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碁法の谷の庵にて

2006年10月20日
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カテゴリ:その他雑考
 
いつから私たちは、こんな時代を生きるようになったのでしょうか・・・



 最近、ネット上では、まるでタテマエ論が顧みられない現象をよく見る。

 確かに私のタテマエ論重視の度合いは人並みはずれていると思う。と言うより、私は自分のホンネをタテマエと同化させるのがうまいのかも知れない。そうでもなければ、とても言えないようなことも、割と言っていると思う。

 それにしたって、最近は思ったことを素直にネットで開陳する、しかもそれを盾に人をこき下ろすことに何の抵抗もない人が増えていすぎやしないか。「○○というのはわかっている、でも…」と言う断りすらないのである。


 せっかく裁判所がきちんと証拠を見定めて判断しているのに証拠も見ずに被害者がかわいそうだ、不当判決だと言い放つ。
 全く疑われない法原理に思いつきで批判をする、人をなじる。
 個性の類は全く認めず、ルールを守れ、マナーを守れという。

 この手の批判の90%は、法原理や一時行き過ぎて主張されていたと私も思う個性の原理、その他平等である、司法であるといった一定の考え方に対して存在する不信が基礎にあるのではと思っている。本当に考えて批判しているのならとても恥ずかしくて言えないような批判が多すぎる。大部分の人が大学に行く世の中で、本気でそう考えて言っているとすれば本当に日本は危うい。


 そういう人たちは、一見すればマナーとか、秩序、社会性とか、美風道徳とか、そういう社会一般のために個人の主張を抑えろというような、タテマエ的な主張をしているように見える。

 だが、実際にはそうではない。なぜなら今の日本のタテマエは紛れもない自由主義なのである。日本のタテマエ社会を取り仕切る第一位は、結局のところ国民の権利を保障した憲法なのだ。
 つまり、そういうことを声高に語ることは、実はホンネの発想だ、と言う点がすっかり忘れられてしまって、マナーの悪い人を糾弾する立場とマナーなんてどうでもいいという人たちは実は同じ土俵にいるということが見過ごされているのではなかろうか。少なくとも、社会を取り仕切るうわべと言う地位からは、彼らの大好きな「マナー」や「社会性」は一旦引きずりおろされているのである。

 無論まだまだ小さからぬ威力が存在することを否定する意図はないし、マナーを守らない人間を嫌ったり、軽蔑の眼差しを向けたりすることまで止める気はない。それも自由であるし、私だってそれくらいやる。その辺まで私のホンネはタテマエ化してはいない。
 だが、自分たちこそ正しいというような客観性を兼ね備えたものではなくなったことが、すっかり忘れられている。


 日本人が右傾化した、というけど、本当のところは私は日本人のホンネ化だと思う。

 タテマエを顧みることなくホンネを表に出すことに抵抗のない人たちが増えた。特にネット上では顕著である。だからネットで炎上をさせる人たちが「ネット右翼」なんて言葉になる。ある意味では犯罪と言う形で現れる鬱憤がネットの炎上で現れているのだと思う。
 実際に右翼系の人たちが炎上させているとは限らないはずなのだが、その辺を「ネットホンネ派閥」とでも言い換えれば分かりやすくなってくる。自分のホンネに合わないことを言う人は許さないという感情が、炎上と言う事態を招くのだと思っている。タテマエでしか支持していない理屈で、誰が他人の掲示板やらブログやらに殴りこむものか


 タテマエにおいて自由な社会と言うのは、そういうホンネの丸出しも肯定することになる。ドイツのような戦う民主制を取らない限り、自由で民主的な基本秩序を破壊するようなことを論争するのさえ自由である。これからもどんどん論争してけっこう。ホンネ丸出しもいいさ。それを止める権限は私はもちろん、誰にもない。

 
 でも、正直それはとても悲しいことである。子どもを教育しているのならいざ知らず、人に向かって口やかましくルールを守れ、マナーを守れという人たちこそ、実は自分たちがタテマエに敬意を払っていないのだから。
 
 


 自由な社会に向かって一歩、歩き出した日から、それは始まったのかもしれません。
 思い出してください、もう一度。

 自分の言っていることは本当に単なる自分の欲望じゃないのか、と。






最終更新日  2006年10月20日 18時46分10秒
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