草津町虚偽告訴事件にみる、被害者支援運動の落とし穴
群馬県草津町で、町議が町長から性被害を受けた旨虚偽告訴をし、有罪となった事件が報じられました。 巻き込まれた町長や、町民たちにとっては誠に災難と言わざるを得ず、虚偽告訴をした元町議はもちろん、安易な気持ちで町長や町全体に暴言を吐いてしまった人々の責任は重いと言わざるを得ません。(なお厳密には、議会で懲罰の対象とした点については、「捜査機関や司法判断を先取りするようなことは、町議会といえどやっていいのか」という点には疑問を持っていますが、本記事では主題でないため詳論は割愛します)さて、今回の記事で問題としたいのは、本記事では団体の名指しは避けます(少し検索すれば出てきます)が、一部の被害者支援団体がこうした自称被害者の主張に乗って、草津町や町長をデモによる攻撃の対象にしたり、書くのも憚られるような暴言を言いたててしまったことです。町議が虚偽告訴で公判請求された段階で運動への連帯表明を撤回するなど、ある程度は誠意ある対応を見せたようには思いますが、それでもこうした事件を通じ、支援団体の信用は大幅に減殺されてしまったであろう事は間違いありません。もちろん、現在進行形で団体から支援を受けている人々にとっても、辛い結果になった可能性は高いと考えられます。この支援団体は、東京弁護士会から人権賞による表彰を受けていました。こうした団体に人権賞をあげっぱなしと言う東京弁護士会の対応は疑問を感じていますし実際弁護士から抗議の声もありますが、逆にそのくらいには熱心に取り組んで成果も出していた団体がやらかしてしまったとも言えるでしょう。 おそらく、支援団体とて、最初から虚偽告訴だと分かって運動を展開したわけではなく、曲がりなりにも町議の虚偽告訴を信じてしまったからこそこうした運動に走ってしまったのだろうと思いますが、私は、ここに被害者支援運動が持つ構造的な脆弱性を感じるのです。 犯罪被害者などの支援する団体に所属する人(支援者)が、被害者などから相談を受けたとします。 目の前の相談者が言っていることについて、その場で裏を取りようがない場合がしばしばです。 特に、本件で虚偽告訴に使われたような性犯罪の場合、目撃者などがいない場合も多く、更に時間の経過や記憶の曖昧化、場合によっては被害者が児童や障がい者だったりで正確な説明など望めず、曖昧な説明に終始したり、記憶違いで矛盾を言ってしまうこともあります。支援者の立場からは、嘘をついているから曖昧なのか、説明力が足りなかったり記憶が曖昧なだけで本当に被害に遭っているのか。それは、厳正な手続を経て裁判をする裁判官ですら判断を誤るもので、その場で面談する支援者には正確なところなど分かりっこないのです。といって、支援者サイドがそこで相談者を疑い、「本当なの?嘘じゃないの?」と言う態度を見せたらどうなるでしょうか。 本当に被害に遭った相談者は、他に相談する場所がなく、藁にも縋る思いで助けを求めているケースがしばしばです。そこで疑うような対応を見せてしまうと、相談者は心を閉ざし、「支援団体も信用できない」という認識になってしまい、実質的な支援拒絶の結果になってしまうことがあります。そうならないためにも、支援者は「まずは傾聴する」「安易に疑ったりしない」「信じる」姿勢を大事にする姿勢が求められることがしばしばです。 他方で、こうした姿勢は被害者を名乗って虚偽告訴をしたり、社会的な同情を集めよう、金を得ようなどと考える不届き者にとっては、立派な「付けいる隙」となります。子どもが被害に遭ったと思い込んで暴走した親が相談に来たようなケースであっても、そう言う影響まで思い至らなかった結果、悪意のないまま攻撃して重大な被害に発展してしまう危険性もあるでしょう。 支援団体に求められる、「まず信じる」姿勢は、実のところこうした悪用される危険性と常に隣り合わせなのです。 今回、支援団体がなぜこうした暴走とも言うべき運動に走ってしまったのか。 