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碁法の谷の庵にて

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2011年01月27日
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テーマ:ニュース(99457)
 この文章は、死刑存置論の全てを腐すものではなく、インターネット上に存在する、あまりにも情けない死刑存置論者に対して警鐘を鳴らすものであることを始めにお断りしておきます。 死刑存置論者であることのみを理由とした批判はしておりません。


 先日、死刑制度について、江田五月法務大臣が就任後、存廃も含めて検討していくということを述べ、その際には死刑は欠陥のある制度とも述べました(後に撤回して「悩ましい制度」としていますが)。
 因みに江田法務大臣は裁判官の経験もあり、少年法がらみで国会答弁した私の師匠が「よく分かってる質問をしてくる」等と評価していたのを聞いていたりしています。

 この発言については、死刑制度が本当に必要であるなら、仮に論議した所でなくなったりはしないだろうし、多分そうなるだろうな位に構えていました。
 ネットの死刑存置論者はまた死刑の執行を拒否する気だ!!違法だ!と大騒ぎしていましたが、江田氏の発言を見る限り、執行指揮には慎重になるようではあるものの、執行しないなどとは全く言っていませんでした。
 法務大臣が死刑の執行をゴーサインすることは、死刑という取り返しのつかない刑罰の前に恩赦(恩赦の管轄は法務省)や再審の可能性を検討する(法務大臣は再審請求権者としての検察を指揮できる)という視点からも意味があり、法務大臣が審査をすることも当然予定されていると考えるので、またずれてるな・・・と感じていました。
 でも、その時は、また死刑存置論者が騒いでいるよ…困ったものだな位に捕らえていました。



 そうしたら、今日のニュースに対するネット住民のコメントには呆れかえって、同時に危機感を感じ、この文章にしました。

 今日のニュースは冤罪事件の可能性が特に高い事件として有名な袴田事件で、日弁連が袴田死刑囚の心神喪失を理由に、死刑の執行停止を勧告したとのこと。
 実際心神喪失と言えるのかは死刑囚と会ったこともなく精神医学の専門家でもない私にはわかりませんが、心神喪失だから止めよ、というのは法的な主張として見れば至極全うなものです。

 犯罪時に心神喪失になった場合には、刑法39条1項で無罪になり、事件が重大な場合には心神喪失者等医療観察法によって処置されます。
 裁判時に心神喪失になった場合には、刑事訴訟法314条で裁判が停止されます。(心神喪失が治る見込みがない場合、裁判は打ち切りになります)
 裁判で死刑判決を受けても、未執行のうちに心神喪失に陥った場合には法務大臣が指揮して刑の執行を停止することが法律上明記されています。(刑事訴訟法479条1項)
 つまり、心神喪失なのに刑を執行する、或いは法務大臣が死刑の執行を停止しないことは、「違法」な訳です。

 のみならず、先述の通り袴田事件は冤罪の可能性が強く取りざたされており、法務大臣としても特に慎重な審査が必要になることは言うまでもありません。
 執行した後に冤罪が発覚するようなことになれば、法務大臣の政治責任も免れ得ません。
 もちろんまだ再審請求の段階である以上、一応の司法手続の結果を尊重する、という姿勢は十分ありだと思います(というか冤罪が主張されている事件では、基本的には私はそういうスタンスです)が、審査を慎重にすべき要請があることはいささかも揺らがないでしょう。


 しかし、ネット上のコメントには、そんな事はどこ吹く風とばかりに、さっさと執行しろ、だの、心神喪失は関係ないだの、日弁連は弁護屋、だのと言う性質のものが多かったです。
 江田法務大臣のときに法律を守って死刑執行しろとか言ってた人が多かったのに、こっちになると法律を無視して心神喪失無関係、と騒いでいる人が・・・言っていることは全く矛盾しているにもかかわらず、両者が同一人物である可能性を強く感じるのは、私のゲスの勘繰りでしょうか?そうであることを心から祈りたいところです。


 流石に袴田事件の冤罪の可能性は知っている人も多かったようで、さっさと執行すべきだと言う説に対しては、死刑存置論の立場からも応戦を仕掛けている人も多かったのが救いですが


 今後、死刑制度の在り方を巡って論議するときに、恐ろしいのはこのような死刑存置論が多数であると思われることです。
 死刑制度に対する議論状況を巡ると、死刑制度の最大のネックとなっているのが冤罪の可能性である、と言えるでしょう。「死刑廃止論」で有名な前最高裁判事、団藤重光氏や亀井静香氏も冤罪の可能性が決め手と書いていたと記憶しています。
 死刑制度について少しでも真面目に考える気があるなら、過去に死刑再審無罪となった事件があることや、今でもそれを巡ってかなり有力に争われている裁判があることは、当然に知っていなければならないでしょう。私は大学1年の時(9年前)に死刑制度を巡って割と長いレポートを書いたことがあるのでまあまあをつければ知識がある方ですが、この程度は中学生のディベート大会レベルでも、抑えてある知識と言って差し支えないでしょう。
 こうした前提となるべき知識を欠いたまま、感情の赴くままに死刑の執行を叫ぶ人間が多数であることは、品性とか道徳以前に死刑制度そのものを危うくすると感じています。


 死刑制度は国民個々人の権利、それも生命に深くかかわる問題ですから、国民の意見の反映にも限度があります。
 もしそこで、その国民の意見とやらが、全くの事実誤認、無知無学による思いこみの塊によって形成されているものだったとしたら、あるいはそう思われたらどうでしょうか。
 フランスでは国民世論の多数派の反対を押し切って死刑が廃止され、ついには死刑が憲法上禁止されるに至りました。

 また、死刑制度に対する死刑廃止論者の批判には、「死刑制度があることで「殺してもいい生命」を国家が設定することとなり、生命軽視につながる」というものもあったと記憶しています。
 個人的には、「そう言う側面もないことはないだろうけど、その他の効果の方が相対的に見れば大きいだろう」くらいにとらえています。しかし、基礎的知識に属することを知らず、「知識ない!調べない!批判したい!」で死刑制度における最も厄介な問題から逃げ、目をそむけ続ける姿勢は上記の批判の説得力をどんどん増してくるでしょう。

 本当に死刑制度が必要であると考えるなら、必要なのは脊髄反射のコメントを書き連ねることではなく、勉強し、死刑制度に存在する問題点から逃げずに立ち向かうことでしょう。(廃止論者もこれは同じ)
 





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最終更新日  2011年01月27日 21時49分49秒
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