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碁法の谷の庵にて

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2010年07月15日
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カテゴリ:法律いろいろ
刑法各論、つまり刑法に定められている個別の罪(窃盗罪とか、殺人罪とか)について、どのような解釈をすべきか、という極めて大雑把な問題ですね。

 hidew氏がまた基本的思考方法を違えた論理を持ちだして、しまいには人を罵倒しています。
 調べない!(学ばない!読まない!)批判したい!の常習犯であるhidew氏のような人物でも言論の自由を享受できる日本の自由の素晴らしさと虚しさを感じるばかりですが。


 さて、ここで彼の思考回路の問題点「賭博の定義と賭博の偶然性を盛り込むのは筋が通らない」という言い分の基本的な錯誤(俺様論理、北朝鮮論理とも言えますが)を明らかにするために、刑法各論でもっているべき検討方法や思考回路について開陳しましょう。

 なお、これから書くことを知らなかったとしても、別に恥ずかしいことではありませんから、読まれる方は安心してください。
 知らないのに無知に基づいて他人を罵倒するから恥ずかしいのですね。


 刑法の指導原理の一つが、罪刑法定主義です。
 要するに、刑法に書いていない、刑法から予測不可能なことで処罰してはいけないということですね。逆に言えば、刑法を読んで、この行為が処罰の対象と理解することが可能かどうかという問題です。ちなみに罪刑法定主義は被告人の権利保障のためのシステムなので、無罪方向にしか働きません。
 なぜか、といえば、刑法には国家権力による恣意的な処罰の防止、さらには国民の予測可能性の確保と言う目的があるからです。刑罰が人権侵害を正当化するシステムである以上、人権擁護のシステムは欠かせないという訳ですね。

 他方で、罪刑法定主義を離れた、「結論として妥当なもの」を見定めることも考えなければいけません
 処罰すべき行為を処罰するのが法的利益の保護や社会秩序の維持と言う点から必要であることも、また言うまでもないことです。
 また、処罰如何は一義的に定められた方がよい、いくらなんでも条文上処罰しないのは無理と言う意味での解釈的な妥当性も、こちらに入ると言えるでしょう。もちろん、「罪刑法定主義違反ではないだろうが処罰されては困る行為を処罰するようになっては困る」という意味での解釈の妥当性の問題も出てきます。

 この「両者の要請がある」ということから、刑法各論の解釈は出発します。
 司法試験や諸々の論考等でも、刑法各論では、この2つの観点、つまり「罪刑法定主義に基づいた検討」と、「結論の妥当性の見地からの検討」双方がぜひとも必要です。片方に基づいてしか考えられない人は、永遠に司法試験の刑法で合格点を取ることはかなわない・・・というか厳しいようですが、法科大学院で単位を取ることもできないでしょう。(学部は分からないけど)



さて、この両者の優先順位はどうでしょうか。

もちろん前者の罪刑法定主義です。
そもそも後者の要請が大きくなりがちだからこそ、歯止めとして罪刑法定主義が人権上の要請として取り入れられているともいえるでしょう。

 私の愛用している大谷實教授の刑法各論の教科書(旧版ですが)から引用すると、

「刑法の解釈においても、目的論的解釈は不可欠なものであるが、法の目的をいかに認識するかは解釈者の価値観によって異なってくるのであり、目的論的解釈方法は、刑法の厳格解釈の要請に反する危険を伴う。それゆえ、何よりもまず、法文の言語的意味を客観的に認識し、形式論理の法則を可能な限り尊重することが要求される。次に、論理的な解釈の結果として複数の結論が導かれるときに初めて目的論的解釈を駆使して、一つの結論を選ぶべきである。

 一応後者の文章がメインのつもり。
 罪刑法定主義のためには、刑法を厳格解釈することが必要です。人を殺した者は・・・に、例えば胎児を含ませてはいけません。(胎児には堕胎罪という罪が別にある)
 ある目的のためにこう解釈する(目的論的解釈)、というのは、厳格解釈の要請、ひいては罪刑法定主義に反する危険(有罪方向に解釈する場合)を伴います。だからこそ、法文の意味を認識して、形式的な判断(言葉の意味や、論理に忠実な判断)を尊重することが必要だろう、という訳ですね。

 そして、この操作をしても、いくつもの結論があります。どれにしましょう?というときにはじめて実質的に処罰が妥当(不当)だ、という理屈を持って来い、という訳です。

 もちろん、現実の思考過程としては、結論の妥当性の要請が先にあることも否定できません。ぱっと読む限りでは罪刑法定主義違反臭いけど、処罰の妥当性を考えれば、なんとか「罪刑法定主義に反しない」と理屈をつけられないか、という問題意識から形成されている法解釈はいくらもあるのです。
 また、条文を読めば簡単にどっちにでもなることが分かるので、事実上罪刑法定主義の方の検討を省略しても問題ない場合は少なくないでしょう。
 しかし、例え現実の思考過程がそうであったとしても、「罪刑法定主義には反していない、更に実質的に妥当な解釈はどれか」という思考過程に戻して考えたらおかしくなるようでは、刑法各論の解釈が成り立たないのです。


