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碁法の谷の庵にて

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2006年09月26日
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 今日、東京地裁で、26年前に人を殺害して埋めていた行為について、その被害者の遺族の方が加害者に責任を追及していた裁判があり、裁判所は、殺害行為については除斥期間がもう完成しているが、遺体を埋め続け放置していた行為についてだけ、330万円の慰謝料の支払を命じた。


 さて、これに関係する判例を一つ解説してみましょうか。時効に関する裁判例である。

 実は私にとって思い出深い判例。私が学部一年の頃、前期だけの講義で受けていた科目があり、それで最後に教わった判例である。レジュメどこかにあるかさえもう忘れたが、判決の日付に至るまで相当印象深く覚えていた判例だ。最初に判決の日付を覚えた判例は実はこれかもと思っている。
 ちなみにそのときの先生は、当時東京弁護士会の会長で、今や日本弁護士連合会の会長となっている平山正剛先生。

 こんな話とともにその判例を見た。
「法と言う地はさんずいに去る、つまり水がないと書く。法と言うのは本来潤いのないもの、しかしそこに潤いを与えるのは法律家である」
 と。本当は法と言う漢字の由来はそういうわけではないようなのだが、それで出してきたのがこの裁判例である。
 司法試験を受けていても、けっこう扱われる判例なので、知っといて損はない。実はここでも一度ほんの少しだけ触れたことがあるが、法の世界の温かみを少しは察して欲しい。それと同時に、一見して「冷たい、血の通っていない」判決を出しているように見えても、本当は暖かい判決を出せる、出したい人たちが、出そうにも出せずに泣く泣く出している判決が、いわゆる「冷たい、血の通っていない」判決であるということを察して欲しいのである。 




 
 最高裁の判例平成10年6月12日だ。判決文はこっちへどうぞ。

 この事案は、いわゆる予防接種禍の話である。予防接種をすると、たまに悪魔のくじを引いてしまって極めて重篤な傷害に陥ってしまうケースがある。実は彼らを救済するためには法律が不十分ではないのか、と言う別の法律問題もあるのだが、それについてはこちらの話を参照していただこう。
 この裁判例では、国の不法行為責任(国家賠償責任)が問われたのであるが、不法行為には除斥期間と言う概念がある不法行為から20年が経過してしまうと、請求は不可能になってしまうのである。(実は除斥期間ではないという解釈論争もあるのだが、判例はそう考えないので今回は割愛)

 除斥期間はある種の時効だが、時効(消滅時効)よりはるかに強力である。除斥期間は言うなれば「権利の存続期間」。
 普通の時効は、「行使させません」と言うだけなので、例えば支払いを催促するだけでもわりと簡単に中断できたりするのだが、除斥期間はそんなものが通用しない。裁判を起こすのが間に合わなければ、問答無用で権利なしである。また、時効は相手の当事者が時効ですから時効だと判断してくれと言わないと裁判所は時効だといえないのだが、除斥期間はそれもいらないといわれている。除斥期間を超えたことを裁判所が察知したら、即刻除斥期間で退けられる
 権利のある人が権利があることを知らなかった、犯人が見つからなかったとか、そういった事情は何も関係ない。もちろんその分期間は20年と長くなっているが、20年の威力は凄まじいのだ
 本人が知るか知らないかに関係ない、と言うのは条文にあることだから、その趣旨はとどのつまり20年たったらもうなしにして安定させて欲しいという要請があるということで、そのような解釈が採られている。また、この司法の解釈は割と古くからあったもの。改正論議も聞いたことがないので、この考え方は立法も追認していると見て差し支えないだろう。


 さて、普通の時効であれば時効の中断の理由となるものの一つに、「時効が終わる期間に法定代理人がつかないこと」というのがある。権利のある人が子どもであるとか事理弁識能力がなくなってしまい、自分自身では権利を行使したり裁判を起こすことができない人がいる。裁判を起こすには、本人が裁判をするだけの基本的能力が必要なので、そういう人たちは当然裁判を起こすことができない。
 といっても、法定代理人がつかなければ永遠に裁判は起こせないので、その間に時効になってしまってはかわいそうと言う配慮から、法定代理人がついてから6ヶ月の間に訴えを起こせば時効にはならないという規定が、民法158条である。

 しかし、上の話はあくまでも通常の時効の話。除斥期間の威力は、この規定も追い払ってしまうといわれる


 ところが、この事件では、被害者は、その不法行為、つまり予防接種自体によって事理弁識能力を失ってしまったのだ。そしてそうなって相当長い間法定代理人がつかず、回復することもないまま30年も経って、やっと裁判所に選任された代理人が速攻で訴えたのだ。
 とはいえ相手はジョーカーにも等しい除斥期間。もう20年以上経っているからアウト、と高等裁判所は判断したのであった。法理論的にはそう判断するしかないように思われる。私が高裁の判事だったら、おとなしくそういう判決を下しただろう。
 「まともな結論を出したい場合の最後の大技」信義則・権利濫用この話をどうぞ)も、除斥期間だというのが信義則違反だ、権利濫用だというのでは結局除斥期間の制度はなしになってしまうし、そもそも裁判所が勝手に認定できるのに相手が権利濫用だからダメ、というのは無理だ



