碁法の谷の庵にて

2006/07/01(土)10:36

勝負事に向かない日本の気質

囲碁~それ以外(51)

 私の愛読書である「タテマエの法 ホンネの法」に増補新版が出た。まだ立ち読みレベルで、大雑把にしか読んでいないが、この本で、松井の甲子園時代の敬遠問題を扱っていた。  そこで、ホンネとタテマエとはけっこう重なるけどちょっと違う角度から、一つ考えてみたい。  最初に結論を言ってしまうと、私自身は日本の持つ文化的気質は、勝負事には実は向いていないのではないかと言う印象を持っている。  日本人は、色々な勝負事を剣道だの柔道だの茶道だの棋道と言う形で「道」と大成させている。「邪道」「権道」「正道」なんて、物事の筋を全部「道」と言う字であらわしていた。  だが、茶道のように勝負性がなくなったものはともかく、本来勝負と言うのは賭け事である。剣道では、相手は本来殺し合いの相手である。「棋道」だって武道ほどではないがこれも例外ではない。「先の差は主従」なんて言葉もあったが、まさしく勝敗は上下関係を決してしまうものだったはずである。  それを、「勝負を通じて」人間性を高めるものとした日本人。一定の道を極めて、人間性を鍛えるものにする。そのことは善悪に関係ない一つの事実であり、日本人にとっての一つの美意識であるかもしれない。  ところが、日本人は美意識が高じすぎたのか、元々そういう性格だからそういう美意識を持つようになったのかは分からないが、勝負事において勝負それ自体を重視せず、勝負に至るまで、当事者の人格や勝負の中身などを見て、それで物事を決してしまうような性格が、特にアマチュアには垣間見える。さすがにプロとかアマでもある程度強豪になってくれば、勝負に徹することができているように思うけど。  そのことは是非をとやかく言えるものではないし、これこそ日本人の美意識と弁護するのはそれはそれでひとつのあり方なのだが、はっきり言って、「勝負には向かない性質」だと思う。  松井敬遠事件は、14年も前の話なので最近の若い人たちは知らないかもしれない。いまや大リーグでも「godzilla」と恐れられる松井秀喜は石川県の名門星陵高校出身なのだが、当時から超高校級のスラッガー。当然甲子園にも出てきて、恐れられた。  これに対し、星陵高校と対戦したこれまた名門明徳義塾高校は、松井相手に全打席敬遠と言う策を用いて松井の打撃をランナーを一塁に出させるのと引き換えに封印。それで見事星陵高校を撃退した(3-2)のだが、これがケチの始まり。  それで勝った明徳義塾高校の効果演奏の最中に「帰れ!帰れ!」などとブーイングが流れ、宿舎に抗議電話が殺到し、あろうことか高野連の会長まで苦言を呈し、日本中で大論争という事態になってしまった。(W杯で国歌歌ってる最中にそういうことをやったらリンチでは済まないと思うんだが・・・)  松井敬遠事件の囲碁版と言えば、やはり棋聖戦ダメ詰め事件だろう。王立誠棋聖(当時)が、棋聖戦挑戦手合の第5局で、だめ詰めの最中にアタリを打ったとき、柳時熏七段(当時)は他に打ってしまい、終局が成立していないことが立会人により改めて裁定されたために王立誠棋聖はあたりの石を抜いて、柳七段が正しく受けていれば僅かに残していた碁が、王棋聖の中押し勝ちとなったものである。  さすがに日々勝負の世界に身をおく棋士たちは、終局に関する事実認定を除けば被害者(?)柳七段も含め当然のことと受け止めたようであるが、碁を美学の世界と捉えて、「勝負」に徹しきれないアマの一部論客(特に保守系論客)は、この問題に沸き返った。  王立誠棋聖が抜いた行為は卑怯だ、許されないと非難し、逆に柳時熏七段に同情する人たちが現れたのだ。  それだけではない。日本の棋士たちが形ばかり重んじて、韓国のように読みの研究をしてこなかったのも、そういう勝ち方をするのはえげつないことだという日本人の美意識が、歯止めになってしまったのではないかと思っている。(自分で言うのもなんだがかなり思い込みが入っているような気がするが)  道策以来300年以上もある日本の囲碁の歴史が、わずか20年で新興の中国・韓国に抜かれたのは、そういう要因もあるとは考えられないだろうか?少なくとも、私は今の中韓のトップ棋士が、道策や秀策や丈和に劣るとは思っていない。  碁を並べて確信している訳でなく(そんな確信ができるなら今の私はプロ棋士だろう)、そう考える方が筋が通っていると思うのである。少なくとも私の知る限り、「李昌鎬や崔哲瀚や李世ドルや古力が相手でも、秀策や道策を現代に連れてくれば勝てる」と言った一流棋士はいない。  勝負の世界では、色々な勝負のつき方がある。その内容に、好き嫌いがあるのは当然である。そこを、勝負だけで全てを決めるのは当事者だけであって、門外漢があっちの方がよかったなあと思うことを非難することはできまい。  だが、門外漢が勝負外のところでやたらとほめたたえ、勝負を半ば無視しようとするのは、不思議な現象だと思う。  やっている方はルールの範囲内で勝負に徹し、ギャラリーは勝負に徹せない。特にそのギャラリーの力が強いのが、日本人の気質なのではないだろうか。それが多かれ少なかれ勝負の世界に影響を落としているとは考えられないだろうか。  もちろん、形式的に見てルールの範囲であるからと言って、勝負の本旨をゆがめるような行為について、一定の非難が向くことはある。一番単純なのは、時間攻めの話だ。価値のある手がなくなり次第、誠実に時計をとめ終局合意あるいは投了するというのは、持ち時間制の下で碁と言うゲームを成立させる本質的な要素であり、それを無にするような終局不同意は認められない。 法律学の世界では、そういうのを「脱法行為」などと言ったりするが、お手上げでどうしようもありませんというほど甘くはできていない。  だが、それ以前にごく通常の勝負の駆け引きまで非難するのは日本人らしいことではなかろうか。そして、昨今の日本の世界戦不振の一要因として、それがあるというのは私の思い込みだろうか。    ちなみに私自身は、碁と言う勝負の世界に一応漬かっているし、その上に法律学をかじっているせいもあって、おそらく囲碁界でも屈指のタテマエ論重視派閥である。少なくとも囲碁ブロガーの中で私ほどに建前を打ち出す人は見たことがない。ある部分では私より建前を打ち出しているのに別の所になると本音丸出しと言う人ならいたが。  松井敬遠にせよ王立誠の抜きにせよ、眉をひそめることはあってもとやかくは言わない。

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