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碁法の谷の庵にて

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社明運動記念特集

2008年12月30日
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カテゴリ:社明運動記念特集
犯罪者を刑務所に入れず、社会奉仕の形で社会復帰させるという制度が、法制審で意見がまとまったとのこと。

詰めるべき課題がたくさんある(どのような社会奉仕をさせるべきか、裁判所がどのように絡むか、などなど)のは言うまでもないですが、この流れは私は評価したいと考えています。
社会奉仕命令の中には、老人介護や地域のゴミ拾いもあるとのこと。地域清掃が、ゴミを捨てるという不法な行為の被害者的な地位を体験させるものとして、自然観察や祭りの参加などといったイベントよりも非行防止に効果があったという話は、以前にもしました

刑罰は、確かに科した方が世間一般としてはスカッとし、また安心することができるものでしょう。それも立派な刑罰の一つの機能であり、少なくともそれ自体を否定すべきものはありません。
しかし、刑罰、しかも厳罰化の方向ばかりが刑事政策の論争として先行する昨今、もっといい方法はないのかというのは考えられてしかるべきところでしょう。体にメスを入れて手術することを追求するよりも、軽い薬を使って健康体になれるのであれば、そっちを検討するのが合理的です。
被害者のいる犯罪では多少難しい部分があるかもしれませんが、被害者のいない犯罪(覚せい剤自己使用や交通違反、あるいは被害者が宥恕の意思を示している犯罪でも)ではうまく使える可能性があると思います。


もう何度書いたか分かりませんが、今の日本の刑罰法体系において、犯罪者を社会から消してしまうことのできる刑罰は死刑か無期懲役しかないのです。無論、無期懲役以上を使える犯罪は殺人・放火などと言った重大な犯罪の、しかもお世辞にも情状のよくないばかりです。多少なら広げようという立論は説得力があるかもしれませんが、コソ泥や覚せい剤の使用・組織的でない密売を相手に無期懲役と言ったあり方では、現在の中国の人権状況を非難することはできなくなるでしょう。
そうすると、犯罪者は社会復帰することがほとんどの犯罪で前提となります。

そして、刑務所経由の社会復帰がうまくいっているかと言えば答えはノーです。
服役は確かに苦しいものですが、長期間服役してしまえば人間は慣れてしまいます。
そして、刑務所の雑居房で悪い仲間と交際して、出来心犯罪者が職業犯罪者になってしまう・・・というのもよくある話です。
刑務所に行かなければ仕事があり、間人間でいられた人間も、刑務所に一旦はいったら仕事は確実にクビとなり、元犯罪者となれば再就職も困難になり…貧困が犯罪を生む、最良の社会政策こそ最良の刑事政策というのは刑事政策の常識です。

そう考えると、刑務所に叩き込まないで、社会内で更生させるというのは、ケースによっては刑務所に行くよりも優れた処方箋になりえるという訳です。大手術をして消耗させるよりも、軽い薬を使って体力を維持しつつ健康体を維持しようというもんのすごく合理的な発想な訳です。



・・・と、私がこのブログで吼えた回数は2ケタ近く、光市事件でアクセスが4桁くらいになったころにまでうるせえってくらい言ってましたが、私ごときがいくら吼えていても、なかなか広くは伝わっていかないものですね。

現在はそのようなあり方のために使われるのは執行猶予や罰金刑です。
しかし、執行猶予はあんまりきめ細やかではありません。執行猶予による更生は、無論弁護士がアドバイスをする例はあるにしても、基本的には本人の自覚に任されているのが実情です。また、保護観察付きの執行猶予と言うのもありますが、実務上あんまり使われていないようです。
罰金刑に至ってはその後社会で真人間になるというインセンティブがありません。真面目な人間なら、たとえ罰金でも俺は刑罰を受けるようなことをしてしまったんだという自覚を持ってくれるでしょうが、罰金刑は人によってはまるで痛みが伴わないことから、必ずしも効果があるとは限りません。


社会とのつながりを維持しつつ、一定程度肉体的苦しみを与える社会奉仕命令制度は、日本の刑事政策をよりきめ細やかにし、犯罪を本当の意味で抑止させる試みとして注目しています。
同時に、受け皿となる社会の方々は、温かい目で彼らを見守ってあげて欲しいと思います。別に偽善臭いヒューマニズムを言いたいのではなく、それが犯罪を防ぐために効果的な方法だということです。

あなたは、将来犯罪が起こっても、犯人を厳罰に処しますか?
処罰を少し緩めて、犯罪を抑えられるとするなら、それを飲みますか?







