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碁法の谷の庵にて

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2006年11月15日
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カテゴリ:その他雑考
 厳罰化すれば犯罪は抑止できるという人たちがいる。私だってそう思う。必ずしも厳罰化が犯罪抑止につながらないことはこの記事で指摘させてもらったが、「基本的に」厳罰のほうが抑止できるという構図は変わっていないと思われる。
 
 では、なぜ抑止できるのだろうか。それが今日の話題だ。

 ここで書くのも3度目くらいになるが、フォイエルバッハはこういった。
人間は犯罪により得られる利益と罰の重さを比較して前者が重ければ犯罪を思いとどまる
 と。

 たぶん多くの人は、抑止についてそう考えていると思っている。ここでは損得勘定論ととりあえず呼ばせてもらおう。

 本当にそうなのだろうか?私は、損得勘定ももちろんありうるが、それは主力足り得ないと思っている。フォイエルバッハは人間をかなり合理的に捉え、いつも損得勘定ができるという、実証を伴わない仮定の元に理屈を作ったのだ。近代刑法学の萌芽としての意義は大きくても、犯罪抑止力と言う視点からのフォイエルバッハの思考はどうなの?と思われている。
 個人的には、出来心的軽犯罪ならば損得勘定論も理由ありと思っているが、殺人その他の凶悪犯罪と言われるものについてのそれは極めて怪しい。


 損得勘定の「損」にあたる刑罰の量であるが、日本人のどれくらいが、刑法典に書かれている法定刑を知っているだろうか。泥棒は、わざわざ泥棒に入る前に窃盗罪の法定刑や量刑相場を調べているのだろうか?全くいないわけではないかもしれないが、限りなく少数であると思う。
 それどころか、日本に死刑が適用される可能性のある犯罪は17あるが、どれが死刑になる犯罪か、理解できる人が何人いるというのだろうか?死刑制度について書いた本ならまあ書いてあるとは思うが、すらすら暗誦する事は学部時代死刑制度について調査した経験のある私にもできない。たぶん現役の裁判官とかでも17個すらすら言える人は少数ではなかろうか?殺人や強盗致死罪、現住建造物放火と言ったよくある犯罪はよいが、内乱罪や外患誘致罪のように戦後使われていない犯罪だってある。刑法に限らず、特別法にも死刑が出せる罪があるのもミソだ。

 それに、例えば殺人罪の場合、殺人によって殺人犯がどんな利益を得るだろうか?
 保険金・遺産目当ての殺人や強盗殺人の類なら、そういう計算高い犯人には、厳罰に一定の効果が期待できよう。
 だが、計画的でない突発的な殺人や、計画殺人でも怨恨がらみで、殺したって正味一文にもならない殺人だって少なくない。それを懲役○年と交換するという思考をしているとは到底考えられない。とにかく殺すことで頭が一杯で刑罰のことなんか考えていないのが多いのではないか、と私は思っている。
 実際、人を殺すような人は少なからず犯行後に自殺してしまうと言う。つまり、自分の命すら大事にしていないのだ。死刑廃止論者の言説ではじめてその話を読んだときは正直信じられなかったが、犯罪学の講義でまでその話を聞いて、信じざるを得なくなった。

 さらには、損得勘定論をもってしても、残虐刑の絶対的禁止(憲法36条)、奴隷的拘束の禁止(憲法18条。これも絶対禁止とされる)、罪とつりあわない形の禁止という拘束は否応なくかかる。
 公共福祉がどうたらこうたらなんて通用しない。計算高い犯罪者を抑止する方法論にも限度があるのだ。


 さて、ここで刑罰の抑止力には、違う側面があるということにスポットを当てよう。

 例えば、死刑制度の抑止力と言うのをどう考えるだろうか?

 死刑の対象となる犯罪と言えばやはり殺人、特に強盗殺人であるが、彼らは「無期懲役なら割に合うので犯罪を行い、死刑なら割に合わないので犯罪をしない」なんて考えるだろうか?全くいないなどとは到底言いかねるが、当てはまる例が多いとは私は思っていない。
 無期懲役、いや3年とか5年以上(年数は適当です)に及ぶ懲役の実刑なら、平穏な社会生活を送ってきた人にとっては、死刑にせよ無期にせよ全てを失うことはほぼ間違いない。また、無期懲役の仮釈放は、近年は大半が20年以上服役しなければ出てこられない。法文で10年で仮釈放可能と書いてあって、それを盾に無期は10年で出てくると騒ぐ人がいるが、少なくとも現在は実態を見ていない真っ赤な嘘だ。この手の嘘は、損得勘定論からすれば、犯罪者に余計な動機を与えかねない言説でさえある。
 死刑と無期懲役の差は、傍から見れば大きいかもしれないが、本人にとってそんなに大きいものなのかどうかは、疑問の余地があろう。個人的には、無期懲役で止まらない犯罪は死刑でも止まる可能性は限りなく低いと思っている。それは、地球百周飲まず食わずで歩けというのと、地球一周飲まず食わずで歩けというのがほとんど同じように働くのと同様だ。距離は100分の1だが、どっちにしたって結論は飢え死にか渇き死にでイコールである。

