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h-ymmt405
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【すり替えの質問に回答する】 何処からともなく想念上で「私の宗教理念(思想)を受け入れなくてはいけないのか?」と云う質問が在りました。「自由にして下さい」受け入れた場合ガッチンコが起きたらどうするか?神の裁断に従うより仕方がありません。私を評して、「お前は手当たり次第にガッチンコを行うように観えるぞ!」神の裁断は人間の裁断とは違います。「護っていた人に仇で返すのか?」霊的には、自分が死ぬか?相手か死ぬか?の状況では相手が死んでからでなくては、護っていたとは主張できません。何時でも変更できるからです。該当する人の親兄弟、知人友人人に言い置いていてもだめです。従って他人を護って居たと主張するには(護ると主張することとは違います)霊的にしか出来ません。 後から護っていたと主張するためには、何処かの祠に願掛けがなくてはいけません。願掛けすれば護り通せなくなれば自分が死にます。理由は、護っていた人は神にしか解からないがです。護っていの自分だけではないこともあり得ます。他人の陰徳(愛の想い)を騙ったことになります。上記霊的意味を考えれば、他人を護るために願かけした人が、一人でも居れば護られて居る人は死にはしないと観るべきです。死ねば神の権威は失墜します。神は存在しないこととおなじになります。従って護りの願かけの対象になった人が仮に悪人でも、人殺しであっても神の権威は守られることになります。だから私は、迂闊な願かけは行ってはいけないと主張するのです。(祈願文の奉納も同じこと) つづければ、他人を護ると云う概念については、この世に関する限り護ると主張しなければ、護っていても変更しても、そのこと自体を原因とした自己責任は生じません。関連事態はケースバイケースですで対処されます。霊的に捉えても同じだと思います。自分の言い分に偽りがないことを証明てもらうために、便宜を計ってもらえる人に前もって言い置くことは、命には関係ありませんので神の審議も大きな影響はありません、すり替えてはいけません。神の存在については、テレパシー現象は現在では状況証拠のにウラ付けがあります。事実は認めるより仕方がありません。認めれば神の存在に突き当ります。但し、因果も結論も自説(仮説)でなくてはいけません。運命は決まっているのか?信のない者には当てはまります。信とは良心を信じることか?良心は心境によって変わります。