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木漏れ日の空間にようこそ !!

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b22【一人教祖にも意義がある】
私は一人教祖と云えますが、組織を持っていないので宗教法人として国から認められることはありません。私が疑問に思うことは国は宗教法人について、法人としての組織の在り方をの管理するのか?それとも、宗教思想の中身の、いわば宗教としの思想の在り方を管理するのか?と云うことです。一昔以前のことですが、暴力団が宗教法人に衣替えしたと云う話も耳にしましたが、組織運営に関する管理なら暴力団が宗教組織を申請しても、法律には抵触しないのです。私の個人的な考え方としては、国の都合はどうあれ、宗教に関する思想、理念を表明できる人は、組織を持つ、持たないには関係なく教祖の立場であると思っています。

GLA初代教祖高橋信次氏は、「自分が死んでも墓などに祀ってもらう必要はなく、遺骨などは海に流してもらえばよい」と教説していましたが、やはり、遺骨はGLAが保管しているものと思います。又、幸福の科学大川総裁は従来の仏教各宗派を「葬式仏教」と批判していましたが、幸福の科学じたいが、神の名の下に冠婚葬祭の儀式を行い、遺骨を保管するして祭るといった、行事を始めた様子です。要するに大川総裁の言い分(思想)は儀式や行事を取り行うこと自体は、宗教思想、理念の当否とは何ら関係なく、問題は教祖が霊界からこの世に送り込まれてきた神に近き霊魂であるかないかの問題であると行いで自己表明していると言えます。

上記に関して、私見をのべれば、現在の社会事情を省みれば、葬式仏教(キリスト教でも同じと考えられる)はなくてはならないものになっているのです。宗教が思想、思想理念から儀式、行事に分離して行くことになると考えられますが、分離は役割の問題であり仕方がないと思います。宗教を説く者は儀式や行事まで執り行わなくては個人で、思想としての宗教を説く人はいなくなり、宗教の停滞や不誠実の横行の原因になります。ちなみに、私は、祖父母が祀られている仏教の宗派「漕洞宗」であり実父の位牌は「日蓮宗」であり祖父母の祀られている寺とは別の漕洞宗の寺に預かってもらっています。

2009年07月23日⇔木漏れ日の空間 「カルト側が私が死ぬとする根拠」 より


 







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