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碁法の谷の庵にて

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2006年11月10日
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カテゴリ:法律いろいろ
 法律家でない、評論家の皆さんは、当然法律に関連する問題についてもいろいろな評論をすることがある。まあそれはどうぞご自由にということでよい。大学教授やら評論家みたいに評論で飯を食っている人も、ネット上でいろいろ評論を試みる人もだ。

 だが、そういう評論家の人たちには、一つの困った傾向が垣間見える。
 困ったことに、ある程度名前の知れた評論家の人たちでもそういう人は少なくない。とある評論家のページを見てイライラしたので、今日はその点を指摘しておこう。


 法律をめぐって実際上の是非論が戦わされる場合、その論争の土俵は大きく分けて2種類ある、と言うことにまず気付いてほしいのである。
 第一に法解釈論は、「今ある法律をどう解釈しようか?」と言う問題である。
 実務の世界ならば、法を解釈適用する国家作用である司法権を行使する裁判官の仕事であろう。また、行政も法律に基づいて行われることからすれば、行政にだって法解釈の責務があろう。
 第二に立法論は、「これから法律を作る(改正・廃止する)に当たって、どのように作っていこうか?」と言う問題である。
 これは、憲法41条で言う「唯一の立法機関」である国会議員、すなわち国会の仕事だ。また、国会が行政機関に内容を定めてくれと委任することもある。この場合は決定する行政の仕事と言うことも出来るだろう。また、実務上法案提出は内閣が行うものがかなり多いので内閣の方に文句をつけることも実際上はありうるといえるだろう。



 当然、この両者は性質が全くもって異なる。
 立法論は、べき論が強く出てこられる。「ある意味では」言いたい放題論じたい放題である。規範それ自体をいじってしまえば、いかに規範ではこうなんだと主張したところで効果がない。憲法と言う制約もありうるが、憲法でさえ改正は可能である。

 これに対して、法解釈論は、「既にある法律」というのが、強力な足かせとして存在している。いかに「こうあるべきだ」と主張してあがいても、お釈迦様の手の中の孫悟空の域を出ることは許されない。そんなの無視していいんだ、といってしまったら、法治国家も法の支配もあったものではない。


 といっても、この両者の「境目」は、実はあいまいである。
 法解釈論の中にも、ある程度はべき論が入ってくる。法は解釈して行間を埋め、言葉を定義していかなければ使えないものだから、そこにべき論を絡ませることが可能であるし、むしろ可能な限りで絡ませていくべきだ。ことに民事法ならば権利濫用や信義則と言った大技も使用可能である。
 とはいっても、権利濫用や信義則で解決できる部分が全てではなく、現在の法体系上やむをえないとして退けられることもある。ましてや、特に刑事法となると、これ以上はどんなに法を読み込んでも無理、言葉の定義の域を逸脱していると言うような領域は大いに存在するといわざるをえない。
 実際問題、法律家や法学者と言われる人たちでさえこれは法解釈論として成立するvs法解釈論としては無理、立法で何とかしろというような激論を戦わせていたりするので、両者の境目を完全に見極めることが出来るとするならばそれは半端な能力ではない。
 司法試験など一蹴するような、とっても高度な法的能力が求められるだろう。



 しかし、境目が極めてあいまいだとしても、両者の中心点は見える。現行法を前提に考えていれば法解釈論、現行法を越えた自由な立場からいろいろ語るのが立法論ということになろう。
 そして、法解釈論を巡って現実の現象を批判するなら先述した仕事場を持っている人たちを批判することになる。法解釈論の問題なら法を解釈適用する立場の裁判所や法に基づいて政治をする行政がその対象になり、立法論の見地から批判するなら国会あるいは行政がその対象となるであろう。
 また、裁判所の判決はどうあがいたって法解釈しか出来ない。立法論なんて、せいぜい最高裁判所の補足意見の類で「立法的解決が望まれる」みたいなことをさらりと言うくらいしか出番がないのが実際である。



 ところが、両者を区別して論じられない人が多く、しかもそれはみな司法=裁判所に対して、「司法がおかしい」というような批判として存在するのは、とても困った現象である
 三権分立は中学校で習うと思うが三権の具体的な意義はなかなか習わないので、判決と言う形で裁定する裁判官に目が行きがちな現象は分からないではないが、裁判所としてはそんな理不尽なと言いたくなるだろう。

 先日囲碁界に関する評論でも有名な林道義教授のページをのぞかせてもらったところ、警官の発砲を違法とした判決を厳しく論難していた(ここです)が、明らかにべき論で埋め尽くされているとしか読めず、立法論としてはともかく法解釈とは呼ぶに値しないものであった。裁判所を非難するなら、関連する条文の解釈として何とかすべきだろうし、林教授の言う高裁での逆転判決を判例検索で確認したが、当然ながらきちんと国会の決めた立法にひきつけて解釈している。
 行刑改革についても批判的な言説を向けていた(こちらからどうぞ)が、なぜか批判の対象は行刑改革を主導してきた法務省をはじめとする行政や改革の法を全会一致で認めた国会ではなく、司法に向いていたりする。
 裁判所は裁判の運営をするための規則を作る権限は確かにある(憲法77条)が刑罰を実際に行うのは行政である。司法権は、そこについては規則も何も作れないし、法案を作る権限もないし、それどころか改革の原因となった名古屋刑務所の特別公務員暴行陵虐致死事件では執行猶予のついた判決だって出している。
 いや司法がかかわっているんだ、と言うのなら、本当に司法が具体的にどのようなことをやってきたのか、きちっと論証しなければならないだろう。
 行刑に関する林教授の見解についてはまた別個に検討したいが、心理学者とはいえ東大法学部卒の彼がその辺の問題を明らかに履き違えているのだから、問題の根っこは深い。


 こうあるべきなんだ!と言って、法律の条文を一度も引っ張ってくることなく、それだけで判決や裁判所を批判する人は、まちがいなく立法論と法解釈論がごちゃごちゃになっていると評価せざるを得ない。

 裁判所・裁判官にケンカを売りたければ、最低限裁判所が出ることのできない、法解釈の土俵に乗らなければいけないのだ。 もちろん、一旦土俵に乗ってくるならば、当然容赦のない批判はかかってくる。私素人だからわかんなーいなどと言うような態度は通用しない。(この辺についてはまた後日話をしようと思う)
 それが嫌なら、もっと自由な立法論の土俵に載るか、是が非でも勉強して自分の主張を法解釈論に組み込むかしかないのである。 

 いかに内容がある批判でも、相手をきちんと見定めなければそれは狂犬の噛み付きにも似た行動でしかないのを悟ってほしいものだ。





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最終更新日  2006年11月10日 19時02分46秒
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