カテゴリ:法律いろいろ
ここの発足から3度目の憲法記念日です。憲法記念日には憲法を巡る問題点をいろいろと語ってきた訳ですが、まあいろいろと触れてきたところネタ切れの感(記事にするだけなら可能でも面白い記事にはなりにくい)を呈していましたが、割と重要な話が残っていました。
それは、憲法と一般私人の関係です。 真っ先にお出ましいただくのは、憲法99条です。憲法尊重擁護義務について定められていますね。 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 では、ここで憲法尊重擁護義務があるのは誰か、という点を見ると、天皇、摂政、大臣、議員・裁判官その他公務員。 ここに一般国民が入ってはおりません。憲法は個々の国民ではなく国家権力を縛り付けることによって国民の権利を守るための法律である(憲法97条など)ために、国民が憲法を守らなければならない、国民が憲法に違反すると言う事態は、実は想定しにくいのです。ドイツなどでは、憲法忠誠といって国民も憲法を守ることを要求していますし、国民が国家に対して守れと言っている法の趣旨を国民が平気で踏みにじるようでは困るのですが。 では、ここで憲法の人権条項に着目してみましょう。多数の権利がずらっと並んでいて、義務に関する条文がちょっとありますね。これらの権利のうちで、憲法の条文が私人の間でも効力を有する、と考えられているものがいくつかあります。 一、投票の秘密(憲法15条4項) 二、奴隷的拘束からの自由(憲法18条) 三、児童酷使の禁止(憲法26条3項) 四、労働基本権(憲法28条) これらは、国民との間でも性質上当然憲法がでてきて規律する(現実には、個別に法律が作られているので今の所直接適用にそこまで重大な意味があるというわけでもないのですが)と考えられています。なぜ?と言われても正直けっこう難しいのですが、労働基本権は趣旨からして労働者vs使用者(私人)の対立を予定していますから、私人間で否定されては無意味と言えます。投票の秘密・奴隷的拘束は誰がやっても国家がそのような行為を手控えるのを無意味にするほど重大な侵害だ、ということだろうと私は考えています。 もっとも、直接憲法を適用できるからと言って法律抜きに処罰をしようとしたりすると罪刑法定主義違反になります(奴隷的拘束をした者をどう処罰するかは憲法に記載が全くない)し、行政の行為のうち私人の権利制約にあたることは法律の根拠を要すると言う多数理解からしても、これらの行為は違法とすることができるというだけで、更にその先に何が出来るかは結局法律を待つことになるのではないかと思います。 さて、他の表現の自由・信仰の自由・平等権などはどうでしょうか。これらは、私人間にも直接効力があるとは考えられていません。では、私人の間でなら表現の自由の制限も信仰の自由の制限も不平等な取り扱いもやりたい放題だ、ということでしょうか。 もちろん、憲法の規定にお出まし願わなくとも、国が法律を作って国民を規律することはあります。例えば、男女雇用機会均等法は平等権の趣旨を進めたものといえます。表現や信仰・学問その他を暴力によって抑圧しようとすれば、刑事法による処罰が待っていることでしょう。しかし、それらは個別の法に待たなければいけないのでしょうか。こういう場合にも、憲法の出番はないかな?ということを考えたくなるのが人情と言うものでしょう。 特に、今日では政府以上に私的団体が権利を侵害すると言う現象は珍しくもなんともないのが現実です。そこに対して無力では、憲法が個人の尊厳を守るために人権のカタログを用意した意味が全く没却されてしまうでしょう。 ここで、裁判例がなんといったか。 昭和48年12月12日、三菱樹脂事件と呼ばれる事件に最高裁大法廷で判決が出されました。試用期間を終えた人物を、会社が雇い入れるのを拒否した事件です(ちなみにこの判例、労働法の判例としても大きな意味を持っているとされています)。雇い入れ拒否の原因が、彼自身が大学時代に学生運動に参加していた上に、その点について虚偽の記載をしていたことに由来するものです。 