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2009/01/21(水)09:24

暴力団の介入を未然に防ぐ行為は恩に着せられない

人権侵害である(289)

自称養父に関しては、自分が何を行えば客観的に崇められるか?はよく知っているのです。 家屋の増築に関して悪徳業者に引っかか1つた時は、自称養父の政治力を頼みましたが、その時は、内容証明書を相手に出してからのことなのです。内容証明を出す以前は単独で地元の政治家にすでに依頼していたのです。自称養父には、何の目的で頼んだか?と言えば、万一のことを考えて暴力団の介入を未然に防ぐためだったのです。言わせてもらえば暴力団の介入は公けに関することなのです。 自称養父に依頼する必要があったか?どうか?は私には分からないことだったのです。怪しげなものは直接警察に訴えてもよいのです。本来はそのようにできなくてはいけないのです。できないままに被害が広がると云うことは公けの問題なのです。以上は、恩着せがましく言われなければ無意味な記述になるのです。したがって、これまでには記していないのです。もっと言えば、多分なかったと思いますが、暴力団の介入があったとしても、私に恩を着せることはできないのです。 実際に介入があれば個人的には恩を主張できるでしょう。あったならどうなるか?考えてみてもらいたいのです。道徳的には恩が成立したとしても、何で政治道楽を行うことができたか? その下支えは何で、恩恵はだれが受けていたか?を検討すれば、下支えの少ない武雄や勉君が恩恵を受けていて、祖父や自称養母を除いて、下支えの大きかった私は、恩恵を受けていなかったのです。これでも未だ、恩が主張できるのか?と言いたいのです。 豊田章一郎氏は、暴力団に対しても、隙をつくらないければ、近ずいても構わないと云う考え方をお持ちであったように窺い知りますが、氏ばかりではなく、誰でも、自分がそのように捉え、自分にあてはめるだけなら結構ですが、例え客観的に観て、隙をつくらないと判断できる人に対しても、「あの人は大丈夫だから少しくらい近づけても構わない」と云った考え方は間違っていることを知ってもらう必要があるのです。他人を対象として、そのようなことを言える資格は誰にもないのです。そのような言葉があったならば傲慢以外の何物でもないのです。

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