最終更新日  2008年12月30日 19時17分41秒
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2008年07月31日
カテゴリ:社明運動記念特集
社会を明るくする運動の強化月間も今日で最終日です・・・しかし、未だに反応なし。TBが百花繚乱にやってくる・・・などとはさすがに想定していなかったけど、完全な無反応ってのは…無反応であることについて思うこともあるのですが、それは後日「大法原」の方に。
ちなみに、標語を募集していたので、一つだけ作って法務省に送ってみました。何かの間違いで入選したらここで公表しようかと思います。
そういえば、福島で仮出所者のための施設が地元で反対運動にあっているようです。事前の周知徹底という意味で行政側にも小さくない落ち度があったようですが・・・


さて、今日は社会を明るくする運動と被害者問題についての関連を話したいと思います。私が大学院で元裁判官の師匠から一つ大切なことだと教わった刑事政策観の一つであります。(もちろん、教わるという過程を経て私の脳内で変質している可能性はあります)というか、大学院で一番身につけたのはそういう認識かもしれないな、と思ったり。なにやってるんでしょうかね。


「おかえり」

という言葉に代表されるように、社会を明るくする運動はいったん罪を犯した人たちの社会復帰を一つの大切な目標にしています。もちろん、これは地域の目を強化して非行の芽を摘もうというような犯罪を防ぐべき運動の一つにすぎません。その意味で、この運動が「被害者を生まない」ものであるということは、以前も指摘いたしました。

では、一旦罪が犯されたとして、「その」被害者は、「犯罪者の社会復帰と言う視点において」どうでもよい存在なのでしょうか。

それはノーである、というのが今日の話です。


犯罪者が社会復帰するに際して、最大の問題は犯罪者であるということそれ自体に伴う偏見、というよりは社会の側に存在する拒絶反応です。そうした拒絶反応は行き過ぎれば再度の犯罪とて生む…というのも、これまで指摘したとおりです。ちなみに、私が作った標語もそうした拒絶反応に関してつくったものです。

そして、社会の側が被害者に同情し、そこに拒絶反応が大きくなる現象がどうしても存在します。その「行き過ぎ」は私自身かねがね批判してきましたが、現実として存在することは否定できませんし、またそのような感情が全面的に否定されるべきではないのも当然です。それ自体、社会の側の犯罪に対する免疫反応の原動力と呼ぶべきものであるでしょう。
では、その免疫反応を和らげ、犯罪者を改めて社会に迎え入れるためには何が必要でしょうか。社会と犯罪者、場合によっては双方に努力を説くことや、彼も普通の人間であり簡単に再犯しないというお題目を説くのもそれ自体は必要だと思いますが、「それだけ」では何の解決にもならないと思います。いかに理屈を説いたところで、免疫反応は自然なものであって簡単に制御したりできるものではないからです。


それを促進するために必要なのが、彼が社会から受ける「赦し」であると思われるのです。彼はこれだけの罪をしたかもしれないが、これだけの苦痛を受けたんだから、これだけの償いをしたのだから、もういいだろうという心、「おかえり」と言って迎え入れられる心を市民が抱けるようになることが大切なのではないか、ということです。
無論、これは理想論にすぎません。現実問題としてそれがなされているとは言えず、黙っていたほうが社会に戻れるという悲しい現実があるからこそ、例えば少年犯罪であれば実名報道は禁止されます。ある意味では臭いものにはふたと形容すべき発想ですが、それが最も平和だ、ということにならざるをえないのです。