最高裁は雇い入れ拒否を適法としたのですが、一つの問題点として、「思想信条による差別ではないか」「思想について会社が質問することは思想表明をされない自由の侵害ではないか」という点ですが、ここで最高裁が下した判断の一つが、 「憲法の規定は私人間には適用ないしは類推適用される訳ではない」 ということです。 そもそも憲法の規定は歴史的に見ても対国家機関の法律であり、私人間を律するための法律ではないのだから、憲法を持ってきて、違憲だのなんだのとする余地はないよ、ということなのです。また、憲法を直接適用すれば、会社の側にも存在する思想その他の個人の自由や、権利義務を自らの意思で取得負担すると言う私的自治の原則は吹っ飛んでしまうだろう、ということも見逃すことは出来ません。 この判例はぴくとも動く気配はありません。この考え方を前提とした判例は多数出ていますし、今後何年も動くことはないと思われます。 じゃあ、憲法は全くの無力なのでしょうか。実はそうともいえません。 例えば、日産自動車事件と呼ばれる事件(最判昭56・3・24)では男性の定年が60歳、女性の定年が55歳と言う会社の就業規則は違法であり、無効であるとされた判例があります。そこにおいては憲法14条(平等権)の趣旨が大きく生きています。 ・・・しかし、この事件も憲法の規定を適用した訳ではありません。 実は、法律の中にも一般的抽象的な条文で使いやすいものがいくつもあります。 民法1条3項の「権利濫用」。権利の濫用にわたる行為は許されません。 民法90条の「公序良俗」。公序良俗に反する契約の類は無効です。 民法709条の「他人の権利または法的に保護された利益」。これを侵害すれば不法行為として損害賠償の対象になります。 こうした私人の間を規律する法律の文言に、憲法の平等や表現の自由といった趣旨を取り込むことによって、憲法の趣旨を生かそう、ということがよく行われています。日産自動車事件で言えば合理性がないのに、男女を差別的に取り扱ったのは憲法14条の見地からも公序良俗に反する、ということで実質的に救済がなされたと言う訳です。 趣旨を取り込んで公序良俗を形成する、と考えるわけですから、当然反対側の利益に対しても、ある程度は配慮することが可能となります。 他にも、個別法の解釈においては、憲法の趣旨を取り込んだ解釈が行われることは決して珍しいことではありません。 競業避止義務などは、職業選択の自由との兼ね合いが問題になります。 刑事法とて、憲法の趣旨に合致するように解釈することが要請されています。名誉毀損に関する法理などは、表現の自由との鍔迫り合いの元で解釈が生まれてきたものです。(名誉毀損に関する判例の多くが刑法に限らず憲法判例となっています) 憲法の知識を法実務において使うことはほとんどないといってもよいと私は思います。(むしろ国会議員とか法制局の人たちの方が使うかも?)私の予備校の弁護士は何年も弁護士をやって憲法使ったことなんか一度もない、と言っていたこともありました。 しかし、憲法は司法試験に限らず、多数の資格試験で必要な知識とされているそうです。それは、憲法に関する知識というよりも「素養」が、日本における法解釈に関して、欠かすことの出来ない「素養」であることが大きな原因の一つではないか、と思われるのです。 憲法9条改正反対が66%とか、朝日新聞に書いてありました。 品性ある法律家は、今ある憲法を(たとえ改正した方がよいと思っていても)尊重しますが、憲法を改正することは、決していけないことではありません。そして、憲法が個々人に対しどうしろというための法律ではないこともまた然りです。 ただし、自分で憲法の精神を平気で踏み潰しておきながら、憲法による庇護を受け続けることほど傍から見ていて恥ずかしいものはありません。 憲法施行から61年、各人が憲法を知り、それを支持するかどうかを別にしてその考え方に深く思いを致すことを願ってやみません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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