それは、こうした被害者支援において求められる「まず信じる」という発想が悪い方向に発展してしまい(実績のある団体だけにそう言うまず信じるという態度はできていた可能性が窺われます)、「根拠が曖昧でもとにかく信じていい」という発想が自分たちの支援の範囲の中で完結させずに暴走し、裏取り不十分なまま攻撃的な運動をしてしまい、草津町だけでなく自分たちの信用にまで取り返しのつかない傷をつけてしまった…私は、この件の真相はこんな所だろうと思っています。 目の前の相談者を信じるという発想自体は決して悪いわけではないと考えていますが、こうした支援団体には、常に「自分たちが間違っているかも知れない」という点で一歩引いた視線を持っていることが必要になると思います。 目の前の相談者に寄り添いつつも、それが間違っている可能性があると分かっていれば、「外部への攻撃は手控えつつも精神的な支援などは継続する」ような形も取れたはずです。 最悪相談者に虚偽告訴などで騙されたような事態が起きても、支援者が騙されただけで済み、支援者自身が加害者になってしまうという事態は避けられるはずですし、本当に被害に遭った人に対しての支援活動がこれで阻害されてしまうという危険は低いでしょう。もし今回支援団体がそう言う態度を取っていたなら、むしろ「支援団体も支援のための誠意や手間を騙し取られた点では被害者ではないか」という捉えられ方をされる可能性も十分あったはずなのです。極論、例え被害者が100%本当のことを言っていても証拠不十分などで司法が認めず、虚偽告訴の方が認められてしまう可能性はあるのですから、その意味でも、「自らの間違いに備え、過度に攻撃的な活動は控える」という発想は決して悪くないはずだっただろうと思います。こうした発想は、実のところ弁護士にも求められていると思います。 当然ながら、弁護士もこうした被害者支援について、支援団体とは別に法律的な支援を提供する役割で、とにかく依頼者を信じて全力で!!と言うような考え方が称揚される傾向にあります(と言うより私自身、仕事の中でそう言う弁護士に求められる姿勢の話を何度も聞いてきましたし、だからこそ今回の原因をそういう風に推測していると言えます)。弁護士は、裁判を受ける権利の保障や、弁護士という職務から、職務遂行に際してはある程度「依頼者を信じて間違える」ことが法律上許されています。結果的に間違った裁判を起こしたと言うだけで違法行為になったり、懲戒処分になったりはしません。それが許されなければとても法的な支援ができないし、そう言う姿勢あってこそ被害者支援に繋がった重大事件も多いでしょう(支援団体のようにそもそも職務ではないのだから信じて間違えても自己責任という扱いを受けないという意味では特権的でもあります)。 しかしながら、目の前の依頼者が間違っている危険性を常に意識して一線を引いておかないままに「信じて全力で!!」となった結果、必要性の疑わしい過度な活動に走ってしまって、支援対象者にとっても、弁護士にとっても最悪の結果を招いてしまう…このことも意識すべきだと思うことがあります。 特に弁護士の間でもXやSNSなどの手頃な情報発信ツールが広く普及して、こうした発信で単なる言論の自由を越えた暴言を吐いてしまい懲戒処分になる弁護士の話も最近出てきています。私の感想として、そう言う弁護士は熱意がありすぎて依頼者に寄り添いすぎた結果そう言った発言になっていることも多いように思われ、その意味で今回草津でやらかした被害者支援団体と同じ事になっていないかと思うことがあります。 くどいようですが、被害者を支援する、被害者に寄り添う。それは決して間違ってはいません。しかし、それは構造的脆弱性を放置しないとできない運動であり、その構造的脆弱性が取り返しのつかない事態を招いてしまう危険性もあるものです。支援者はその構造的脆弱性を踏まえてひくべき一線があり、それを忘れてはなりません。それを忘れたままに無条件無制限な寄り添い「のみ」を是とすると、支援者当人も含め、誰も幸せにならない結末に人を落とし込んでしまうことがあるでしょう。その意味でも、特に捜査・司法の手を待たずに支援者が単なる被害者個人の支援を越えて加害者とされる人を攻撃することには、重大な危険があり、非常な慎重さが求められることは意識されるべきです。 支援者も弁護士も、今回の件は他山とすべき教訓を含んでいると私は思います。