凍えたココロ

2006/08/24(木)21:45

笑いと眠りは、優しいクスリ。

平穏(67)

ぐったりと疲れた身体でも、精神だけは覚醒していて、 過食と嘔吐の衝動は、規則正しい時間に訪れた。 不思議な事に、食べる事に集中し始めると 身体の疲れなど、何処かに隠れてしまったかの様に いつもと変わらず、全てを完璧にやり遂げてしまった。 勿論終えた後は、ぐったりと横たわってしまったが。 そんな疲れた状態でも、何故か文章を綴り始めると 止まらなくなってしまう。何が自分を突き動かして この指を動かすのかは解らないが、想う事が沢山 溢れているのかも知れない。 『虚無感』を覚える時は、勿論 虚しいと言う想いが一杯で、心にぽっかり穴が空いた 様である。 しかし、『虚無を見つめる時』は情念があり 生きている事を痛感する。 『虚無』があるのにそれを見ないと言う事は 『二重の虚無』に陥っている訳である。 でも、どんなに健康な人でも『虚無を』見つめる事は 避けたい事であろう。でも私は敢えて見たいと望んでしまう。 『虚無』を本当は見たくないが見つめたいと言う、 アンビバレントな状態に陥っているのであろう。 それを見ざるを得ない私がそこに在る。 話は変わって。 2回目の過食嘔吐と全ての片付けが終わり、 購入したDVDを少しだけ観てみようと思って、 PCのディスクに挿入した。 しかし、観ている間に引き込まれてしまって、 結局最後まで観覧してしまった。 映画館っぽくカーテンを閉めて日光を遮断し、 暗い中で観るそれは、凄く凄く面白かった! 元々、三谷幸喜のドラマは時代劇もの以外は全て 観るほど大好きなのと、私が好きな監督が撮っているもの であると言う事が相俟って、私は止めることができなかった。 この作品は、元々舞台の作品であったらしい。 映画化するに当たって、脚本家が大好きな監督にお願いして 撮ったものだと言う。最初の場面からリズミカルで ノスタルジックな映像で、私は飲み込まれていった。 そして主役の2人のやり取りが、物凄く笑えるのである。 物凄く久し振りに、私は手を叩いて 大笑いをした。そんな場面の連続であった。 心の底から笑うのは、病に侵されている自分にとって 久しく訪れなかった感情である。 それなのに気が付けば、手を叩いて大笑いした。 胸がぽかぽかして、 「あぁ、これは副作用のないお薬の様だ!」 と感じた。 終盤では号泣した。涙が止まらなかった。観ていない人には ネタばれになってしまうので、これ以上記さないが 物凄く笑える上にこんなに泣いてしまう 作品とは、凄く久し振りに出会えた感じがする。 病に侵されている私にとって、『笑い』と『眠り』は 副作用の無いクスリだと感じる。 唯、笑い過ぎてテンションが上がってしまった。なので 既に強い眠剤を服用していたのにも関わらず、寝つきが悪かった という事は少々心苦しかったが、眠りに堕ちた後は 18時過ぎ迄目覚めなかった。 しかし、心が潤っている感じは否めず、落ち着いている。 話は戻り、『虚無』に関して述べたい。 『ばい菌の侵入』と『感染者』が別であるように、 病気である自分は、決して虚しいものでは無いのである。 つまり、『病気の症状』は辛いし孤独であるし、虚しい。しかし 『自分自身は虚しいもの』では無いと言う事である。 だから『虚無』は“そこに在る”ものであり、自分自身が 『虚無』である訳ではない。そう考えると、酷く落胆する事は 無いであろう。無論、『虚無』を見つめる事には情念が必要である。 けれども、“自分は虚しいものではない”と言う言葉を胸に刻み 偶には前を向いてみたいと感じる。

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