2008/05/12(月)21:02
全ては、波の上にたゆたう。
こころの在り処。
それが私には分からない。
自分は一体どうしたいのか、
何を成したいのか、
何を考えて生きていれば良いのか、
分からない。
だからといって
途方に暮れている暇など無くて
時間は毎日同じ速さで素早く過ぎ去り、
私は取り残されまいと
必死で足掻いてみせる。
無駄な抵抗であると知りながら。
毎日の、過食と嘔吐。
それは、こころが唯一真っ白になる時間でもあり、
こころが真っ黒になる時間でもある。
わざわざ苦しむために成す行為。
でも私にはその時間がないと、生きてはいけない。
主治医は、言った。
「今のあなたから“過食嘔吐”を取り除いたとしても
病気ではなくなるわけじゃないって
問題がなくなるわけじゃないって
分かるよね。」
私は、分かりますと答えた。
それは的を射ていて、
たとえ過食と嘔吐をしなくなったとしても、
私には、沢山のこころの傷が
疼いていて、泣いていて、放置されたままだから。
傷。
小さな子どもの頃から
手当てされる事もなく
未だ血を流し、膿んでいる傷を手当てしなければ
私の病気は、治らないと考える。
病気が治るという事。
傷口に、お薬を塗って手当てするという事。
それは、信頼の置ける主治医との話し合いの中で、
過去の苦しく、哀しく、惨めで、過酷な想い出を
打ち明けるという事に他ならない。
想い出し、言葉にして話をして初めて、
傷は癒され始めるのだろう。
こころの在り処が分からないから、
今、どれだけ傷を負っていて
痛みを伴っているかが
分からなくなる時がある。
それは、現実逃避ではなく
いつもいつも痛みを感じていたら
きっと私は壊れてしまうだろう。
だから“解離”という症状も
忌み嫌ってはいない。
このこころを助けてくれているのには
違いないから。
緑が萌え、太陽の光もその勢いを増し、
そうしたらもうすぐ夏が来るんだろう。
また私は哀しみに暮れる。
生きているだけで、それは嵩を増してしまう。
だから時には
あの海の波の上でたゆたうように、
全てを決め付けないでも良いではないかと
考える。
そう、簡単にできない事は
分かっているけれど。