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碁法の谷の庵にて

碁法の谷の庵にて

2007年03月06日
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カテゴリ:法律いろいろ
 先日、心神喪失ということで刑法39条によって殺人犯に無罪判決が下り、遺族が涙ながらに控訴を求めた事件があった。

 心神喪失と言うと、刑法39条が問題にされることが多いが、それだけでは十分な理解があるとはいえない。
 そこで、今回は諸法に存在する心神喪失を紹介してみるとしよう。刑法39条だけピックアップしてうわーっと言う人たちは、例え何かの弾みで刑法39条の改正に成功しても(あれは法体系の根幹を成すに近い法律なので削除される可能性は限りなく低いが・・・)足元すくわれまっせ・・・と言うことになるので心して読んでもらいたい。


 まず、刑法上の心神喪失の話はこの記事で相当詳細に説明をしておいたので、そちらを参照していただこう。
 ただ、比較対照用として、もう一度刑法上の心神喪失の定義を書いておこう。
 「精神の障害により、自分の行為の是非を認識する能力又は認識に従って行動する能力がない状態」


 他方、刑事訴訟法にも心神喪失がある。314条に登場する。心神喪失になったら公判は停止する、と言うわけだ。
 オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫氏の裁判で、弁護側がしつこく主張していたのがこれだ。実はこの記事でも多少解説したけどね。
 また、心神喪失のままもう治らないだろう、と言うことであれば公判は打ち切るものと考えられており、薬害エイズの被告人である阿部英氏の裁判はこれによって終了した。

 ここでの心神喪失は、
「訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力を欠く状態」と定義されている。(最判平成7・2・28
 刑法上のそれとは微妙に違う。刑法は「是非を認識する」能力と「是非認識に従った制御能力」を前提にしている。これに対して刑事訴訟法上のそれは「利害を認識」する能力と「それに従って防御ができるかどうか」と言うのが大切なのである。

 例えば、手話も文字も点字も外国語も完全文盲で、黙秘権と言われようと弁護人依頼権といわれようと意味の理解は不可能、弁護人と話すことすらできませんと言うのは、刑法では無関係だが、刑事訴訟法の世界では心神喪失扱いにされる可能性が高い。(最判平成10・3・12参照)
 つまり、例え犯罪のときに心神喪失でもなんでもない普通の人だったとしても、後になって強力な薬でも使って裁判が理解できないよ・・・と言う状態になったらもうアウト。彼を法廷に引っ張り出すことはできない(明らかに無罪その他になる場合は別だが)のである。無裁判で処罰することはできず、実際上処罰は宙に浮くこととなる。
 怪奇大作戦第24話「狂鬼人間」は刑法39条の問題に切り込んだ問題作(あまりに強烈過ぎたのか公式には欠番扱いされている)として知られるが、あの事件の首謀者の美川冴子は、心神喪失の犯罪がどうこう以前に、自分を永遠に狂わせてしまったため、せっかく刑法的にあれこれ考えても生きることはないのである。

 刑事裁判は、被告人を一方的に引っ立てて裁きを言い渡すだけではただのリンチ。被告人に対して手続を受ける権利を保障しなければならないところ。そのためには黙秘権や弁護人依頼権を理解し、自分を防御させる機会を与えなければいけない。心神喪失者なら冤罪その他とは無関係・・・なんて、そんなバカな話があるはずもない。
 本人がせっかく与えた機会を用いることができる状態でない場合には、それに従って裁くのは、実質的に見て一方的リンチになるおそれがある。従って、およそ裁判で自分を守ることすらできない被告人を、裁判に引っ立てることはできないのである。


 もう一つ、刑事訴訟法上の心神喪失には、受刑能力という視点もある。刑罰の執行方法は刑事訴訟法に書いてあるので、別の意味の心神喪失が同じ法律に同居したりすることになる。
 死刑の執行や自由刑の執行は、個人の人格に対する非難を前提にしている。心神喪失状態では、人格に対する非難を彼らは理解できず、刑罰が全くの無意味になると考えられている。
 実はここでの心神喪失の定義は手に入らなかったが、自己の行為の責任を認識する能力がない状態と考えていればおおよそ間違っていないと思われる。
 だから、心神喪失になった場合には、刑罰の執行は停止される。(刑事訴訟法479条、480条)せっかく判決まで心身喪失でなかった犯人に死刑判決を取ってきても、獄中で心神喪失になったら、彼に死刑を執行することは違法なのである。心神喪失からの回復を待って死刑を執行することになろう。もちろん心神喪失状態から回復しないならば自然死を待つ他はない。



 民事法上はどうか。
 民事法上はそのものずばり心神喪失とは書いていないが、一般に心神喪失という呼び方をされるのは民法713条。不法行為責任を負わないと言うものだ。
 近代民事法の大原則は、「私的自治の原則」と「過失責任の原則」。人間は自分の意志のみに基づいて権利を得たり義務を負うべきだ、というのが私的自治の原則、意志に基づかずに責任を負わせる場合は本人に最低限本人を非難しうる事情として過失を要求すべきだ、と言うのが過失責任の原則である。(多少は修正原理も入っているけどね)
 ご多分に漏れず、心神喪失者は過失とか故意で非難することができないから、責任を負わせることができない、と言うわけである。この場合は、監督責任者の監督に過失がある場合に、代わって監督責任者が責任を負うこととなる。(民法714条)実際には、監督義務者が責任を免れる可能性は限りなく低い。
 この場合の心神喪失は、「自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態」とされている。条文そのままだ。刑事法の心神喪失に限りなく近い。もちろん、「行為の責任」の意義は難しい。もっとも、そのような人たちが賠償するだけの金銭をもっているとは考えにくいし、実際には監督責任者が責任を負うのだが。


 また、「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある」人間については成年後見制度によって後見人をつけることができ、後見人がつけられた状態で、彼の行動は一部の制約を除けば取り消し放題である。(民法7条以降)旧来心神喪失者は禁治産者・・・という規定だったのだが、言葉が差別的なので改められたそうだ。内容的変更はほとんどないので、いたちごっこじゃないか、という気もするが。
 また、例え後見人がつけられないでも、事理弁識能力がない人間のやった意思表示は無効となるのが基本である。現実には立証がとても困難ではあるし、だから成年後見制度が設けられている訳だが。



 さて、心神喪失という言葉は、犯罪行為の場面、犯罪を裁く場面、刑罰を受けさせる場面、犯罪について被害者に対しての金銭的償いをさせる場面など、犯罪をめぐる諸相の随所に登場する。そして、その趣旨もさまざまである。
 有名な刑法39条も、所詮は犯罪行為それ自体を評価するためのものに過ぎない。確かに他と比べて登場する場面が多いが、刑法39条さえクリアすれば・・・というのは浅はかだ。特に、刑事訴訟上の心神喪失と刑法上の心神喪失は、その内容も趣旨も全く異なる。
 日本の裁判が当事者の裁判をする意図に限りなく依存しているのが実態であることは、先日の富山の婦女暴行冤罪事件が争われなかったことからも明らかであるといえる。そんななかで、およそ裁判をする能力さえない人間を裁くことの危険は推して知るべしである。

 刑法39条を見直すのは自由だけど、ほかに存在する心神喪失の規定にも、注意を払った方がいいよ。






最終更新日  2007年03月06日 17時27分15秒
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