木漏れ日の空間にようこそ !!

2009/06/08(月)15:38

個人情報漏洩は国の意思表示である

現在進行形でお知らせしております(72)

国による私の個人情報無漏洩があれば、もう解決しないとの私への圧力であり意志表示なのです。幸福の科学は咎めれても咎めなかったと云うことです。汚いのです。月刊しに一項目おけば、よかったのです。政治はメディアが巨大化をすることは防がなくてはいけませんが、個人の言論の自由は護らなくてはいけないのです。手段も同時に護らなくてはならないのです。特定の政治家が個人情報の漏えいを指示できる分けはないのです。目的を依頼しても手段は、依頼できないことが原因にある結果なのです。人権侵害は解決しなくても、私は地獄には行かないのです。地獄に行くと主張する者は何を根拠としているか?国の取り締まり当局は追及する義務があるのです。この事件はカルトの事件です。地獄の概念が大変重要なのです。通常の事件は地獄など無視できますが混同してはいけないのです。 カルトなどに入るからいけないとの主張には、カルトの暴走を食い止めたのは私だ、と回答します。自分の責務は果たしているのです。警察の協力は勿論ありました。協力が不満なら適当な人を旗頭として何故打倒しなかったか?です。私の恩義をかわしたいために、警察の力が抑えたと主張するなら任意の被害者を名義人として、カルトの暴走を防げた筈です。協力であることは明らかなのです。警察が協力を認めても、今度は国が、私の恩義はかわせなくなるのです。現状では国は、恩知らずなのです。何回でも記すことになりますが、当方が、肖像写真の購入した時期は、民事で幸福の科学が敗訴して後のことなのです。私が本丸の批判を開始して初めて販売停止になったのです。この世では公僕との結構ないでたちも、想念が自分の世界に行けば、いでたちは通用しなくなるのです。 想念の世界でも低次元では、イメージでできた形がの世の名残として残るのだそうです。人質と面会できなくなった件について、私が板挟みになると云う理由で、帰ってきてはいけないと云えないとは言えないのです。責任の持てる自信のある人なら言ってもらってもよいのです。真実は誰が言ってもいけないものはいけないのです。何故、私が言うといけなくなるか?帰ってはいけないと言った人の責任が追及できなくなるからです。何故そのようになるか弁証法まがいの論理しだんだかからです。板挟みになる条件を無視して言葉のやり取りだけを議論の対象にしているからです。これほどのまやかし論議手段はないのです。板挟みは一枚の板ではできないのです。トヨタと大川総裁の決着がつかない限り板挟みになるのです。 まやかし論理で真理が追究できるものか!私がどちらが悪いか判断すれば、まやかし論理を展開した方が悪いのです。国が判定することなのです。「国はオレの恩を何と思っているのか?」物質不要の想念だけの世界に行けば、このような状況になるのです。仮に小沢氏が人質が帰ってはいけないと言ったとしても、状況の変化でどのようにも言い直すことができるのです。事情を知らなかったでも言い直してよいのです。章一郎氏とは立場が違うのです。小沢氏は例であって、誰でも同じなのですが、言い直しせば、言い直した理由が有れば通用するのです。しかし、弁証法は背景や理由を抜きにした言葉だけの論理体系と言えるのです。弁証法によってミーラにさせられたのです。検察や弁護士がそのようなことが解らなかったのかと言いたくなります。 尤も私が、ここまで言えるようになったのは経過を追ってできるようになったことも事実です。何故、私が地獄に行くのか?と云うことです。私も最初から行えば嵌ったかも知れませんが、論理体系が真理を追究に適していないと解れば、全てを御破算にします。御破算にできない人は、何故できないのか?と言いたくなります。「何故、私が地獄に行かなくてはならないのか?」その根拠を追及していただき、明確な回答が得られなければ、地獄話による脅迫は解決したとはみなしません。この事件はカルト思想によって起きたものなのです。仮にあの世もなく地獄もないことが事実でも、地獄話は脅迫になるのです。あの世はないでは回答にはならないのです。問題点をすり替えているにすぎないのです。 国の当局は、被害者にあの世はないと説得してカルト問題を解決できるなどとすることは、お役目主義と云わざるを得ないのです。脅迫の議論と、あの世があるか?ないか?の議論は別問題なのです。頭数なら警察官の数より私を支持する人の数の方が既に多いのです。あの世勝負でもよいのです。私の想像では冤罪などと云うものが起きる原因の多くは、問題点のすり替えによるものと思います。問題点のすり替えは、重要なことなのです。当事件だけの問題だけではないのです。間違った根拠で地獄に落ちるなどと言えば脅迫なのです。何故罪に伏せないのか?私に言わなければよいのか?第三者や人質に対してなら言っても脅迫にならないのか?私の耳に入らなければ何を言ってもよいなら、私に関しては、警察は何のために居るのか?他の人と私は同一人ではないのです。 高橋佳子に関しては、既に鈴はついているのです。実験はすんでいるのです。不可能なのです。事実ではないのです。同じ言葉を出せば脅迫なのです。責任当局は小沢氏に事情を説明していただくことを望みます。自衛隊が高橋佳子でなく、大川総裁をトヨタ方式でヤッテも豊田章一郎氏ではなく、高橋佳子によって私が霊子線を切られると云うことですので、お間違えのないようにお願いします。だったら私は打倒カルトの旗頭なのです。逃げる分けにはいかないのです。言葉で誰から聞いたわけでもないのです。テレパシーなのです。しかし、実も反撃しなければそのようななるのです。 事実ではなく、私の脅迫観念のなせるわざであっても、当人もこの世的な手段、例えば法律ノ場にもちだすなど行って咎めることはできません。警察も咎めることはできないのです。推測しかできない前提条件があれば、条件内のことは何を推測してもよいのです。例えば、人質が帰ってこなくなったのは何かあるのです。それを推測して何が悪いかと云うことです。詰問すれば言い争いになるのです。相手様の思うつぼなのです。そのような前提条件を改善しない方がいけないのです。民主党が自主調査を行うと云うことであれば当方に来ていただいても結構です。但し、家内と同席可能な条件でなくてはお断りします。 失礼な言い方かも知れないが、民主党には意志表示できましたので、小沢氏個人がつぶされても私には関係ありませんので、つぶされないように頑張ってもらうしか仕方がないのです。 ここが政治と違うところなのです。何の誠意もないくだらない声なき声がきこえるのです。何「初王手がはずれない」とは一体何を指すのか?声なき声と言っても幻聴が聞こえる分けではないのです。悟れば愛だけがあり誠意など関係ないらしいのです。私は誠意そのものは愛とは言えないが示す行為は愛とみなせると思います。相手にならないことです。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る