|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「もう大丈夫と囁く声と、手の温もり、いつも通りマイペースな金魚に安心して、ふっと目を閉じればもう朝で、障子越し、白い日差しが入る明るい部屋には一人だけ。でも、とても身体が楽になっていて、すっきりした気分で布団から身を起こすことができ……全部夢だと思ったそうです、前の晩のことは。怖かったことも、叔父さんと金魚のことも」 「……」 そういう感じだと、俺が水無瀬さんの立場でも夢だと思うかなぁ……。いくらあっちとこっちの境目が曖昧な幼児とはいえ、布団で寝て目覚めれば朝だ。夢うつつのあわいで見たものは、あれは夢だったんだと自然に納得するだろうと思う。 「けれどそのうち、叔父さんは急に窶れ始め、水無瀬さんはだんだん顔を見なくなったそうです」 「え? 何か病気とか……」 たずねると、どうでしょうね、と何故か否定も肯定もせずに真久部さんは首を傾げてみせる。 「ただ、元から身体の丈夫な人ではなかったようだね──。甲乙丙丁のうち、丁だったようだし」 「徴兵検査ですか……」 そうか、水無瀬さんが子供の頃というとそんな時代か……。 「窶れて、もし咳でも出れば当時のことです、結核を疑って、万が一にも病弱な甥に感染さないために、叔父さんは自室から出ないようにしていたんだと僕は想像します」 「ああ……戦中だと、まだまだ結核は死病と呼ばれていたって、お年寄りから聞いたことがあります」 「ええ。特効薬のストレプトマイシンが入ってきたのは、戦後のことだといいますね」 「今なら、他にも良い薬がたくさんあるのにね……」 現代の日本なら、適切な治療を受ければほぼ治る病気だけど、当時はとても死亡率が高かった。──その頃からまだ百年も経ってないというのに、医学の進歩って凄いなと思う。こういうのがお年寄りの言う“隔世の感”ってやつだろうか。 「叔父さんが窶れると、金魚も元気がなくなって、いつの間にか姿を現さなくなったそうです。そして、その頃から水無瀬さんはまた、熱を出すことが多くなったと……。昼も夜もなく、怖い夢や怖いものに おぼろにしか覚えてはいないけれど、日に日に弱っていって大人たちを心配させていたようだ、と水無瀬さんは遠くを見る目で語ってくれたそうだ。 「そして、あの騒ぎのあった日──」 「蔵の家鳴りを、幼い水無瀬さんが初めて体験したっていう……?」 「ええ」 真久部さんはうなずいた。 「その数日前から特に体調が悪化していて、水無瀬さんはもはや枕から頭を上げることもできなくなっていたそうです。熱に魘されながらふっと目を開けて、幼い息子の枕元、看病疲れでうとうとするお母様の顔をぼんやり眺めていると……いつもの金魚が、どこからともなく姿を現したんだそうです」 「……」 「水無瀬さんが気づくと、挨拶するように金魚は尾鰭をひらひらと振ってみせ、部屋の中をすいすいひとめぐりしたそうです」 ちょっと剽軽なところもあった金魚は、今度は近くに寄ってきて、水無瀬さんとお母さんの間の空間で何度か宙返りを披露してくれたそうだ。 「すると、苦しかった息が不思議と楽になり、疲労の色の濃かったお母様も顔色が良くなって……子供心に感じていた罪悪感が軽くなり、うれしくなって金魚に手を伸ばそうとすると、するりと逃げていき、少し開いた障子の隙間から出て行ったそうです。そこには叔父さんが立っていて、水無瀬さんに向かってにっこり笑ってみせると、部屋から出て来た金魚を連れて、一緒に行ってしまったのだとか……」 それが、水無瀬さんが叔父さんを見た最後のことだったそうです、と真久部さんは結んだ。 「朝だったのか、昼だったのかはよく覚えていないそうです。それからすぐに目を覚ましたお母様に、意識がはっきりしていることを喜ばれ、水や重湯、薬を服ませてもらい、汗をかいた寝巻きを着替えさせてもらって、今度は夢もなく眠り……聞いたこともない大きな軋み音で目が覚めたときには、遠くで柱時計の音が鳴るのが聞こえていて、それがたくさん鳴ったから、きっと真夜中だったと思う、ということでした」 「……何があったんでしょうね」 幼かった水無瀬さんには、知る由もなかったんだろうけども。 「ここからが僕の推測なんですが──」 推測憶測その他諸々取り混ぜて、なんて自信なさそうなこと言ってるけど、表情を見るとそうでもなさそうだ。きっと真久部さんには確信があるんだろうな、と思いながら続きを聞く。 「叔父さんは、家宝の皿を助けに行ったんですよ」 へ? 皿を助けに? ってなんじゃそら。 どういうことですかとたずねかけて──、あ、そうかと気づいた。 「誰かが、皿を盗もうとしてて、叔父さんはそれを阻止しようとしたと。そういうことなんですね?」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年07月05日 12時00分03秒
コメント(0) | コメントを書く |