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碁法の谷の庵にて

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2009年05月03日
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カテゴリ:法律いろいろ
このブログ発足から4回目の憲法記念日です。もうすぐここも5周年ですね。

憲法に絞った記事なんてもう書けないんじゃないかなぁ(いかんせん私の素養ではたかが知れているので)と思っていましたが、今年の憲法記念日は憲法25条関連の話題としようかと思うのであります。



憲法25条の文言はこうなっています。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


では、憲法25条の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するとは一体どういうことなのでしょうか。

いわゆる朝日訴訟(最大判昭和42年5月24日)という裁判があります。
最高裁の事実認定によると、この件では朝日茂さんと言う方が、生活保護が月に1500円(今と物価が違うことに注意)もらえたところ、家族からの仕送りが受けられることを理由に、月に900円に値下げ(正確に言うと、一部を打ち切って残ったのが900円)されたことについて、
「値下げは健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりない違法な措置である」
ということで処分を取り消せという訴訟を起こしたのです


最高裁判所は、訴訟中に朝日茂さんがなくなって、こういった生活保護を受ける権利は相続の対象にならないので、この裁判は終わりましたという判断をしたのですが、争点の重大さを慮ったのでしょう、念のためということで、生存権の性格について判断を示しました。

平たく言ってしまうとこのような感じです。
「憲法25条があるからと言って、国民がいくらもらえるというような具体的権利ができるわけではない。」
「憲法25条は生活保護法のような個別の法律によって権利となるし、その判断は憲法25条の在り方に従うべきだけれども、健康で文化的な最低限度の生活というのは抽象的すぎるもので、厚生大臣の幅広い裁量に任せざるを得ない。」

この判決を受け、憲法25条はプログラム規定、つまり国家が守るべき義務を宣言しただけに過ぎず、国民が憲法25条だけを根拠にもっと給付しろというような訴訟を起こすことはできない、というのが現段階では基本的理解と言うべきでしょう。
学説レベルでは、憲法25条1項、2項までとらえ方はかなり分かれていますが、それでも憲法25条だけを根拠に生活保護金を出すべきだ、というような理屈は採用しえない、というのが多数理解だと思われます。

無論、現在国は生活保護制度を運営していますし、それによって救われている人も多数いるのではないかと考えます。しかし、中には一時問題となった北九州方式(つまり、窓口つっかえし作戦)のように、セーフティネットを勝手にしまいこむ不届き者もいます。東京でも、弁護士がわざわざ出て行って受付けをさせるというような話もあると聞いています。
当然、これらは憲法など出てこなくても十分に違法と言えると考えますが、さて、現在においてこうしたセーフティネットに憲法が出てくる余地はない、と言うことがはてさてよいのかどうか。喫緊の課題ではないかもしれませんが、重要な検討課題と言うべきでしょう。



最後にちょっと法律論を離れて。

さて、ネット世論などを見ると、いわゆる派遣切りなどについて、生活困窮者に対して冷たい、もっと言うと攻撃的なことを言う人たちは大変多いように思えます。自己責任だ、というような論調ですね。
しかし、ここで一つ考えてほしいことは、こういう人たちに限って犯罪を前にすると、犯罪者は厳しく処罰すべきだ、犯罪はしっかり防ごうということを声高に叫ぶこと。(これには実感があります)

私に言わせれば、これらは両立しないことだということです。

市民革命が起こって、国家は入ってくるんじゃない、国家が出てこなければ市民は幸せになれる…というのが、初期の考え方でした。
しかし、市民革命の中心となったのは所詮はブルジョワ。多くの人は国家に出てきてもらわなければ生きていけないということが、結局悟られ、結局国家の介入を許すということで市民の権利を守るようになっていきました。

では、なぜその多くの人を守らなければならないのでしょうか。ただ単に惻隠や憐憫の情、慈善事業と同趣旨だと思っている方がいるかもしれませんし、それもないとは思わないのですが、それは全く一面的な見方だと思います。

第一に、現在ブルジョワでも、いったいいつ貧乏人に転落するかわからないということです。
そういうことを不安がっていては、市民は安心して働くこともできません。例えば冒険的な開発行為などもできなくなっていき、経済の活性化に重大な支障をきたします。
第二に、最良の社会政策が最良の刑事政策と言われるように、貧しい人間の中には食っていくために犯罪をしなければならなくなる者が出てきます。犯罪しなくても食っていけるだろ、と突っ込むことは不可能ではないでしょうし、現に多くのそういった方々は犯罪に手を染めていないわけですが、犯罪が起こってしまってから犯人を責めたところで、犯罪の被害は回復されず、彼らの「大好き」な被害者の権利のために何の役にも立ちません。また、仮に経済的貧困から自由になっても、精神的貧困は重大犯罪への糸口になりえてしまいます。私の院の師匠で、少年審判を長くやってきたベテラン刑事裁判官は、生活に全く問題なく家庭円満で問題ないところからそうそう少年犯罪者は出ないということを言っていました。
そして、処罰だけでは犯罪は防げないというのも、もう喉が枯れるくらいここで語ってきました。

国がこれ以上どうすべきなのか、ということを判断するには、私の手元にある情報は足りなすぎるでしょう。
しかし、派遣切りをはじめとする諸問題について、今幸いにもセーフティネットを使うことなく生きている人達にとっても、決して他人事ではない、自分がいつ落ちるかもわからないし、かつ自分は落ちなくても社会が危険になってしまうということを重々自覚すべきであると思います。





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最終更新日  2009年05月03日 13時10分19秒
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