さて、ここで大切なのが被害者の存在です。
被害者を置き去りにして社会との関係を修復する・・・というのは、極めて厳しい相談であろうと思います。被害者に存在する一定の属性などによって被害者より社会との関係修復が先になってしまうという可能性自体はあると思いますが、被害者の側から率先して許しを得られるようになれば、それに越したことはありません。それによって社会の側もこぶしを振り上げる理由を失い、また被害者自身が許すならば社会の側の方がより許しを得やすいと考えられます。


ちょっと話題がずれますが、近年刑事法において注目されている新たな考え方に、「修復的司法」というものがあります。私の学部時代の刑法の師匠の一人が日本におけるこの考え方の第一人者で、多少なりとも話を聞いています。
修復的司法と言うのは、犯罪と言うのを犯罪者・被害者・社会との間でのコミュニティ破壊活動ととらえます。その上で、刑事司法の枠組みを旧来のように罪に対する応報ととらえるのではなく、犯罪者・被害者・社会との間でコミュニティを元に戻す(法的平和の回復)ためになされるものと理解します。
無論、犯罪が破壊活動である以上、彼らの間で再度コミュニティを築き上げるのは至難の業です。よほどうまくやらなければ、かえってコミュニティの破壊を促進してしまう危険さえもはらんでいることは、十分に理解しておかなければならないでしょう。



犯罪を起こさせないためには、こうした視点が不可欠なのです。






最終更新日  2008年07月31日 18時21分49秒
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2008年07月11日
カテゴリ:社明運動記念特集

社明運動記念記事ということで、話題に「恩赦」と「仮釈放」を採用しました。

両者とも、裁判所で言い渡された刑罰を一定程度行政が軽い方向に変更する制度ですね。


恩赦は、日本国憲法においてもその存在が認められている制度(憲法73条7号参照)です。伝統的には、国家的な慶事や祈願事などがあった場合に、犯罪者の刑を許す、なんて例がありますね。
平家物語を覚えている人たちは、鹿ケ谷陰謀事件で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼が中宮の安産祈願で恩赦を出され許された(許されなかったのは俊寛僧都)ことを思い出してみてください。


 恩赦や仮釈放は、刑罰を行政権(憲法上、恩赦権は内閣など行政権にある)が軽い方向にのみいじる制度です。ある意味では司法権の例外ともいえます。法でがんじがらめな司法権が噛んでおらず、しかも軽くすること限定であるという分、ある意味では鷹揚になしうるという意味もあります。

また、これらの制度には、いくつかのメリットがあります。
服役の長期化による過剰収容や社会復帰阻害の防止。
受刑者へのインセンティブによる所内の秩序の維持や更生意欲のかきたて。

こういった刑事政策的な機能は、決して無視できません。

また、昨年は、執行猶予を罪を犯したとして取り消されたが、最終的にその罪が無罪になった男性について、執行猶予の取り消しを取り消すことができないため、特赦によって解決した事件もありました。



恩赦には、大きく分けると5つあります。

大赦:ある種類の罪(政令で定める)を犯した者に対して、有罪判決の効力を失わせる(ただし、それまでに与えた刑罰は有効で刑事補償などの対象にはならない、特赦などでも同じ)ものです。つまり、自動的に無罪放免となります。また、そうした罪の裁判の最中だった場合には裁判が終わってしまうことになります。
例えば、時代の変化などによってある罪が犯罪とすべきでないとされた場合などには従来処罰された人間をそのまま処罰し続けるのは適当でない場合があります。その場合などに、一律に処罰から外す場合などにはなかなか有用でしょう。

特赦:有罪判決を受けた特定の個人に対して、有罪判決の効力を失わせる。これも自動的に放免ということになります。有罪判決が前提という性質上、裁判の最中に特赦が下りるということがありません。
一例として、冤罪が疑われるにもかかわらず再審ができない場合(例え検察官が再審請求する場合でも、再審のハードルの高さは変わりません)や、大赦のように一般的に犯罪にしないという訳にはいかないけど、彼個人の罪の中身は許してやってもいい、という場合などに有用であると思います。
後述するように、無期懲役囚は仮釈放されますが、あくまでも仮釈放で受刑者であり、何かしでかせば速攻で刑務所戻りになりえます。無期懲役囚がそのような身分から解放されるには、特赦を用います。
※西宮氏から、特赦ではなく執行免除を用いるというご指摘がありました。ご指摘感謝いたします。


