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頭に浮かんだ猫の笑みを、頭を振って振り払う。同時に風が吹き抜けて、明るい緑の天蓋がしなやかに揺れ、風の形を遠くまで伝えていく。五月の山は、本当に気持ちがいい。時折思い出したように鳴くウグイスの声も耳に楽しい。真久部さんのいぢわるなんかどうでもよくなって、俺はうーんと身体を伸ばした。
さて。そろそろ帰ろうか。 「えーっと、御札は納めたからこれで良くて……でも風で飛びそうなんだけど、いいのかな? 五十川さんはいいって言ってたけど──」 水泳のゴールタッチじゃないけど、とにかくお社の前に置けばそれで納めたことになるんだそうだ。過去、置いたとたんに御札が風に飛ばされて、必死に追いかけたけれど見失い、泣きながら帰った親もいたそうだけど、子には何も悪いことは起こらず、その後も無事に成人したんだとか。 神様は見てる、ってやつかな。 でも俺は小心者なので、ヒダル神対策(その正体は、山で特に気をつけるべき低血糖。いわゆるハンガーノックってやつね)で余計に持ってるおにぎりから米粒をちょいと取って御札の裏にくっつけ、供物台に貼り付けさせてもらった。これで俺が安心。 ワンカップ酒を重しにすることも考えたけど……御札に何かものを乗せるのは失礼な気がしたんだ。なんとなくもう一回手を合わせて、「五十川さんのお孫さんのしゅんすけ君のこと、できればこれからもよろしくお願いします」とお願いしておいた。 だってさ。しゅんすけ君は今、ご両親と一緒に海外にいるっていうから。三つから四つになろうという頃にお父さんの海外転勤が決まって、家族でそこの国に行くことになったんだって。 やっと授かった子供だし、義理の父の五十川さんから送られてきた子護りの御札をお母さんもとても大切にしてて、しゅんすけ君の手荷物として忘れずにその国に持って行ったらしいんだ。 しゅんすけ君、産まれてすぐはNICU(新生児集中治療室)に入らないといけないくらい身体の弱い子だったそうなんだけど、お医者さんの許可をもらって御札を枕元に置いたら、そのお医者さんも看護師さんも、みんな驚くくらいの勢いで良くなって、ほどなく退院できるようになったっていうから、そりゃ大切にもすると思う。 そう、たとえそれが鰯の頭であったとしてもさ。有り難く思う気持ちわかるよ、俺だって一児の子持ちだもん。健やかに育ってほしいという気持ちは、痛いほど。 いま息子さん一家のいる国は、ちょっと治安に心配のある国だけど、しゅんすけ君は病気も怪我もすることなく、無事に生まれて七つめの年を迎えたという。本当はその少し前、小学校入学に合わせて帰国する予定だったらしいんだけど、お父さんの仕事上の何かがあって帰れなかったらしい。 日本で満七歳、日付の一日違うその国でも同じく七歳になったとき、義父に言われているとおり、御札を納めるためにお母さんのほうだけ数日帰国しようとしてたらしいんだけど、お母さん、急に体調を崩してしまい、とても飛行機に乗れるような状態じゃなくなってしまったらしい。妻の看病と息子の世話、仕事で、お父さんもとても動けない。 八歳までの猶予があるとはいえ、そうなると不安だ。国内ならそこまで焦らなかったんだろうけど、なにせ飛行機で日付変更線をまたいでしまう距離だ。だから仕方なしに航空便で祖父である五十川さんに送ったんだって。なのに、それがいつまで経っても届かない──。 必死になって行方を探し、何故か郵便局で宛先不明になっていたのをようやく発見。しゅんすけ君の八歳の誕生日を一週間後に控えて、五十川さんも息子さんご夫妻もようやく眠れない日々を脱することができたと思いきや、今度は五十川さんが足を骨折……。 なんかね、五十川さんの家系では、ここ数代男の子が生まれて来なかったらしいんだ。五十川さんもそのお父さんも傍系からの養子らしい。お兄さんたちの子供も女の子ばかりで、しゅんすけ君が何代ぶりかの男の子なんだって。 だから、何かの力があの子の命を取ろうとしている、と五十川さんは思ったらしい。何かって、人の力の及ばない、何か。 こうなると、御札を作ってくれた親戚の小父さんに郵送か宅急便かで送って納めるのをお願いする、というのも怖くなる。手元から離したら、また御札が行方不明になりそうで。 もう、松葉杖をついてでも、這ってでも行くしか──。そう思い詰めていたとき、たまたま五十川さんと同じ病室にいた知り合いの御見舞いに来ていた真久部さんが話を聞き、「そういうことなら、御札を納めるの最適な人がいますよ」と俺を推薦したんだそうだ。 困ってる人のお役に立てるのはうれしいけど、遠方出張になるから、そんなこといきなり言われて俺も困ったんだけど──なんでか、先に入っていた依頼がキャンセルになったり延期になったりして、ぽかっとまる一日空く日が出来たんだよ。それが今日、しゅんすけ君の満八歳の誕生日ちょうど三日前。晴れで良かった、けれど。 もしかして真久部さんも、真久部の伯父さんと同じ力持ってる──? スタイリッシュ仙人みたいな真久部の伯父さん、俺に自分の望む仕事をさせるために、元から入ってる依頼を、その依頼主にとって良いことを起こし、必要なくてしまうという妙な力を……。 「いやいやいや」 俺はもう一回頭を振って、そんな疑念を振り払った。いいトシして悪戯小僧な真久部の伯父さんはともかく、真久部さんはそんなことしないって、俺、信じてるよ! ──よっぽどの理由がなければ、たぶんね。 真久部さんは、俺に不思議な仕事をやらせはするけど、俺の心身に後々悪影響の出るようなことはやらせない。そこは信用してるんだ。笑顔の怪しい人だけど、悪い人ではないからさ。 今回も、注意事項は五十川さんから細々と聞いてきてくれてるし。さらにうっかり道に迷ったとき用に、煙草だの線香、塩だのも持たせてくれている。ワンカップでない日本酒もな。御札は、病院脱走までも視野に入れていた五十川さんが、それ持って入院してたしね。あと、鈴も。 こんな明るい五月の真っ昼間、鈴が必要なことにはならなさそうだ。 そんなことを思いながら、俺は供物台に供えたアンパンだけ、「お下がり頂いて帰ります」と断ってリュックの中に入れた。年に一度の祭祀のときには草刈りと大掃除がされるということだけど、アンパンは置いておくとなぁ。腐っちゃって、見苦しくなってしまうはずだから。 さてさてと、また参道にあたるルートの草を軽く引きつつ鳥居まで戻り、一歩踏み出し外に出て、内側に向かって軽く会釈をしたとき。 ──あれ? こんなところに人がいたっけ? 下を向いた眼の隅に、黒い服の端が見えた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年06月24日 07時15分59秒
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