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碁法の谷の庵にて

2006年03月18日
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 山口県光市での少年による母子殺人事件で、最高裁での弁論を欠席した安田好弘弁護士らの行動について質問を受けたので、調べついでにあちこちのブログや掲示板でこの「不出廷事件」に関する意見を見たのだが感情的で筋が通らない非難のあまりの多さには辟易するほかない

 担当の裁判官が一人交代するので、死刑に否定的な裁判官が後任につくのが狙いだ、と言う意見もある(実名を出して弁護士がブログで指摘しているので説得力は私の意見よりある)が、最高裁の5人合議体で、ひとり代わったからどうにかなるだろうか?内閣だって死刑廃止論者を最高裁判事にするとは思えないし、そんなことをしてもムダに心証が悪くなるばかりと言う気がするのだが・・・。
 法廷より弁護士会の活動優先させたことの是非は私には分からないし、その点に関する批判に対しては中立としたい(先述の弁護士も「見解が分かれるのかもしれない」という)

 それでも、この辺はひとつの意見だと思う。


 でも、検索してヒットする批判の多くは、残念ながらもはや批判とも論とも言えない内容のもの。しかもまともな批判があるとまともでない便乗コメントまで殺到。一方的決め付けも多い。
 被害者を考えず加害者ばかりかわいがるとか、脱法・法廷侮辱だとか、金銭目当てだとか。弁護士が強制執行妨害で起訴されたことのある安田好弘氏であるのをいい事に、その会社の社長に一昨日有罪判決が確定したことを批判材料として提示する人も。
 弁護士自身はその件は地裁で無罪判決を得てるんですけど

 他にも、その弁護士の事務所には抗議電話が殺到しているという。


 オウムのときも。和歌山砒素カレー事件のときも。いろいろな少年事件のときも。
 大きな事件があるたびに、弁護士非難は毎度毎度起こる。今回の非難も同系列のものであることは容易に察しがつく。そういう非難をする人たちで弁護士の立場を理解している人はごく僅か。理解している人は何も言わないのかもしれないが。



 くどいほど語ってきたが死刑判決が下されかねないような世間の注目を集める事件を担当すると、弁護士も苦労を強いられる

 ヤケを起こして味方の弁護人にまで反抗的態度を取る被告人。
 「犯人俺なんだけど無罪にしてくれよ」と悪びれもせず言うような身勝手な被告人。
 この事件だってそうだ。無期懲役でちょっとは反省するかと思えば、あの手紙。死刑にしたいという感情が国民全体に沸き起こるのはよく分かる。


 だが、そんな人間を相手にしても、弁護人は「被告人のために」裁判を続けなくてはいけない。守るべき被告人自身が弁護に理解を示さなかったりするのに、である。
 他方、場合によっては被疑者・被告人以上の非難が弁護士に向くことだってある。自分の親にまで「弁護するか縁切りか」を迫られた弁護士の話を聞いたこともある。
 苦心の末、無罪判決や寛大な判決を勝ち取っても彼が悪役とされることだってある。もし今後、オウムの教祖とされる麻原氏の裁判が無罪とか公判停止にでもなったら、弁護人や裁判官は彼に死刑判決が下るより散々な目に遭う。死刑になれば彼らは忘れてもらえるだろうが、無罪になったのは弁護士が詭弁を弄したせいだという一派が必ず出てくる。
 著名な事件でいくつか死刑からの減刑判決を勝ち取っている安田弁護士も、現にそういう非難を浴びているのである。

 弁護士だって人間だ。内憂外患と言う状態の下で、金にもならない弁護をする人は一部にはいるようだが、大半の弁護士はそういう事件は引き受けたがらない。そんなんで名前を売ったって名声も金も手に入らないのだから。


 そういう現状を知ってかしらずか弁護活動にちっとも筋の通らない、感情そのままの非難をしている人たちがいる。決してネット上の匿名空間を利用した、正義漢気取りの人間だけではない。