減刑:文字通り、有罪判決を受けた人間がいる場合に、有罪判決はキープするのですが、その刑を減らしてしまいます。
やり方は大赦式に一般的に行う場合と、特赦式に個人で行う場合があります。

刑の執行免除:有罪判決を受けた場合であっても、有罪判決はやはりキープされるのですが、刑の執行を受けなくなる、というものです。懲役5年で執行免除を受ければ、彼は懲役5年の判決を受けた人間でありながら街中を堂々と歩ける、という現象が発生するという訳です。
罪は罪であるし、そのことは動かせないけど、その執行は勘弁してあげようか、という場合などに有効だと思われます。例えば、親の死に目にくらいは温情で会わせようかという場合などに有効だと思います。

復権:刑罰以外でも、有罪判決に伴って一定の不利益が発生することがあります。
公職選挙法上の連座制や、公務員の資格などの停止がその一例ですが、それらの制限を取り払ってしまうのが復権です。


大赦や一般的減刑などをする場合には、政令ですから内閣がその内容を決定します。
特赦や個別の減刑をする場合においては、中央更生保護審査会が決定することになります。

※西宮氏から、中央更生保護審査会は決定権者ではなく(事実上決定しているけども)最終決定権は内閣にある旨の指摘がありました。ご指摘感謝いたします。

中央更生保護審査会が審査するには、刑務所長などの上申を受けますが、恩赦を希望する本人が申し出る場合は、意見を付けて刑務所長などが中央更生保護審査会に上申することになっているそうです。
再審の望みがない死刑囚などは、最後の希望を特赦や特赦型の減刑に託すことになります。




では、これらに対して、仮釈放とは何でしょうか。

仮釈放は、恩赦や特赦のように、有罪判決や刑罰をなしにしてしまう制度ではありません。仮釈放は、懲役や禁錮に限定して、有罪判決を受けて刑を受ける人間という地位を維持したまま、身柄を解き放つ制度です。
また、拘留や罰金が納められないで労役場に叩き込まれた人については、「仮出場」という形で同様の制度があります。

仮釈放は司法の判決をいじることだ…という批判をする人がいそうなので念のため反論しておけば、刑罰の懲役や禁錮といった「刑罰の中身」を決定するのは立法(細目は行政の規則にも委ねられますが)であり、司法はそれを「織り込んだ上で判決を下す」訳であって(裁判員でも同じですよ!!!)、それをおかしいということはできません。


仮釈放は、刑期の3分の1を経過すると認める余地が発生します(刑法28条)。無期懲役ならば10年の服役で発生します。もっとも、現実には刑期の3分の2を経過しなければ認められず、また無期懲役の場合には20年は最低服役する必要がある(近年は平均年数が32年くらいにもなっているようですが・・・)ことは、知っての通り…だと思いますが。
ちなみに、仮出場は3分の1等という制限はなく、「いつでも」可能です。叩き込まれたその日に釈放!なんてことだって、別に違法ではありません。


仮釈放が認められるには、地方更生保護委員会によって、

「 法第三十九条第一項に規定する仮釈放を許す処分は、懲役又は禁錮の刑の執行のため刑事施設又は少年院に収容されている者について、悔悟の情及び改善更生の意欲があり、再び犯罪をするおそれがなく、かつ、保護観察に付することが改善更生のために相当であると認めるとき」
「社会の感情がこれを是認すると認められないということがないと認められる」


ることが必要です。(犯罪をした者及び非行のある少年に対する社会内における処遇に関する規則28条)つまり、また犯罪をしそうだ、という人間であるとか、あまりにもひどい事件であり、途中で服役を終わらせてしまうのが社会の感情が仮釈放を許さないような事件であれば、仮釈放は認められないわけです。また、仮釈放を認めるに際しては、被害者に意見が聞かれることもあります。(更生保護法38条)


