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木漏れ日の空間にようこそ !!

◇祈りと超能力について・・


超能力-6


■GLAの教義の中には、これこれの場合は、人をbr>殺してもよいと云う教説はありませんでした。しかし、救世の事業を遂行するためには、教祖をまもらなくてはならない。したがって、教祖ノ脅威になる存在は排除しなくてはならない。そのためには、人殺しもやむを得ないとする意見、考え方が、教祖周辺から自発的に湧き出て来ないと云う、保証もない雰囲気もありました。又、作為、無作為にかかわらず、教祖を護るためには、脅威となる人間を、矛盾で挟でストレスを生じさせると云う行為は、例え死にいたることになってもできないことではありませんでした。(教祖は咎めていない)しかし、作為の人殺しは行っていないと思います。

人殺しを行っていない者を死刑に処することは民主主義社会ではできないのです。しかし、霊的絶対強権社会を創ると云うことであれば別の話です。常識的に考えれば、何処にも殺すとト云う概念のないところから、「殺す」などと云う言葉念が出てくる訳はありません。外部から入ってきたものなら、GLAは、そちらの責任を追及しなくてはいけなかったのです。放置して人任せ(幸福の科学、大川総裁任せ)では救世の事業などできる分けがありません。悪くすれば、超能力の戦いに発展しかねません。間違った信念は、自分自身ではまったマインドコントロールと云えます。国の公安当局は、上記内容を掌握していなかったと云うことであれば、怠慢と言わざるを得ません。

神に祈れば、精神異常者も矯正できると云う超能力が有るならば良いとしても、何の裏付けもなく単に祈るだけでは、祈りによって何事かを成し遂げると云うことはできないと思います。いわんや、良心にやましいものを持つ人を対象として祈れば死ぬ、などと云う超能力は悪魔の領域で行われることであると言わざるを得ません。救世の事業など出来るとは思えません。但し、祈りが意味を持たないと主張するものではありません。宗教指導の元に、具体的な事柄に関わった以上、祈りは、祈りとして、現実に何らか行為を並行し行い、その行為が成就することを願って祈るならば意味が有ります。確かに、GLAえの奉仕を通して互いに切磋琢磨を行い魂の向上を図ると云う活動は在りました。

上記は、根幹的な部分ですから、目的が成就することを祈ることに関しては間違いありません。それは、良いとしても生末節に関する事柄は、この世的な指導がなくてはいけません。確かに形だけの指導はあったと思いますが、指導内容を成就するために祈ったからよいとするもの(後のことは神に一任する)であれば間違いです。(参考ながら私は、ホームページ上でキチント事後処理を行っています)教祖をはじめ、幹部会員は、彼らの行為が、愛に照らして正しかったか?どうか?が問われなくてはなりません。(検察がとわなくてはいけなかった)上記を問えば、愛とは何か?問われます。答えは独善的なものになると私は推測していました。





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