進展するのは必然的な現象とも云えるのです。



具体的に説明しにくいことですが、敢えて何が間違っていたか?を記るせば、自分の反省の材料とすること、他人の向上を図ること(他人の反省材料を過去世に求めるなど、余程の霊能力者でないと無理)即ち、自分自身の心の中の問題と心の外の問題をチャンボンにするからそのような間違いが生じるのです。仏教で言うところの小乗(自らの向上)と大乗(衆生を救うこと)をチャンポンにするからそのようになるのです。


五輪の菊

因果応報の思想を語る(3)
教義と指導の狭間に在っても
個人的なアドバイスは客観的に
説明できなくてはいけない
 

■前ページまでに記した内容については、東大の工学部を出て、トヨタ自動車を経てGLAに転進した人物が、音頭を取って行っていたのだから、普通の人間として入信した人は、あれだけの経歴を持つ人が言うことだから、間違いないだろうとなり、コロット、ヤラレます。立派な経歴の持ち主は、経歴に対する責任を、自覚してもらわなくてはいけません。



無断で他人の職場にウラから関わり、問題を起こしておきながら、よくもまあ~、責任のことを全く考えずに居られるものだと感心します。責任は神が取ってくれるものと想っているのですから、自分の責任のエリアだけではなく、他人のエリアまでシャシャリ出れるのです。間違った信念のなせるわざと言わざるを得ません。



私も当初は彼が、このようなこと(HPの内容)をしでかす人間とは、とても思えませんでした。彼の云うところの切磋琢磨をしている間に、次第に化けの皮がはがれたのです。しかし、悪意と云う化けの皮ではありません。間違った信念の化けの皮と云うべきでしょうが、問題が起きるまでは、咎めることができず始末が悪いのです。



結論として、私が宗教指導者の立場で、アドバイスしなくてはならなくなれば、「今現在抱えているものの中には、過去生から引きずっているものもあるであろうが、その内容については、何の証拠も得られないのだから、詮索しても意味のないことであり、間違った判断は、思い込みを引き起こし、想念の中で勝手に前世の物語を創る等の間違いを引き起こし、却って事態を悪化する恐れがあるので、今現在できることで解決を図ることをお勧めします」と、指導するでしょう。



客観的には何の根拠もなく、如何なる人も責任を取ることのできない、過去世からの因果律を持ち出し、他人にアドバイスするとは、とんでもないことです。他人とは客観的な存在なのです。であるなら、何事も客観的に説明できることでアドバイスしなくてはいけないのです。個人的な指導は、一般的を対象として、教義や思想を説くことは意味が違うのです。

五輪の菊

因果応報の思想を語る(4)
過去世の因果を持ち出されれば
根拠の当否を正すことはできない
感性として怒りが生じる

■因果応報の思想に関して、実例を示せば、(1980年)当時GLAの中京本部事務局長、中野富敏は、研修会にて、心に引っ掛かること(人生の場で)があれば、書くようにと指示しましたので、私は書いてアドバイスの順番を待っていたところ、順番が廻ってきて、「反省できましたか?」と訊きました。私は、「親でもない者が、親だと主張するのは我慢できません」と答えたところ、「あなたが悪い」と、即座に決め付け、それ以上、内容に付いては訊き正す姿勢すら示しませんでした。ここで私が親ではないと云った言葉は、単に血縁のことのみを指していたのではなかったのです。



少なくとも此処は宗教に関する研修の場であります。自分から、心の問題に関して関心を抱いている人達なのです。中野冨敏はそのような人達を相手に指導していたのです。血縁が親でないから親と主張されるのは腹が立つなど、小中学生のヒネクレ者の言うことなのです。しかし問題を提起する者としては、議題として言わざるを得ないのです。そこから内容について話すと云う順序が、常識なのですが、そこで「あなたが悪いと」断定されれば、内容に関して語る余地はなくなります。仮に超能力により、内容に関しても知ることができたとしても、おかしいとしか言えません。



当時のGLAの指導方針を要約すれば、反省が出来たということは、自分に非があったことを認めることでした。(厳密には非と言い難いもので、云うならば反省する余地があることも含む内容でした)少なくとも私はそのように理解していました。その根拠は教義に、自分の今ある境遇は全て自分の中に原因があると謳っていたからです。ですから何らかの不平不満や、その対象を非難することは、取りも直さず反省ができていないことになるのです。



