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碁法の谷の庵にて

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2009年06月14日
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カテゴリ:囲碁~それ以外
少なくとも、彼がTBした内容は、そうとしか評しようのないものだった。


>「神様」という言葉を使っているのだから、非現実・仮定の話(極論)だと理解してほしいものだ。その極論を「宗教」と言ったり「芸術」と言ったりするのは、言葉を間違えている上に話の本質も捉えていない。

その通りである。これが仮定の話であることを今さら否定する気はない。
ぶっちゃけ、そこだけつまめば賛成ですらある・・・と前も書いた。


問題なのは、今この論争が、そういった非現実・仮定の論争を持ち出して何の役に立つのかという話である。哲学を論じたり、論理を考えるにあたって仮定の論争を持ち出すことに意味があることを否定する気は全くない。私自身常々使う。
しかし、神と神とで碁を打った時にどうなるという話が、「囲碁界の現実」は負けたら相手がだれであっても文句を言われてしまうということに何の関係があるのだろう?ということである。

全く関係ない。今回の問題は棋士の努力義務という現実的な問題なのである。
現在の刑罰をどうあるべきか考えるときに刑罰のない理想社会の話ばかりされているようなものである。
全く関係ないところに仮定の芸術論、神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう、現実社会について考える気のない人かということになってきてしまうのである。


むろん、比喩を比喩でないと誤認させたのは、私の落ち度かもしれない。
もっとも、例えば李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔であったとしても、現実には負けたら叩かれるのであるし、その意味で囲碁界の現実はこういうものだと示す趣旨は十分に示せているものと思うが。(たとえそうであったところで彼が神や悪魔だなんて認識できるはずがないのだから)
 出番の違うことになってそれは違うと言われたらマッチポンプなどと言われても、はい?の一言である。
 例え相手は碁の神だ、勝てなくて当たり前と達観できる人がいたとしても、そんな仙人みたいな人基準で囲碁界は運営できないのが現実であろう。


>「宗教家のような名前」と言われただけなのに、この発言はなんだろう。もしかして彼の中で宗教は「公序良俗に反すること」なのだろうか。

 少なくとも茶化されにゃならぬHNではないと言いたいだけである。
 風の精だからさっぱりした人間を想像してたけど実物見たら全然違ったと書かれたこともあったけど、そんなことで心から怒ることなどない。(ネタにして後輩にハッパをかけたことはありましたけど)



>「本当に強い人は自分の「無知」を知っている。」

 別に実際自分のレベルがどれくらいであるかを悟ることと、究極的な目標をどうするということは何らの矛盾もない。
 むろん、そのための中間目標を設定することはよくあることである。それが、タイトルを取るだったり、誰それに勝つだったりする。
 ヒカルの碁でも「碁の神様が自分の相手をさせるために人に碁をさせている」みたいな話はあったが、あれは彼にとってなんなのだろうか?碁が分かってない人たちがあのマンガを描いたというのであろうか。


 また、新幹線を光速にしようというのであれば無茶なことを、しかも意味がないということになるが、「宇宙船を光速にしよう」という目標であれば、意味があることと言えるだろう。(光速宇宙船ができれば、ケンタウルス座αやシリウスと言った星系を人類が探索することも可能となりえる)
 しかも、囲碁と違ってこちらには現実解がある保証がない。必死に探り探って「ありませんでした」と言う可能性と闘わなければならない。超光速に関していえば、解がないという保証が少なくとも現段階の科学ではある領域だ。

 しかし、囲碁には少なくとも「何らかの解がある」ことは明らかだ。だから、こんな目標を「究極として」設定することにもそれなりに意味があるのである。
 もっとも、さらに現実的な話を言えば、別に神様同然に碁が打てる必要まではなく、他の誰にでも勝てればよいのだけども。 


※追記※



>「尊厳」の辞書的な意味は「尊く、厳かなこと」である。当然有すべき価値ではなく、前に書いていた 尊重されるべき価値 の方が正しい。使っている本人の定義がブレてしまう言葉は使わない方がいいだろう。

残念ながら、個人の尊厳は憲法の最高価値である。
尊重すべき価値ということで訂正させていただきたい。

>囲碁ファンは「勝利の物語」「魅せる棋譜」を買う。

 そして、そのためには下まで買わなければいけない。
 勝利の物語や見せる棋譜だけつまみあげて買えばいいというほど囲碁は甘くない、それだけのこと。
 では、そこで下は無償で上にあずかって金だけもらうのか。そういうものではあるまい、といっているのである。

>「本因坊戦で4勝する」のは勤労ではない?

 ポカーンである。
 「義務という言葉はもっと重いものだ」と言ったから、精神的訓示程度にしか使われない義務の例として勤労の義務という言葉を出したのだ。しかも、納税の義務という言葉を使ったから、納税の義務と並ぶ勤労の義務を引き合いに出してこんなのでも義務だと言ったのである。
 勤労の義務は、当然憲法の条文に由来。その程度で義務とよばれるものも世の中には確かに存在するということの反証を掲げたら、途端にすれた反論が返ってくる。

 それでもって二言目には「碁が分かっていない。」
 彼の考えている碁がどうなのか、片鱗くらいは知っているが、彼の理解する碁と、今の社会で根付いている碁というのの違いをはっきり認識していないのではなかろうかと思えてならない。
 彼の大好きなコミ自由選択制が今どこの公式戦で採用されているのか、教えてもらいたいものだ。別にそれは彼の考える碁の本質が間違っているからとかそういう問題ではなく、現実がどうであるか。現実を前提に、どのように考えるべきなのか。私が論じたいのはそれだけだったのに、彼がいつしか碁の本質がどーたらこーたら議論を横合いからぶつけてきた。
 もちろん、私の現実分析がおかしいという批判なら、真摯に受け止めなければなるまい。
 だが、それをもって、私が碁が分かっていないと判断するのならば、もうそれで結構、ご勝手にしてくれである。現実の囲碁界を考えられない人たち相手にそんなことを言われても何の痛みも感じない。それはあたかも、わけのわからない宗教の人たちに「あなたの行為は神の教えに反する!」といきなり言われたのと同じ反応である。
 まあ、現実にどれほど碁(棋理)が分かっているかと言えば、小さい頃から積み上げた勘だけで打っている私などコンマの後に0がいくついるのか分かったものではない。
 
 

 >(プロの対局は)それ自体1文も生産しないという発言といい、芸術・娯楽分野に関する理解がなさすぎである。

 何度でもいう。
 碁に対して金を出すかどうかは人々が決めること。それはどんな芸術分野、スポーツ分野とて同じ。囲碁なんかに金を払わないと皆が考えれば結局捨てられる。それだけのことである。第一次、二次といった産業と異なり、なくたって困りはしない。

 誤解のないように言えば、囲碁というゲームは楽しいゲームだし深遠なものだと私は思う。
 だからといって子供のような芸術マンセー、囲碁マンセー論をぶち上げるだけの言説には、私は価値を見出さない(子供や初心者に普及するのとは違うのだから)。
 例えピカソの絵でさえ、価値を見出す人がいなければ破られ灰になってようが上から駄作な絵が描かれようが、いずれにせよ1円の価値にもならないのだ。





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最終更新日  2009年06月16日 03時39分38秒
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