【解脱の意味を履き違えて、他人の立場が解らなくなった】
私はカルト側の思想のは受け入れ難いものがありますが、家族は、自分の身を削って国の為政者のために尽くす必要はないのです。利権などマフィアのドンに渡しすことなど、易しいことなのです。個人的に頑張る必要など全くないのです。為政者は、誰のために何を行うのか?勘違いしないようにしてもらいたいと思います。私でも命と引き換えなら渡すのです。未だ、国のため、国際社会のために拘っているのです。立場を変えて考えれば、ここまで公開されれば、自分の名前が出てさえいれば、「ホームページで見たけれども、お困りますの様子ですので宜しければお伺いします」と一筆はがきに出して返事を待つでしう。
ウラに不都合がなければ誰でもできるです。他人の指示を仰がなくても自分で判断できます。他人の指示を仰ぐと云うことは不都合があるからです。私はバカではないから解っているのです。問題は、家内と同席の場でないとウラ事実の存在を報告してもらっても意味がないのです。それでは、誰もできなくなるとも言えるのです。即ち、自分で自身の中に解決できない条件が元々備わっており、その条件こそかが過去世のカルマ(因縁因果)とカルト側は主張したいのです。一筆はがきに出すことは欠かせんが、それでも、私ならできるのです。(相手に次の手渡すのではなく⇔この場合の相手とはわたしのこと)相手の次の手を機転を利かせて、自分が行えばよいのです。
トヨタの協力があり、垣田君がオハラ樹脂工業に在籍していれば、彼なら用件を持って来れると思います。(豊田英二が谷口建彦の意見にしたがい。不当に分配したものを見直せば可能)
英二がてい妨害すれば、今度は、客観的人権侵害の証になるのです。種明かしをすれば簡単なことなのです。だから相手は必死になって種を前もって明示させようとしていると推測できるのです。頭の切れる切れないの問題ではないのです。どれだけ相手の立場や第三者の立場に立って観れるか?なのです。相手の立場や第三者の立場に立って観れば、自分の良心に呵責を受けざるを得なくなるのです。自滅するか?良心の働きを無視して力勝負に持ち込み、悪魔になるか?二つに一つの選択をすより仕方がないのです。
神など存在しないと想うことも言うこともできるのです。良心など、神もしくは悟った者にはないのです。他人にどのように映ろうと自分の想うこと、言うこと、行うことが全て世の為人のためであり、光であり力なのです。バチなど当たりもしないし、当てる人もいないのです。あるのは力だけと想うことも許されるのです。しかし、頭のみ切れて良心の働きのない者は、悪魔の素質があるのです。それでも未だ、真実は、霊的な力勝負も残されているのです。不徳など積んでいて霊的な力が得られる分けはないのです。悪魔が勝つとは限らないのです。そこで私が、神の支配する社会の建設を阻害した、調本にされようとしているのです。信がないから試す必要が生じるのです。
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最終更新日
2009.08.29 09:42:26
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