ですから、単純な中野富敏は、「自分の今ある境遇は全て自分の中に原因がある」のだから率直に教義に従って、「あなたが悪いと」決め付けて回答としたのですが、それ以上何も訊かないのならば、何故書くよう求めたのか?と言いたくなります。内容を書くよう求めたと云うことは、内容を知るためではないのか?と言いたくなります。アドバイスとは結論を告げることではないのです。内容を知らせずに、勝手に一方的に不平不満を訴えたなら、そのような対応をされても仕方がありませんが、うではなかったのです。



これではアドバイスにはなっていないのです。第六感(感情)でその意味を受け取れば、「お前は教義に反したことを過去に行っていた!それは悪いことだ!」と叱りつけられたも同然です。感性で受け取れば、まるで、道徳的に悪いことをした人間に言う言葉としか解釈できませんでした。後で知ったことですが、彼のアドバイス?内容はその時の私に限ったことではなく、彼の常套手段だったのです。現にその時も、私の斜め前方の席に座っていた22,3才の青年に彼が「それはあなたが悪い」とヤリ、ヤレタ青年は怒って席を蹴って退場してしまいました。(第六感では、即座に不合理の原因を指摘することは、自分自身にもできないのですが、感性として解かり怒りが生じる)

  

五輪の菊
因果応報の思想を語る(5)
思想を説くには、能力不足である。
パフォーマンスをエネルギッシュに
こなすのみでは無理が生じる。

■前ページに記すような現象が生じたのも、全てが彼の責任とは言い切れないのです。宗教のような思想に関する教説をするには、彼は知能が低すぎたのです。工場の現場の係長程度なら務まるとしても、思想(哲学の親類とも云える)を教説する責任者としては無理があったのです。
パフォーマンスをエネルギッシュ行い、その努力を上役である、谷口健彦に認められ中京本部の指導責任者の地位に就いた分けですが、ヤハリ不適格であったと思います。



政治なら、パフォーマンスも目的遂行の有効な手段とも云えますが、宗教では意味がないのです。何のための手段なのか?勢力拡張のための手段なのか?考えてみれば無意味なことが解ります。偽の宗教では、教義の内容よりは勢力拡大の方が重要ですので、パフォーマンスも大いに意味があるあるかも知れません。それは別として更に述べれば、中野富敏の言は、その時その場の、私だけに言った言葉ではなく、誰彼の見境なく云っていた様子です。



宗教的指導として、そういう指導が蔓延していたことを示すものであったのです。そういう指導が蔓延する思想の基は、当時本部副事務局長であった、前記東大卒の谷口健彦に在ったものと思うのです。
何故なら、中野富敏は、自らには、考え、思索、創造する能力はなく、上級指導者のそれを、単に猿真似的に取り入れるだけの,人物であったからです。勿論彼も人間ですから考えるでしょうが、考えが猿真似的なことしか至らないと言うことです。



参考として当時のGlAの指導目的を記せば、仏教で言う小乗に属する、会員を悟らせることに、重点が置かれたものと想像します。(会員)が悟れば過去生の記憶もよみがえり、過去生からの因果が納得でき、心の中のこだわり、その他の悪しき思いも解消されると云うことなのでしょう。
そうなれば、心の外の問題解決も容易になり、衆生を救うという大乗に属する目的も達成できると云う構想だったと推測します。



簡潔に説明すれば、何事も全て、自分自身に原因があることを無条件で鵜呑みにすれば、霊的な力により、その原因をお知らせしていただくことができ、新ためて納得できると云うものだったと思います。私は、その捉え方は彼らに指導される前に、独自に実行すみで、結論から云うと気持ちが被虐的になり、危険であると思っていたものであり、他人に勧めるべきことではないと思っていました。



しかし、本人自身で行っているものを、駄目だ!とも云えないし、云うべき立場でもなかったので、敢えて触れることは致しませんでしたが、常識的に考えても悟ってもいない者が、他人を悟らせることが出来るものか?
と言いたいたくなります。神や愛のフンドシで相撲が取れるようになったから、一歩神に近づけたと思っていたならば、思い上がりもいいところである!


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