カテゴリ:その他雑考
この記事への回答。 >ですが、その代償行為についてはどうなのでしょうか。たとえば、その手のフィクションを楽しむことでそうした欲求を解消する、とか、あるいはそういう契約(?)をできるお店に行くとかは、おそらく該当しない、とお考えのはず。「無責任で攻撃的な言論」の中にも、こうした代償行為に該当するものがあるのではないか、ということです。 代償行為の存在可能性自体は、私自身も認めるところです。 しかし、例えば「代償として負けた棋士は殺されても文句が言えない」と言ったら、マテやコラとなります。 当然これは極端な例えですが、「代償があるからと言って、正当化できる領域には限りがある」ということは、同意殺人罪とかを考えれば容易でしょうし(同意は代償と同視できるでしょう)、当然、ここまでは海原氏も同意しているように見えます。 >ルーラさんは、法律に違反していなくても(違反するおそれがないことが明らかでも)、代償行為ではなく「そういった欲求をそのままの形で表に出す」ものも存在する、とお考えなのでしょうか。 これも以前に話しましたが、表現の自由というのは、「めったなことで法的に抑え込めない」という恐ろしく厄介な性質を持っています。誤った言論であったとしても、言論の可能性を担保し、萎縮をさせないために、ある程度公権力は処罰や介入を控えなければならないというのは、憲法における表現の自由論の常識であると思われます。 つまり、表現活動において、法律に違反せず、取り締まりえない行為が、個人に対しての「不届きな加害行為」=「実はルール違反」となる恐れは、決して小さなものではないのです。その一例が、hide-w氏の「調べない!批判したい!」です。 そして、もう一つ、表現の自由への介入を公権力が「手控えてよい」理由は「誤った言論は、言論の自由市場において淘汰されるであろう」という期待があります。つまり、「私人からの手厳しい非難」は、言論の自由市場における淘汰作用の一環として、容認されるべきであるし、むしろそれがなければ、表現行為について公権力に介入を控えさせる理由が一つ失われてしまうと私は考えています。 また、囲碁界に関して言えば、代償というのは極めて包括的です。個別の相手に契約料を払い細かい所まで合意してというのではありません。そこにおいて、広い代償を認めることにも、問題があると判断します。 >次にこれと関連しますが、「否定されることだ」、の具体的意味についてです。これは、「そもそも存在自体を許すべきではない」ということなのか、「存在するのはいいとしても、適当ではないから批判はすべき」ということの、どちらなのでしょうか。これはかなり重要な問題だと思っています。 真実の探求という見地からすれば、「本来は」誤った言論の存在は許すべきではないと思います。 ただし、何が誤りかはあいにく人間にはわかりません。それなら、むしろ誤った言論だと思われるものでも積極的に出させて切磋琢磨の中でとなんとかしよういうことになり、それが表現の自由だと思います。そして、その自由を実効あらしめるためには、質の悪い言論でも保護する必要があります。 しかし、正当性に至るための行為をろくにせず、その上他人を侮辱する。調査不十分だよ、と言われても「調べない!批判したい!」つまり、「有害度はいや増しに高まる」一方で「誤っているおそれの高い、根拠に乏しい言論を、不誠実に垂れ流す」となると、私はそもそも「本来」存在自体許していいとは思えません。 そして、先述の通り表現の自由においては「法的に取り締まれないルール違反」という現象はあると思っています。正当性に至るための行為をろくにしない、その上他人を侮辱するのも、当然ケースによっては法的責任になりえる(刑法230条の2の有名な判例を想起していただければ)一方、当然これらに対しては「表現の自由」があるから一定程度受忍せよととられることがありえます。「対抗言論が可能だから軽い調査でも名誉棄損不成立」という東京地裁の刑事裁判例を思い出してもらってもよいでしょう(なお、この判決自体は高裁でひっくり返っていますが)。あるいは裁判に持ち込むこともできず泣き寝入りという事態があります。(刑事では起訴率が低く、民事では賠償額が低いため弁護士費用と手間で足が出かねない)。 そういった法の手が届かない所に対して、私人からこっぴどい批判が行き、そういうことを言うとは何事だと返されるのは、むしろ表現の自由という視点からすれば健全とさえいえる、と考えています。 そして、表現の自由というのは、言論の自由市場に表現を出す権利であり、ある意味では過酷な権利です。詳細後述。 >なぜなら、少なくとも法律上許容されている表現の自由を、私人が実質的に制限することになりかねないからです。 私はそうは思いません。表現の自由というのは、言ってみれば真剣勝負の格闘技でリングに上がる権利みたいなもので、ある意味では恐ろしく過酷なものです。表現の自由は、リングの上でぼこぼこにされない自由までは保障していません。経済活動の自由が、店を出して破産しない権利までは保障していないようなものです。 身の程もわきまえず真剣勝負の格闘技でリングに上がれば、当然相手の選手は身の程知らずの選手を容赦なく叩き潰します。では、その相手の行為は、格闘技への参入意欲を萎縮させる行動として否定的に評価されるべきものでしょうか。ただのレッスンならわかりませんが、真剣勝負である限り、それはないのではないかと思います。 囲碁にしても、私は例えばアマ名人戦などの囲碁の大会で初心者と当たったとしても、少なくとも対局中には手を抜きません。また、大会で90目以上(!)相手を負かした人を知っています。もちろん、私は彼に批判がましい感想は抱いていません。 これらを持って実質的制限だからと言ってしまっては、言論の自由の性質を変質させることになると思われます。憲法における自由というのは、実はとんでもなく「過酷な世界に身を投じる自由」だ、という点を認識していただきたいと思います。 >私は法律に違反しない限りは、「存在そのものが否定されるべき」とは考えません(もちろん個人的には消滅させたい言説もありますが、公的にはそうした振る舞いはしない、ということです)。 存在そのものを否定されるべき、と言っても現実に無理というのが私の発想です。 >ただ、望ましくないと私が考える状態を回避する必要が私にはあるから、そのための社会設計としてどんな方法があるか、ということを考えているわけです。 望ましくない状態を回避する現実的な方法は、少なくとも私には浮かびません。 ただ、誤った言説が幅を利かせ、それが正当なものと認知されてしまうことは、もっとも有害です。 そして、個別言論だけでは当否を判断できなくとも、多数の言説を総合してみると、この人は分かっているんだな、いや分かってないんだなというのが見えてくることは往々にしてあります。また、ろくに調べない人の発言に関しては、そもそも発言権を奪っておかなければならないということもあり得ると思っています。人がよく学んだ教授とか経験者ということで発言権を得るように、逆に奪われることも、あることでしょう。 >ここがポイントなのですが、私は結局のところ、「政治や司法について、法律に反しないけれども無責任な批判が出てくるのは望ましくない」というのは、所詮はあまり支持が得られないだろうと思っています。そのうえで、「あくまで私はそれはいいと思わないから」、そうならないようにしたい、と思っているだけです。 無責任な批判、特に激烈な非難が出てくるのを「あからさまに」容認することは意外と少ないと思われます。 少なくとも、無責任なことはよくない、ただ…ということになると考えます。
最終更新日
2009年07月20日 11時40分16秒
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