P-Blog アイデア&インプレッション

2007/06/30(土)19:02

二つのリストバンド

出会い(169)

夕張からリストバンドが届いた。 詳しいいきさつは別のページに紹介しますが。 日本とタイの二つの国にのビッグアーティストが、それぞれの国の支援を必要とする方を、自分たちならではできる支援をした結果。ふたつのさをり織りのリストバンドが出来上がった。 それが、今、二つ揃った。 常夏のタイ南部と日本の北海道とではまるで気候が違うのがリストバンドに現れているのが面白い。 お国柄というか、住んでいる人の気質だったり。民族が違うための体格の差だったり。 そういうところで差が出てくるのでしょうか。 ほらほら、よく見ると。 夕張で作られたリストバンドには毛糸が織り込まれています。 夕張とタイ南部パンガー県のバンムアンは、全く違う気候だけど、共通点もあることがわかってきた。 バンムアンは、近くのナムケン村で津波にあった方のうち約4000人が避難してきたところなのだが。このもともと住んでいたナムケン村を訪ねたとき、漁村としてはかなり不自然だった事に気がついたのだが、やっとその理由がわかってきた。 どういう所で不自然かと思ったかというと。津波で破壊されたとはいえ、港湾施設が充実しすぎているということと、不自然に海岸沿いに町が形成されていたということである。 最初は軍事面で利用したのではと思っていたが、第二次大戦中に日本軍が補給基地として利用していたようだが。パンガー県の主立ったタイの海軍施設は別の所にあり。戦後60年以上経った今も日本軍だけに作られた施設とは考えにくい。 実は、ここに錫鉱山があったようなんです。それで、錫鉱石の積み出しのための港町として発展したのがナムケンだったのです。 日本軍はこの港湾施設を少し利用しただけだったようです。 20世紀頭までは、家が4.5軒だったのだそうだが。労働者が移住し町が出来上がったのだ。 そして、1980年代あたりから、錫鉱山が閉鎖され、移住した人は取り残され、観光業や漁業にシフトしひっそりと生活をしていた。 この漁業というのも、伝統的な沿岸漁業というものだけではなく、港湾施設を利用して沖合漁業も行われていたのが津波で流された船の形でわかる。 その後、大津波に遭いピンチに。 町中に取り残された「オレンジの悪魔」と呼ばれる船 ちなみに・・・ もう一つの軒先で止まったブルーの船「青い天使」とは対照的に、津波に流されたとき人通りの多い道を通ったために百人は人を巻き込んだのではないかということで「オレンジの悪魔」と呼ばれている。 ただし、沖合漁業はインド洋にマグロなどの漁業資源があるにも関わらず。日本に輸出するためには、マラッカ海峡を通らなければならず輸出するのには不向きで。しかも、沿岸に缶詰工場を立地させようとしても、バンコクから遠く材料が調達しにくいという問題から、めざましくは発展していない。 もし、沖合漁業が今以上に発展していたとしたら、タイ国内の津波による被害者がかなり増大していたに違いない。 それに対して、夕張はというと。石炭という鉱工業で栄え、同じく1980年代に衰退。観光と夕張メロンを代表する農業にシフト。 そして、財政破綻というピンチに。 この二つの町は、鉱山によって発展し、移住してきた人たちによって成り立ち、大きな産業が衰退したにもかかわらず、移住した人が残された町でもある。 そんな二つの町で、さをり織りのリストバンドが作られたというのは、なんとも趣深いものがある。

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