木漏れ日の空間にようこそ !!

2013/11/28(木)09:50

屁理屈とは善悪の抜けた因果の展開である

【屁理屈とは善悪の抜けた因果の展開である】 人間は神のシスティム即ち、道理筋道の中で生きているのだから「ああだ」と人から指摘されれば「こうだと」と言い返す原因は家内に限らす誰にでもあるのです。しかし、神のシスティム一辺倒では破滅に至ります。愛と云う言葉は使えませんが、少なくても善悪を考慮しなくては破滅に向かいます。私の場合は法律の場に持ち出せば明らかになります。どちらが慈悲を持って接しているか?アドバイスできる人はアドバイスしてもらいたいと云うことです。できない人はアドバイスしてはいけません。霊的に捉えればは資格がないからです。できる人が行えば光になりますが、資格のない人が行えば、この世的には自己責任になります。霊的には神に謝罪しなくてはならなくなります。ここは周囲の理解を得ることの方が私には重要なのです。 法律に持ち出すことは何時でもできますが、持ち出さないようしいるのです。但し、自分の都合だと批判されるキズは残ります。しかし、そう言われればキズを少なくするように準備しなくてはならなくなります。キズを少なくできると云うことは何を意味しているか?私は解っていても言うべきことではありません。表現が難しいので記せないだけです。(霊的な意味がありますので・・。政治が宗教を邪魔している)へ理屈は善悪の抜けた因果の展開と言わざるを得ません。ここのところは繰り返し記しますのでご了承下さい。私の宗教は世界から認められようとしているから、抵抗が在るのであって認められなければ何でもないのです。幸福の科学でも同じだったとは考えられません。しかし、同じだと言えば云えます。私も幸福の科学総裁が総理大臣になることは賛成で来ません。 ここは、私は、神の裁断を仰ぐより仕方ありません。為政者にとっては神の裁断を仰ぐことではありません。人間社会に政治なくして道徳も宗教も成り立たないと云う想念上の声が聞こえます。私も来世は政治をヤル可能性があります。あの世に帰ってから決めることですが心構えは忘れません。上記想念上の声は、小乗思想の抜けた大乗思想に囚われた者の言うことです。確かに宗教は世のため人のために在るものですが、後から小乗思想は学べばよいと云うものではありません。如何に理想的な構想も事の順序を入れ替えて行うことはできません。宗教を身に付けた者が政治を行ってもよいのです。それが政治の上に宗教が位置することです。(何を勘違いしているのか?)私だってキリスト教の失敗を観てから自分の宗教を創ったのです。キリスト教の失敗を観なければ宗教を興すことなど考えなかったと思います。 「一口メモ」検察の幹部になったと想像する永田幸雄君が、事実検察幹部になっていたら、OBとなった現在ヤラなくてはならないことがあるか?どうか?は私は知りません。もし、私に関係することでヤル事があってヤラず終いになると国際機関が介入した場合罰せられる可能性が起きますので、そのようなことにならないようお願いします。 「一口メモ」栗木先生生(死不明)にお伝えします。私は、親なし子であるにも拘わず。国立大学入学に際して、奨学金の需給推挙を行ってもらわなくてもよかったのです。先入観で指導してはいけません。チャンと聞かなくてはいけません。訊けない事情があったなら今こそ国連に報告すべきことです。それが今ヤルべきことです。永田幸雄君には小学校六年生の時群(当時矢作朝は額田群だった)の何かの行事の時お会いしていると思います。丁度私は下痢を起こしていましたので、ろくなお相手もできず早々に退散することになり失礼しました。  

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る