テーマ:小説かいてみませんか(122)
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今息子はいないとよ、ああ、なにもお菓子がないがね、お茶とコーヒーとどっちがいいね、今息子は仕事に行っちょってね。散らかっちょって悪いね、今あん子は宮崎ん方まで仕事に行っちょってね、ダンプカーに乗っちょるっちゃけど、いつも帰りが遅えしてよ、ああ、携帯電話持っちょるかい、電話してどうにか帰ってもらおうか。
「いや、あの、いいですから」 祖母の慌てようは居間から台所を何度も無意味に行き来してしまうほどで、湯呑みをひとつ持ってきたかと思うと、今度はお盆を持ってきて、次は漬け物を取りに戻るとお湯はもう沸いたか、とすぐに台所に引っ込む。私が案内された居間で、突っ立ったままその様子を見ていると祖母は何度も座っちょきないと言うのだが、こうもどたばたされると、きれいに折り畳んだ正座もどこかむずがゆく、祖母が台所から戻ってくるたびに立ち上がってしまう。居間の端に脱ぎ捨てられた麦わら帽子はもう、ずいぶんとぼろぼろになっていて、本来の色を失い、土と、陽のにおいがした。健康的なにおいだった。しかし、そのにおいのなかには、確かに年老いた人特有のにおいもあった。母方の祖父は、あの祭の事件の数年後に亡くなってしまっていたから、そのにおいを嗅ぐのは実に十年ぶりのことだった。しんと静まった、薄暗くて、やさしいにおい。 落ち着いて居間をぐるりと見渡すと、額縁に入った賞状や写真が並んでいる。賞状にはどれにも「宮下雄一郎」と名前がある。父の名前だ。小学校の作文、皆勤賞、柔道三級の認可証、そのどれもが色褪せており、父の子供時代を少しだけ垣間見ることができた。写真は、祖母とのツーショット写真。安芸の宮島、坂本龍馬の銅像、東京浅草雷門、それらを背景に写った父とその母はどれも同じ表情をしていた。少し笑っているような、まじめそうなそぶりさえ見える顔つきだ。いつのときの写真かはわからないが、けれども父が母と結婚していた二十代のものではなさそうだ。つまりはここ十年間のものだろう。そこに私たちの顔が写っているものはなかった。 「そん写真はねえ、雄一郎がいろいろ連れていってくれたときの写真やとよ」 やっとお茶の一式を揃えてきた祖母が、私の前に座った。急須を軽くまわしてから、とくとくと湯呑みに茶を注ぐ。 「まゆちゃんとこを出て行くことになって、おが悲しんじょったときにね、ふたりでどこか旅行しよかち言ってくれてね、いろんなとこに連れていってくれたとよ。反対押し切って婿養子に入って、でも結局出戻って、こん子はこれかいどんげしよるつもりやろかいと毎日しょげちょったところやった」 そういえば、と思い出す。父が家からいなくなったころ、私はそのことに対してなんの疑問も母や祖父にもらさなかったらしい。それを逆に不憫に思ったのかどうかはわからないが、あの時期、母はよく私を連れて、この写真ほどではないにしろ、青島だとか都井岬だとか、高千穂、えびのなど県内を走り回った記憶がある。今はなくなってしまったスケートリンクにもそれから数年の間の冬連れて行ってもらったし、海へ初めて泳ぎに行ったのも、父がいなくなってからのことだった。 なんだかんだで、この似た者夫婦め。 「絹代さんは元気ね」お茶を口にしながら祖母が訊いた。 「ええ、いや、このまえ病気して、入院しました」 「なんの病気したとね」 「乳がんでした。でもきちんと手術して今はとてもいいんですよ」 「そうね。そう、それならいいんだけど、がんやったとね」 「でも、今、ほんとにいいんですよ」 「そうね」 「そうです」 会話がなくなると、振り子時計の音が静かに時を刻んでいた。ずいぶんと古い時計だった。私が小学校に入学して、卒業して、初恋があって、振られて、反抗期があって、母をいたわることを知って、高校を卒業して、地元の短大に入って、母ががんに冒されていたことを知って。そんな日々を過ごしている間、父も仕事をし、祖母と旅行をし、ときには酒を呑んで、そういった生活を、時間を刻んできたに違いない。私の祖母が、私たちのこれまでを知らないように、私もまた、父たちの生活を知らずにいた。それが、なんとも不思議な気がしてならなかった。親子でも同じ家に住まなければ、まるで他人と一緒だということなのだろうか。 お茶を入れ替えてくると、祖母は居間を離れて行った。振り子時計が午後三時を打つ。父はまだ帰ってこないだろう。 ふと静けさのなかで、改めて居間を見回してみる。写真や、賞状の入った額縁以外にもこまごまとしたものが目に入ってくるようになってくる。積み重ねられた古新聞、数本のカセットテープとビデオ。旅先のお土産らしい置物や、農協の機関誌。そしてテレビ台の棚の中に、ひっそりとそれはあった。 青色の水飲み鳥。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007/03/08 05:50:02 PM
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