 例えばhidew氏がごねている賭け碁の問題であれば、賭博とは「偶然の勝敗(輸贏、ゆえい)に財物を出して博戯または賭博をすること」と定義されています(大判昭10・3・2。)。
 では、その偶然とは何か。
 偶然という言葉からは、ちょっとでも偶然ならばいいのか、完璧な偶然でなければだめなのか、はたまた中間的なものなのかという問題があります。「偶然」という字面だけみれば、どれでもいい・・・と言えますよね。どれだって一応は偶然です。
 ここで罪刑法定主義はクリアされていますから、第一段階は終了、第二段階の妥当な結論はどれだろう?という検討に入ります。
 ここで、どれにしようと考えた時、偶然の程度を図るのは困難なのに、偶然の程度がどれくらいと設定してあてはめるのは訴訟上も難しいし、実質的な処罰の妥当性がその偶然の程度によって変わるものではないだろう、ということで「ちょっとでも偶然なら有罪」という結論を導いて、かなりの実力差のある賭け碁も有罪、ということになるのが、日本の判例学説の多数の考え方だ、という訳です。


 では、賭博詐欺(丁と言えば半が出て、半と言えば丁が出るという細工をしていた胴元必勝の場合)はどうでしょうか。
 偶然という言葉には、勝敗が予め分かっている「必然」はどうしたって含みようがありません。厳密に言えば、本人は偶然だと思い込んでいますが、例えば、「人を殺した者は殺人罪」と書いてあるときに「自分は人を殺したと思いこんでいれば殺人罪」なんて話はありませんよね。実を言えば賭博詐欺の被害も賭博という説もあったようですが、判例が採用したことは一度もないし、現状ではそのような説は完全に捨てられ、罪刑法定主義違反というのが通説になっています。
 従って、賭博詐欺をした場合、はめた方もはめられた方も賭博にはならないのです。
 ・・・ここで検討は終了して全く問題ないのです。この先は、サッカーのPK戦3本目までけって3-0なのに更にその先2本を両チームに蹴らせるようなものですね。
 もちろん、仮定的に無問題だとすれば、本人が賭けるという認識の下で行為をしているという意味で反社会性は変わらないとか(賭博詐欺が賭博罪だという解釈はこういう本人の内心面を相当重視する刑法解釈論の学者が展開していたようです)、社交的な行為で反社会性はある意味普通の賭博よりひどいとかいろいろ言えますが、既に結論は出ている以上全く意味がないのです。


 賭け碁が偶然であると言えなければ賭博罪は成立させてはいけない。
 偶然であると言えて、さてどの偶然を採用するかとなったら、少しでも偶然の要素があればいい。

 とまあこんな風に、二つの観点を持って考えなければ、法律家の解答としてはダメだ、という訳ですね。
 
 この法律家として最も基本に属する思考回路にその段階から文句をつけなければ気が済まないのが、ミスター「学ばない!(俺様理論で)批判したい!」のhidew氏です。
 両者はカレーとみそ汁などという意味不明なものではなく、もりそばにおける麺とつゆ位の関係だと言ってよいでしょう。麺なくしてはもりそばと言えない(罪刑法定主義)一方、汁なしでは美味しくなりません(結論の妥当性)。
 もりそば屋に両方一緒に出すのはおかしい!どっちか片方だけ出さないのは偽りありだ!俺様哲学では麺だけ出すのがもりそば屋だ!なんていうのは、クレーマーのやることですよね。



 最後に。
 実を言えば、大学一年の時に私が刑法の教授にぶつけてみた意見(囲碁は完全に実力であるという説という点でね)とhidew氏の「碁は実力」という意見はそっくりですね(責任という言い方ですが、まあ実力ということでしょう。選択に責任があるのはサイコロ賭博だって同じですからね)。囲碁は実力なんじゃないか、実力で全部決まるんじゃないか、という個人的な哲学をぶつけてみたことはあります。法科大学院でもどうなんでしょうねぇ、と教授と語ったら教授の方が乗ってきたこともありました(笑)。
 しかし、いずれにしても「僅かでも偶然であればよい」と言われてしまうと、それまで、というのが今の私の認識です。「運も実力のうち」と言い出したら結局この世に賭博は存在しないということになって何のための賭博罪なのかということになります。
 まして、hidew氏が主張するコミ自由選択制が現実にほとんど採られていない以上、開始から優劣がついていることになりますから、なおのこと。(個人的にはそれ以前の問題だと思いますが、予防線としてね)
 また、人によって、タイミングによって勝敗が入れ替わったりするようでは、全てを実力、偶然の要素なんて一欠片も絡まないとみなすことは無理です。
 法律家の内なる論理で固めるのが問題、法律家は誤りを認めない、というのなら、囲碁好きが誤りを認めない可能性もある、ということに思いが至らない人は…少ないことを祈ると致しましょう。





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最終更新日  2010年07月16日 00時31分42秒
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