さて、仮釈放をされるとどうなるでしょうか。当然自由の身には一応なりますが、保護観察が付けられます。そして、先述したように遵守事項を守らないと刑務所に逆戻りということになりえます。

遵守事項をがっちり守って、本来の刑期が経過すると、刑を受け終わったことにされます。つまり、晴れて完全なる自由の身になれる、という訳です。ただし、無期懲役は本来の刑期もくそもなく、特赦でも貰わない限りは一生保護観察で遵守事項ということになります。無期懲役で特赦が下りるのは、もう死ぬ寸前で、じゃあ最後だけは真っ白な身で死なせてやろうか…というような場合くらいという話を聞いたことがあります。(真相は知らないので、これを真に受けないように)




恩赦や仮釈放の適切な運用にも、市民の理解は不可欠です。制度の細かい理屈は、いざという時に調べればよいかと思いますので、こうした制度にどういうメリットがあるか、考えていただきたいと思います。







最終更新日  2009年09月07日 18時19分51秒
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2008年07月03日
カテゴリ:社明運動記念特集
本日の朝日新聞の夕刊に、刑務所の高齢化が進んでいる旨の記事が掲載されていました。

一般刑法犯(刑法によって処罰される罪。覚せい剤のように、刑法以外の罪によって処罰される者は入らない)に占める60歳以上の割合は、30年前は3パーセントだったが、2006年には18パーセントにもなったとのこと。

さらに、再犯者のうちでも、65歳以上で初めて罪を犯した人の47%が1年以内(出所から?記事では不明瞭)に罪を繰り返し、多数回再犯者全体に対する60歳以上の割合は4割オーバーにもなっているということです。

こうした状況に対応する形で、刑務所の受刑者も当然高齢化し、一部の刑務所では、高齢受刑者向けの服役体制を用意している、ということです。高齢者でも大丈夫な服役作業、高齢者でも大丈夫な食べやすい食事、バリアフリーの住環境などを用意して対処するというものです。


「最良の社会政策は最良の刑事政策である」という標語があります。社会政策がうまくいけば犯罪が絶滅する、とは言えないまでも、少なからぬ犯罪は抑止できる、というのは、真実でありましょう。


服役に伴う、犯罪を促進してしまうという弊害は、多数あります。その中でも、高齢者の場合は、その弊害が顕著に出やすいのが実情であろうと思われます。一旦道を踏み外すと、戻る方法がないわけです。

高齢者の場合、服役を終えて社会復帰しても受け入れ先があるとは言えないのが実情です。年金も払っていない(最初から払えない可能性も小さくない)ような人は少なくありませんし、また家族もいない人たちだって、決して少なくありません。
何か特別な資格や能力でもあればともかく、そうでなければ前科のある、しかも高齢者を意識的に採用する人たちは少数です。体力のある若い人がいい、ましてや前科のある人なんて…そう考える人がいるのも、仕方のないことかもしれません。少なくとも、それを殊更に悪いことだ、などということはできません。

しかしそれが大きな社会復帰の妨げになっています。社会復帰して、仕事か、面倒を見てくれる人を見つけるかできなければ、結局は彼は自殺するか、犯罪的な行為で食べていくかしかありません。もっと直截に刑務所に戻るしかないということさえありえます。生活苦からくる犯罪が理由で無罪になるはずもなく、むしろ再犯罪だ、ということで刑務所に再度、しかもより長期間入れられるというスパイラルになってしまうのです。そうやって、何度も刑務所に入ればタガが外れてしまい、最悪のコースに入ってしまわないとも限りません。
平成17年の統計ですが、服役を終えた後職がある者について、その再犯率は無職者の5分の1以下です。

しかも、そうやって罪を犯した場合、当然、彼には金もないし親族もいない、あるいはいたとしても見て見ぬふりをされるような人たちばかりです。
そうなると、被害者の立場としても、被害者としては何にも悪くないのに、その手の犯罪には泣き寝入りするしかないということにさえなってしまうのです。