 日本では素晴らしい文学作品を世に出す優れた出版社なのに、その出版社が出す週刊誌の言うことのレベルは最低と言う妙な現象がある。そこの記者たちや、それに肩入れする評論家はこぞってそんな愚にもつかないことを寄稿・コメントしている。だいたい、その週刊誌はといえば、弁護活動非難の最大の拠り所の一つ、「被害者の立場や権利」を踏みにじるような取材を平気で行っているようなところだ。本当に被害者の立場や権利を守りたいが故に寄稿・コメントするなら、まずその手の週刊誌ときっぱり縁を切ることから始めるべきだろう


 もちろん、弁護士に対する批判の中にはしっかりした弁護人の役割を踏まえての批判もある
 選任されたのにろくな弁護をしない怠け者もいるらしいし、一部の弁護活動において、弁護どころかただの捜査妨害じゃないか、というような、行きすぎ弁護活動が見られるのは事実。
 今回の活動にだってそういう疑いが出るのはやむをえないかもしれない。
 そういう筋を通した批判には、何の異議も挟まないし、今回の事件に対してもそういう真摯な批判もある。弁護活動のあり方を問い直すという意味でも、批判は重要な役割を果たす。

 だが、そうやって騒ぐ彼らにとって筋と言えるようなものは何もない。ただ「悪いやつを弁護するやつは許せない」「遺族がかわいそう」と言う素朴な正義感情をふりかざす理屈はオマケだ。中身なんかない。
 だからとらえることもできないし、いくら論破しても黙らない。下手をするとそうした素朴な感情に従うことこそが民主主義だというとんでもない誤解まで。

 私など全く敵わない法の素養のある人で、「世間やマスコミがどう考えているかで裁判の行方を決していいなら、司法権の独立もいらないし、立憲民主主義なんて恥ずかしくて口にもできない」とそのブログに書いている人がいた。
 表現の程度に差はあるにしても、そう考えない人間は最初から法律家とは呼べない。世間やマスコミがいかに騒ごうとも、裁判所は厳然として自分なりの公正な判断を要求される。弁護士も検察官も彼らなりの職務を完遂しなければならない。
 国民感情に配慮するということと世論に服従するということは根本的に違うのだ。そこに、正義の女神がしている目隠しの今日的な意義があると思う。




 今回の弁護団の行動をどう評価するか自体は、見解の分かれるところだろう。不当な引き伸ばし目的だ、と言う考え方には現段階では私は賛成しないが、今後の展開によっては弁護団がそう評価されるのもやむをえない事態になるかもしれないし、弁護団を全面的に弁護するには一抹の抵抗感があるのは事実。



 だが、だからと言って感情そのままな非難の嵐は見ていてうんざりである。
 弁護士を叩くだけ叩いて圧力をかけ、例え自分の判断が間違っていると裁判所に断ぜられても何の責任も問われないマスコミや叩く市民
 弁護のように、必要だからやらざるを得ないというのはわけが違う。

 それなのに、彼らはそこまで弁護士を叩いて、安っぽいヒーローを気取って、それでもまだ不満だというのだろうか。
 厳しく言えば、これは日本社会が抱える一つの病理かもしれない。




※※※※※※※※※※※※※※※※追記※※※※※※※※※※※※※※※※

 今日、朝日新聞の投書欄には、今度司法修習生になる人の「今度の批判には凶悪事件の審理なら適正な法手続を保障しなくてもかまわないと言う安易な主張が読み取れる」という投稿があった。
 私も、100%とは言わないまでも、今回の弁護士に対する非難の大多数に当てはまる話だと思う。この裁判で争われているのがあの殺人事件だったからこそこの批判は沸き起こった。仮に、殺人犯に極めてよい情状があるような事件(例・被害者に日常的に暴力を振るわれていたのに耐えかねた)で、弁護士が同等の対応を取ったとしても、マスメディアがこぞって批判して、世論が同調するような事態が起こったとは考えられない。

 そのような安易な主張ではなく、充実した裁判が必要、それでもなお、あれには必要性もないとして非難の対象にするのは私も非難しない。私自身の判断をしばらく待って書き込めば済む話である。
 現段階において私は、弁護団を弁護したいのではなく、弁護団に感情的な非難を行う人間がうんざりなのだ。






最終更新日  2006年03月21日 16時19分53秒
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