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カテゴリ:写真家として
ここの所の電気針の治療で、体が収まらなかったのか13日の夜はなかなか寝付けず、朝も3時ごろに目覚めてしまい(足の痛みで寝れなくて)、しばし書斎の椅子で睡眠、4時にお風呂に入って、まえから考えていた加茂花菖蒲園に行くことにし、五時前に出発新東名をオートドライブにして走行、八時前に現地に付きました。
ここの長屋門の景色は、映画などのロケに使われることがあって、花菖蒲園とともに知られた存在だったので、とても気になっていたのです。一番に入場しまずは人の歩いていない長屋門から撮影としたのですが、花菖蒲とアジサイがとても広大な田んぼ後に植えられていて、それは見事なものでした。 花菖蒲やアジサイは、それぞれ紹介するとしてまずは加茂庄を、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 加茂庄の今昔 加茂家は桃山時代からの庄屋であり、天正十七年に当時浜松城主であった徳川家康よりの書状をはじめ、江戸時代を通ずる古文書多数を蔵し、一部は文部省資料館に保存され、近世史家の間に加茂家文書として知られています。 慶長九年の検地帳によれば、当地(遠州佐野郡桑地村)の過半を占める、極めて有力な庄屋であったことがわかります。その頃は手作りの稲作を行っていましたが、江戸中期の享保の頃より小作地が増え、江戸末期、弘化の頃には六十四名の小作人から五六六俵を収納した記録があり、当地としては等一級の地主となる一方、掛川藩から地方御用達として、公認の金融機関の役割も持つようになります。幕末には掛川藩に対する貸し倒れがかさみ、明治維新で幕藩体制が解体された時には、多額の貸し倒れが生じたといいます。 現在の長屋門、厩、納屋、母屋階下の大部分が安永二年の建築です。はじめは草ぶきの平屋でしたが、明治十七年に二階が付き、瓦葺きとなりました。土蔵は安政の地震後、明治になってから建て替えられたものです。 明治以降は当地の代表的旧家として知られて来ましたが、戦後の農地改革で約五十町歩の耕地を失い、時代の流れに消えるかにみえました。しかし明治の初めごろから植えられてきた花菖蒲を増やし、新たな収集、品種改良を心がけたことにより、シーズンには多くの方々が訪れる名所として復活いちしました。…庄屋屋敷の入り口にあった掲示から *おことわり たそがれ旅行社は、久しぶりにお仕事をいただき、ただいま担当者を函館に派遣しております。パソコンは持参させてはいますが、なかなか時間がとれず、いただいたコメントのお返事や、皆さんのブログへの訪問も出来かねているようです。 報告によれば、イカを主体にした美味しい海鮮を食べたり、素晴らしい夜景も見れたとの報告がありました。また改めて紹介させていただきますが、ご了解いただけますようお願いいたします。 なお、当社は旅行業としての登録もしていませんし、資格もありませんので添乗をしたり、報酬をいただいて案内することは出来ませんが、同行させていただくことは可能ですので、ご希望がありましたら、お申し出ください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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