これを防ぐ一番簡単な方法は、全員を何らかの形で社会から隔離してしまうことです。しかし、そんな厳罰主義に徹頭徹尾賛成できる人はおそらく極少数でしょう。




なぜ社会を明るくする運動が「犯罪や非行の防止」と並んで更生保護に力を入れるのか。
その片鱗が少しでも見えてくるでしょうか。



なお、前科のある人や少年院の退院者たちを積極的に雇用し、その社会復帰を助けようという人たちもいます。「協力雇用主」と呼ばれる人たちであり、法務省なども協力雇用主を探し、その活動を応援しています。(こちら参照)

ここを雇用主と言える方々が見ていらっしゃるかはわかりませんが、もし見ていらっしゃるのであれば、こちら(協力雇用主のパンフレットです)に目を通していただき、協力雇用主としての活動を考慮していただければ、この記事を書いた甲斐があったというものです。






最終更新日  2008年07月03日 16時59分03秒
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2008年06月30日
カテゴリ:社明運動記念特集
7月1日から、法務省主唱の「社会を明るくする運動」、通称社明運動の強化月間がはじまります。街中でもポスターをあちこちに見るようになりました。



今年のキャッチフレーズは

「おかえり。」



付されている文章を含め、服役を終えた受刑者の社会復帰を主眼に据えていることがよくわかりますね。
白を基調にしているのも、過ちから立ち直る心をまっすぐ受け入れるという象徴のようです。何にも染まらない=偏見を持たない象徴と言えば裁判官の法服の黒も有名ですが、黒ではやはりイメージも暗いですし。


長期的に、このブログ並びに兄弟ブログ「大法原の隠棲処」においても、この運動を応援し、矯正保護に関して理解を求めようか、と考えています。




同時に、矯正保護や社明運動に関して、ブログなどの持ち主は文章を書いたならば、こちらにトラックバックないし紹介コメントを頂けると光栄に存じます。感想や意見、論文、イベントに参加しての感想…なんでも差し支えありません。



さて、光市母子殺害事件の被害者遺族・本村洋氏は、被告人の死刑判決を受けて記者会見を行いましたが、その中に以下の一節がありました。引用元はこちらからどうぞ。

「社会のみなさまにも、どうすれば犯罪も被害者も生まない、死刑という残虐な刑が下されない社会になるのか考える契機にならなければと思います。死刑の存廃が騒がれるようになるかもしれませんが、刑罰がどうすれば社会が安全で平和な環境を作れるか考える契機になることを願います」


社明運動は、まさしく、社会の安全で平和な環境づくりを主唱していくものであると考えております。
各論として、こういう方法でいいのか、という批判はあるかもしれません(もちろんそのような批判記事も歓迎いたします。)が、安全で平和な環境づくりは、誰もの願いでもあるでしょう。


 犯罪者を心情でもって受け入れられない、というのは、仕方のない部分も少なくないでしょう。これのどこが社会を明るくする運動なんだ、と反感を覚える方さえ、いるかもしれません。少なくとも、私の周囲にはそういう人もいました。

 人は立ち直れると信じる、という社明運動の言葉を信じられる人はよいでしょう。しかし、信じられない人もいるのではないかと思います。それが信じられないからこそ、ある一面では死刑や無期懲役という制度があるのだ、と言ってもよいかもしれません。

 ただ、もし信じられないなら、矯正保護を目指すということがどれほど合理的であるか、という視点にも目を向けていただければ、と思います。現段階で私が語ることは、それだけです。まあ、過去記事をほっ繰り返せば、いろいろ書いてありますけども。


 これから裁判員制度です。有罪判決なら、裁判員は量刑を考えなければいけません。「3年」とか「6年」というような、さじ加減で数値を考えるだけでは、犯罪者を生まない社会を作ることは難しいと思います。
 裁判員制度の下で、きちんと量刑を見定めるには、矯正保護という視点だって決して無視できるものではありません。




 これを機会に、市民の皆さんが矯正保護というものについて視線を向けることを願います。






最終更新日  2008年07月01日 00時39分51秒
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