 どうやらこの問題意識は割と広いものらしい。ではなぜ死刑に抑止力があるというのだろうか。
ここで、名高い刑事法学者の平野龍一先生はこんな感じのことを指摘していた。

「死刑制度があることで、世の中には死を持って償わなければならない罪があるという認識をもたらすことができる」
と。
 言ってみれば、個別の犯罪者に死刑になるからやめろというのではなく、死を持って償わなければならない罪であるということで、殺人その他の行為がいかに大それた、恐ろしい、人としてやってはいけない行為であるかを市民一般に認識させることができ、それが長い目で見て犯罪の抑止につながる、と言う指摘である。
 つまり、損得勘定論な抑止力ではなく、ある種の教育としての抑止力。こうした抑止力に基づく死刑の肯定については批判もあるであろうが、そうした抑止力は存在すると私は思う。
 そして、この見解からは、犯罪を本当に止める力となるのは、必ずしも刑罰の怖さではなく、刑罰によって犯罪行為をよくないことだと認識する人々の意識だと言うことになる。


 またしても大学の犯罪学の講義で習った一つの例であるが、非行防止のために、少年たちにいろいろなことをさせた、という。地域の祭りに参加したり、野外活動でハイキングをしたり、老人福祉に携わったり。ところが、他のものは軒並み効果がほぼ変わらなかったのに対し、その中で一つずば抜けて非行防止に効果があったのは、地域のゴミ拾いだったという。ゴミ拾いと言う立場は、言ってみればゴミを捨てるという加害行為に対し被害者としての立場を大きく感じるもの。それによって非行と言うものがどういうものか認識する、と言うことが遵法意識を生むと教授は分析していた。内心で持つ犯罪への安全弁の威力は大きいのだ。


 そして、これから重要になってくるのは、教育的な視点の抑止力である、と思う。
 なぜなら、単純な損得勘定が成り立つには、刑罰が確実に科されなければ無意味だ、ということを考えなければいけない。損得勘定論は、「ばれなきゃいいや」の一発で破綻する。
 当然その阻止には警察や司法関係者の多大な奮闘が必要になる。
 だが、現在の警察の人数などを考えれば、今の警察関係者がいくら頑張っても、犯罪を予め食い止めるのには限界がある。つい先日も、私の親戚の家に泥棒が入った。検挙率を上げるのにも限度があるし、そもそも被害者が泣き寝入りを決め込んだり、被害に気づかなかったりと犯罪として認知されない犯罪だってかなり多い。
 これらを大規模に検挙しようと思えば、警察官の人数を今の何十倍にも増やし、街中をずっとパトロールさせなければならない。日本は広いのだ。あまりに制服姿の警官が多いのは町の美観の問題もある。また、監視カメラを付けたところで、効果が眉唾であることはこの記事を参照していただこう。
 そして、どっちの方策を採用するにしてもめちゃくちゃな予算が必要になる。犯罪を放置した方が安上がりなんて、シャレにならないことになる可能性だってある。しかも、それだけやってどうにかなるのは街中の犯罪だけ。家の中で行われる犯罪はどうにもならない。
 また、捜査権限を拡大することも必要になるが、ちょっとやりすぎれば、憲法の令状主義とか何とか以前に、市民と警察が敵対関係になるようなことさえありうる。今と違って警官がおいこらと言って市民を簡単に引っ張り、拷問同然の取調べもごく普通だった戦前は、警官殺しが英雄扱いされるような事件さえあった。


 損得勘定以前に、刑罰が人々を教育し、何が悪い行為でやってはいけないかと言うのを知らしめる。そうすれば、捕捉しきれない犯罪、全てに科すことができない刑罰でも、人々の内面に訴えかけて犯罪が止まる。犯罪抑止の基本は、そこに求められるべきではあるまいか。
 昨今の飲酒運転なら、飲酒運転が恐ろしいことにつながることを改めて認識し、飲酒運転はばれようがばれまいが恐ろしいことだと認識することが、もっとも有効なのだと思っている。ばれなければ、事故さえ起こさなければで飲酒運転をするのだから。
 重罰は、そのための一つの手段に過ぎない。過度の刑罰が犯罪者個人に対する反省効果を低下させ、また過度の死刑の濫発は却って生命を軽んじかねない(北朝鮮の死刑を想起して欲しい)し、全般的な重罰化が反省効果を低下させかねないように、刑罰が逆の効果をもたらす可能性だってありうる。

 理想論を言っていると思われるかもしれないが、簡単な損得勘定論が、抑止の決定的処方箋にはなりえないと思う。両者は相互補完して、刑罰の抑止力と言うものを考えねばなるまい。



 念のため断っておけば、上の論考は大半が私個人の思考である。犯罪者の思考を考えた部分は、もちろん大学その他で得た知識から構成しているが想像の域を出ないことは、了解して欲しい。

 ただ、教育としての刑罰抑止力について、一旦考えてもいいんじゃないか?と言う気がしたので、こんな文章を書いてみた。






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最終更新日  2006年11月15日 14時14分16秒
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