碁法の谷の庵にて

2019/04/17(水)17:39

裁判所が鑑定に従わないのは悪いのか?

名古屋地裁岡崎支部での性犯罪無罪判決に対する批判に,こういうものがあります。 「医師は被害者が抗拒不能の鑑定を出していた。裁判所が抗拒可能であるかのように認定し直すのはおかしい」  くどいようですが,当該事件について,私は判決文を読んでいません。  当該判決の支持不支持についてはここでは論じません。  ただ、判決に対する批判意見の傾向の中に、刑事裁判の事実認定・法的評価の在り方の考え方に対して理解がないのかな?と思われるものを多数見つけたので、それを指摘させていただきます。    報じられている限り,抗拒可能・不能は法的評価であり,裁判官の専権判断に属する事項であると判示したとされています。  報じられている当該判決文のこの指摘については,私の立場からしても「まあ,そうなるな」というところです。  実際にこの判示がある場合最高裁までこの事件が上がってもこの指摘自体の正当性は維持されると見ていいと考えます。(なお,この指摘を誤りとする場合,責任能力などに関する裁判実務に大きな変更を迫る重大判例となる可能性が高いと思われます)  「性犯罪の被害者が被害に遭った当時、心理的な抗拒不能(刑法178条)にあたったのか」が争点になり,その点について鑑定医がついたと仮定しましょう。  「縛り上げられたとか気絶させられたなどの理由で物理的に抗拒も何もできない」ケースではなく、被害者の陥った心理の中で抵抗できただろうか、と言う問題を評価することになります。  抗拒不能かどうか,つまり「抗拒するための心理的なハードルが高すぎて被害者に越えられない状態になっていたかどうか」ということです。  被害者支援側が出している様々な性犯罪の知見も、被害者のおかれた心理から抗拒可能と言えるのかを問題にしている場合が多いように思います。  そして,この抗拒不能だったかどうかを考えるにあたっては,大雑把に二段階を踏まえる必要があります。  まず第一段階は 「被害者のおかれた、抗拒するための心理的なハードルがどんなものだったのかを考える」 です。  被害者がどんな心理状況に陥っていたか。 恐怖。呆然。諦め。逃避。気絶。その他。複合。 何らかの病気・気質・知能水準・周囲の環境などが影響していなかったか。  ハードルがどんなものかを考えるにあたっては,こうした知識や当事者を鑑定した結果が必要になる場合が多いでしょう。 第二段階は 「第一段階で明らかになったハードルを飛び越えることが可能か」 です。  例えば体育でハードルをジャンプで越えられるか、と言う問題であれば、ハードルを準備して治験者に「飛んでみて」と言うことも考えられるでしょう。  ところが、「犯行当時の心理状況からしてハードルを越えられたかどうか」と言う点については,再現実験は不可能です。事前に心の準備ができているかどうかでも大幅な差異が生じえますし,ことに被害者の方への鑑定を行う場合、本当に再現しようとすれば文字通りのセカンドレイプになってしまうでしょう。  そこで、ハードルを設定した後可能だったか不可能だったか、と言う点については,結局のところ思弁的に判断せざるをえないことになります。  この第1段階と第2段階を踏まえた上で、関係者の精神状況は判断されることになります。  そして,関係者の心理状況を鑑定医を連れてきて鑑定する場合、鑑定医に求められるのは「第1段階におけるハードルの設定の補助」と言うのが、今の裁判所の基本的な考え方なのです。  第2段階「ハードル飛べますか?」と言う点については,裁判所は「鑑定医には聞いていない」あるいは「聞いたとしても参考意見」です。  実際に飛べるかどうかは法律判断である以上,こうした鑑定には拘束されない,仮に鑑定医が意見を言ったとしても、それは裁判における検察官の論告や弁護人の弁論と同様,単なる意見の域を出るものではないのです。  もちろん,この裁判所の「このハードル飛べるか?」の評価が間違っている可能性は十分あります。あるいは,仮に評価自体は合っていたとしても,判決理由に十分な理由が書かれておらず,全く説得力を欠く判決と言う可能性もあるでしょう。  しかし,「医者がこう言っているからそれに従います」と言ったら、現在の裁判所の基本的な考え方からすれば,むしろその方が不当判決です。  検察官が懲役2年と求刑したから判決は2年にしました、なんて判決で言い渡す裁判官はど阿呆でしょう。検察官の求刑を参考にしたにせよ,裁判官が裁判官なりの判断で2年と言う求刑を支持できるからこそ2年の判決を言い渡したはずです。  裁判官が結論として鑑定を支持するにしても、裁判官なりの判断で「抗拒不能」と言わなければいけないのです。  今回は被害者の方の心理についての鑑定のようですが,実は加害者側の刑事責任能力(心神耗弱・心神喪失)も同じ考え方が使われています。  というより,私の上記の見解は責任能力に関する裁判所の考え方を被害者の心理鑑定に横滑りさせたものです。  例えば刑事責任能力について,精神鑑定を行った医師が「心神喪失」「心神耗弱」などの見解を出すケースもありまず。  しかし,裁判所はこうした見解に対して,一貫して「心神喪失や心神耗弱はあくまでも裁判所が判断する」「医者が心神喪失・耗弱について意見を言ったとしても、それは単なる意見に過ぎない」という見解を崩していません。  医者が意見を言ったとしても裁判所はその判断を無視できるという事になります。心神喪失や耗弱の鑑定が出たのに,裁判所が事実を前提に評価し直した結果,責任能力は完全にあると判断されている事例も,特に珍しい話ではありません。  私が弁護士になって初めて扱った刑事事件は、検察が鑑定を依頼した医師が心神喪失の鑑定を出していましたが,検察官は完全責任能力の意見を同時に出し,裁判所も心神喪失は難しいだろうと言う心証を抱いていました。  少年事件で責任能力の有無が処分直結とまでは言えない件だった(だから裁判所の心証も分かった)ので、その辺りについては無理に結論を出させず、医療につなげる形で保護観察に持って行ったので,まあ事なきを得たと言った所でしたが…。  その後も精神鑑定の絡む件を何度か扱いましたが,私の知るここ3・4年は検察が精神鑑定する場合も責任能力の有無についての結論を書いていません。7年くらい前は書いていたので、運用が変わった可能性もありそうです。  裁判員制度で責任能力判断をする裁判員が医者の意見に引きずられないようにと言う配慮だと思われます。  もちろんこれは私の体験した運用であり,今回の件は責任能力そのものの判断ではないこと,ある程度裁判官・場合によっては検察官によってこの辺の指揮については個性が生じる可能性があることからしても,本件の鑑定医が頼まれてもいない「不能・可能」の意見を勝手に書いたのか,求められて意見を書いたのかは定かではないと言わざるを得ませんし,もしかすると判決文を読んでも分からないかもしれません。  それでも,鑑定意見に裁判所が拘束されるべきでないことについては正論と言うのが、私の答えであり,単に「鑑定医の鑑定に反対したからおかしい」と言う指摘だけでは到底説得力がないものと言わざるを得ません。  「鑑定医の抗拒不能に反したからおかしい」ではなく,「医者の「抗拒不能」に関係なく単純にその評価はおかしい」と攻めるのが現在の制度からは正しい批判であると考えます。

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