・・・ところが、最高裁判所がそこに救いの手を差し伸べた。

 除斥期間の規定は、「加害者の行為によって心神喪失になった場合、除斥間が経過した後であっても、被害者についた後見人が6ヶ月以内に訴えを起こせば適用されない」と言ってのけたのだ。

 理由の部分をそのまま引用してみよう。

 「不法行為の被害者が不法行為の時から二〇年を経過する前六箇月内において心神喪失の常況にあるのに後見人を有しない場合には、右二〇年が経過する前に右不法行為による損害賠償請求権を行使することができないまま、右請求権が消滅することとなる。しかし、これによれば、その心身喪失の常況が当該不法行為に起因する場合であっても、被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に二〇年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面、心身喪失の原因を与えた加害者は、二〇年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものといわざるを得ない。そうすると、少なくとも右のような場合にあっては、当該被害者を保護する必要があることは、前記時効の場合と同様であり、その限度で民法七二四条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである。」

 民法724条後段とは不法行為の除斥期間の規定である。条理、とは物事のあるべき筋道とか、まあそんなことだと思っていただければよい。ちなみに、法律に規定がないことについては慣習を根拠に裁き、慣習にも根拠がない場合には条理を根拠に裁くものとされている。

 媒介となったのは、除斥期間に適用がないとされる158条の「法意」。
 はっきり言って無理やり作ったのがばればれ、つぎはぎだらけ、理屈とすら言えるかどうか怪しいような理由付けである。言っては何だが、最高裁判所でなければとても言えないのではなかろうか。
 極論すれば、そんな無理な解釈をする人間は最高裁判所の判事として不適格だ、ということだって言って言えないことはなかったのだが、幸か不幸か、(私は幸だといいたい)彼らは国民審査などではクビにはされなかった。

 もう一つ、実をいえば救われたのは彼だけである。彼と一緒にこの裁判を闘っていた別の被害者は、除斥期間の壁を突破することができず、請求は退けられてしまった。最高裁判所としても、最大限に譲歩に譲歩してやっと出したのがこの判決だったのだ。


 ちなみに、最高裁判所は今年の6月には、別の事件で(判決文はこれね)


 「民法724条後段所定の除斥期間の起算点は,「不法行為の時」と規定されており,加害行為が行われた時に損害が発生する不法行為の場合には,加害行為の時がその起算点となると考えられる。しかし,身体に蓄積する物質が原因で人の健康が害されることによる損害や,一定の潜伏期間が経過した後に症状が現れる疾病による損害のように,当該不法行為により発生する損害の性質上,加害行為が終了してから相当期間が経過した後に損害が発生する場合には,当該損害の全部又は一部が発生した時が除斥期間の起算点となると解すべきである」


 という解釈を示している。これも多少荒業だが、何とか被害者を救済しようと考えた成果だろう。ところが、「加害行為が行われたときに損害が発生する不法行為の場合には加害行為のときが起算点」と大原則をぶち上げた(元々そう考えられているのだが)から、余計に今度の件に適用するのはきつくなっている。



 今日の判決も、除斥期間の壁は突破できなかった。除斥期間の壁をわずかにはみ出した領域を徹底的にとらえてたたく以外のことはできなかったのだ。
 別の国家賠償訴訟で、行政の過失による不法行為に対し、助けを求めて役所に相談に行ったのに、あちこちたらいまわしにされている間に除斥期間が経過してしまった事例では、除斥期間だということで請求は退けられている。(最判平成元・12・21
 そういう意味では、上の裁判例を持ってきてもやはり厳しいと思われる。



 ただ、何とかして被害者を助けようとした苦悩は、被害者側の弁護人はもちろんのこと裁判官もしているからこそ、とにかく一部分だけでも請求が認められたのだと思うし、そこに法律家の真髄があると私は思う。
 たぶん、また裁判官の苦悩を理解しようとせず、今回の判決の結果だけとらえて裁判官を口汚く罵る人が出てくるだろう。彼らに言いたい。本当に必要なのは、20mの鎖につないで21m先のものをとって来いとムチでなぐることではなく、長い鎖に代えてあげることなのだと。



※※※※※※※※追記※※※※※※※※

 本日の朝日新聞13面に登場した福田博前最高裁判事いわく、一番印象深かった仕事はなんと上で解説したこの裁判だという。実は平成10年の判例の解説は、今日の判決準備で昨日のうちに書いたもので、朝日で福田前判事は今日の判決に関連することを何も語っていないのだが、なんと言う偶然だろうか。





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最終更新日  2006年09月26日 21時41分11秒
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