凍えたココロ

2007/01/07(日)21:27

寒さが寂しさを募らせていく。

摂食障害(128)

この頃窓から眺める風景は いつも暗くて街灯が寂しく灯り、 マンションや家々の明かりが ほんのりと辺りを染めているものである。 明るい内に目覚める事がない。 こうして昼夜逆転の生活になって しまっているが、この過ごし方で 今は落ち着いている。 環境を変化させる事は、心身に 負担をかけてしまうので、 もう少し元気になるまでは この生活を崩さないようにしたい。 摂食障害の病症は、 既に何度も記しているように 苦しいものであるが、自分を保つ為に 必要不可欠のものとなっている。 だから、こころが物凄く揺れ動き 辛い時は過食嘔吐の回数が増えたり、 抑うつ状態が酷くなって落ち込んだり するのである。 最早過食嘔吐以外では 固形物を食べられなくなった。 食べるのが物凄く恐いのである。 カウンセラーにいつも、 「何故食べるのが恐いのですか?」 「何故太るのがそんなにも恐いのですか?」 と訊かれる。瞬時には的確な言葉が見つからず、 唸って唸って何とか言葉を絞り出す。 「食べるのが恐いのは、食べたものが全て贅肉となって  身体に付いて太っていくからです。」 「そうして太るのが恐いのは、過去の物凄く辛かった  頃の自分を想い出すのが厭で堪らないからです。」 と悩みつつ質問の答えを述べる。 しかし心の底には言語化出来ない どろどろとした想いで溢れており、 凄くもどかしい。 私は何故こんなにも太る事を恐怖に想うのであろう・・・。 ただ、私は痩せていたいと想う。 それが不健康なものだとしても、 痩せて痩せて無駄な贅肉など要らないと 想うのである。 想い付くのは、自分の中の汚らわしいものや とても厭な想いをした想い出と共に 全てこの身体から殺ぎ落としたいと言う 願望があるのではないかと感じる。 そしてまた、『過食嘔吐をする』と言う事は、 時間潰しの意味もある。 一人ぼっちでぽっかりと空いた時間、 何をしたら良いのか分からない。 過食嘔吐をしていたからぽっかり空いた時間を 潰せていたし、その行為をしていなかった時は 何をしていたかなんて、分からなくなっていた。 これらはやはり、『寂しさ・哀しさ・虚しさ・不安感』が 呼び寄せるものなのかも知れない。 『1人で居る寂しさや哀しさ』 『自分が生きていることについての虚しさ』 『このまま病気は治らないのではないかという不安感』 これらが一気に押し寄せて、 一時逃避する為に、何も考えなくて済む 過食嘔吐という行為に移るのであろう。 勿論、誰の心の中にも『寂しさや哀しみや虚しさ』はある。 その気持ちを如何に大切に出来るかが、 これから生きていく上での命題となっていく のであろうと感じる。 しかし、主治医が仰るには 私のその『寂しいetc...』の感情は 人の何倍も強いという事であった。 それは、小さい頃からの体験が 関わってきているのであろう。 小さい頃受けた傷は、今更無かった事には 出来ない。 「全て自分が悪いんだ」 と悩んだ日々もあった。 今考えると、それこそ驕った考えであるが、 自分が悪い・・・自分が悪い・・・と激しく自分を責めて 自傷をしたり、自暴自棄になったりした。 自分など必要ないんだと想って何度か死のうともした。 けれども私はこうして生きている。 そして気付いた事がある。 「生きているからこそやり直しもきくのだ」 という事である。 死んでしまったら、そこで全て終わる。 母に親孝行をしたくても出来ないし、 姪の成長を見る事も出来なくなる。 私も中途半端に病気のまま、何も成長しないまま 人生を終わらせて、取り返しがつかない。 そう考えると、悔しくなってくる。 だから私はどんなに苦しくても、辛くても、哀しく 虚しく寂しくても、生きて、生きて、生き続けなければ ならないのであろうと感じている。 何も無い、単に今が過去となっていくだけの 空間に生きている感じは否めない。 でも、その中に『喜怒哀楽』という スパイスが盛り込まれると、 見渡す景色も変わってくるであろう。 自分を責め続けているだけでは成長は望めない。 だから私は僅かな力ながらも、 人に感謝をする気持ちだけは忘れないように したいと想っている。 時に凄く具合が悪いと、それを忘れてしまって 周りに厭な想いを与えてしまうが、 それに気を付けてどうにか生きたいと想う。 コメントを下さった方々にも感謝している。 その温かい言葉の数々の中にも、 沢山のヒントを見つけられるのである。 特に、『自分の納得いくまで悩んでいい』という言葉に 勇気付けられた。 沢山悩み、考えて、何かしらの答えを見出す・・・。 今はそれをする段階なのであろう。 私は1人で生きている訳ではない。 周りの人々に支えられながら生きている。 それはとても温かく優しい雰囲気である。 勿論病症は途轍もなく苦しいものであり、 逃げ出したくて仕方が無い時もある。 消えて楽になってしまいたい時もある。 でもこの時間は、新しい自分になる為の 修行であり、訓練であるとも言える。 余り思い詰めてしまうと視野が狭くなり、 見えるものも見えなくなってしまう。 だから、私はこころを大きく持っていたい。 疲れたら一休みしてぼんやりするのも良い。 私は過去へ向かっているのではなく、 明日に向かって歩いているのである。 この先哀しくて堪らない出来事も起こるであろう。 うつ病の症状が出ている時は、ゆったり休むに限る。 お薬を規則正しく服用して私の傍に居てくれる母や 自分を大切にしたい。 決してもう、傷つける事はしたくない。 もう少し余裕が持てるまで、ゆっくりと過ごしたい。

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