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碁法の谷の庵にて

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囲碁~それ以外

2019年06月13日
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カテゴリ:囲碁~それ以外
(下記は実話じゃありません。実話語ったらバッジが飛んでしまうので…)

 2004年、とある都内の法律事務所にて。
 今度警察や日本棋院から事情聴取をされる予定なのでという事で相談を受けたとある囲碁棋士七段の話を、弁護士がまとめたもの。
 

 俺だってプロの七段だ。
 囲碁とオセロの区別もろくにつかない奴らだって「囲碁の棋士の七段」といえば、「凄いんですね」の一言くらいは言ってくれる。
 センセだって相談前に言ってくれただろう?
 だがな、俺は今みたいになりたくてプロになったんじゃねえ。

 俺がガキの頃に始めた囲碁。
 多少の才能はあったんだろうな。小学生の全国大会で入賞して、師匠に見初められて、院生になって、プロの修行を始めた。

 まあ、とんとん拍子とはいかなかったな。
 地元じゃ天才少年とか言われても、院生は天才少年の集まりだ。俺の兄弟子は、正直俺じゃ100年経っても敵わないんじゃないかって感じたさ。師匠?雲の上過ぎて何年とか考えたことすらねぇ。考える頃にはおっ死んでたってのもあるがな。
 兄弟子は高校2年の時にあっさりプロをあきらめた。プロ試験合格者とも打ち分けくらいの成績で、諦めた時点だって俺じゃ全く歯が立たなかったってぇのにな。兄弟子はその後大学に進学、囲碁は続けてて学生タイトルを取って今じゃアマチュア大会で全国入賞の常連だ。阿含杯じゃプロを何人も負かしているし、ビジネスでも成功しているらしい。埋もれた中堅プロの俺より囲碁界じゃ名前知れてるかもな。
 前の阿含杯、その兄弟子が予選Cにいて、1勝すれば俺と当たる所だった。絶対あたりたくないと思ったね。兄弟子は若手が潰してくれたし、その若手には何とか勝ったから、一応俺のメンツは立った。対局前は当たったらどうしましょうなんて兄弟子と談笑したが、内心俺は怯え切っていたよ。

 それでも兄弟子が不合格だったプロ試験に俺は受かった。
 丁度プロ試験が俺の調子のよい時にあたったんだとは思うぜ?普段負けまくってる相手に何故だか勝っちまった碁が何局かあった。だがな、プロ試験に調子の良しあし関係なく合格できる奴なんざそうそういるもんじゃない。
 未来のタイトル保持者だって、調子が悪けりゃ不合格になるくらいには厳しい世界さ。

 内実はともかく、プロ試験に合格したときは、みんな俺を祝福してくれたよ。
 家族も、師匠も、地元の碁会所も。他の院生たちだって、仲間がプロになれば悔しさを抑えてお祝いの言葉くらいは言うもんだ。
 地元の地方新聞まで「県三人目のプロ棋士」なんて言って取材に来て、俺の記事を書いてくれたんだ。

 センセは俺を「プロ試験に受かっただけでゴールと勘違いして努力を止めたアホ」と思うかい?
 こんな俺でも、プロになった頃は「今はまだまだ新初段だが、10年経ったら棋聖名人本因坊」って意気込んでたんだぜ。あの頃は世界戦なんてなかったが、今だったら「世界戦で活躍する」とかかな。
 棋士はある意味暇だ。棋戦を勝ち上がり続けたところで毎日毎日出勤じゃあないからな。普及活動ももちろんあるが、毎日がそれで埋まる訳じゃあない。
 空き時間を囲碁に費やした奴だけが上に行く。意気込んでた俺は棋譜並べに詰碁。当時は囲碁の研究会なんて今ほどメジャーじゃなかったが、研究会に顔を出して、研究成果を披露して俺より段位が3つか4つ上の先輩に「よく研究してるんだな」って感心されたもんだ。
 師匠は俺が入段してすぐに亡くなった。新聞は俺を「最後の弟子」なんてお涙頂戴な記事を書いてたがな。ドラマみたいに死んだ師匠を思いながら打ってタイトルを取るなんて主人公補正は俺には働かなかった。

 棋士になって1年,俺は出た棋戦で負けまくって、一次予選さえ突破できなかった。一つだけ二次予選に行ったが、あっさり粉砕されたよ。
 勝率そのものは勝ち越しで、一年目の成績は決して悪くはなかった。だが、一次予選でも勝ち抜くには複数回勝たなきゃならない。何せ全棋戦で1回勝てばとりあえず勝率5割にはなれちまうんだから。何十年も初段二段の棋士に1回勝ったところで予選は突破できない。
 最初は「プロ試験に合格した時の好調からちょっと後退しただけだ」って自分に言い聞かせて、勉強だって続けてたがな。
 だが、2年くらいたっても、俺の成績は上向かなかった。強くなったという実感も沸かない。
 入段したばかりの後輩棋士に粉砕されちまったこともあった。俺だって格上を自分でも驚く内容で粉砕したことくらいはあるんだが、あれは堪えたな。
 まあ何度も出場してれば調子が良かったり籤運が良かったりもあるから、天元戦で一度本戦に行った。名人戦の三次予選で1回勝ってリーグまであと2勝になったのが最高かな。

 それと,俺は大手合の成績は悪くなかった。8年目くらいで俺は五段になって、一次予選を打たなくて済むようになった。
 二次予選に沢山出れば、俺は勝てる!と自分に言い聞かせて対局に臨んだが、あの年俺は棋士人生で初めて負け越した。四段までの頃だって二次予選にいったらほとんど負けてたのに、五段になった途端二次予選で勝てるようになると思ってるなんて、今思えばバカな話だ。

 俺が囲碁の勉強を止めちまったのは、多分五段になった頃だ。
 本当は,五段になる前に分かってた。俺は棋聖名人本因坊どころかリーグにも行けない,と。五段昇段が一つの目標になってそこさえ超えればと思ったが、その先にはこれまで以上に絶望的な山が聳えてることを改めて見せつけられて,俺の心は折れた。

 だが、それでも俺は棋士を辞められなかった。もう30近くなってて囲碁以外では生きていけなかった。
 それなら囲碁の普及につとめよう。それが俺の仕事だ。そう思って人生を立て直そうとした。
 普及で囲碁を楽しむ気持ちを取り戻せば,自分の棋力も上向いて勉強も手がつくようになったり、自分に合った勉強法が見つかったりしていつかもっと上にいけるかもなんて夢も見たさ。
 他にも、囲碁の勉強ばかりしすぎたと思って余所に目を向けようと株とかに手を出してみたが,失敗して結構損失出しちまったんだよな。
 まあ株に手を出したにしても、普及をしようと思ったのは本当だ。

 だがな,強豪と互先で打つことに慣れ切った俺だ。うまい具合に打ってジゴ一にするなんて芸当は聞いたことはあってもやろうと思ったことがねえ。俺の指導碁は下手を甚振る碁だ,なんていわれたもんだが,俺は隙あらば即潰すような打ち方しか知らないのさ。
 ある程度やり方ってもんがあるんだろうが,だんだんバカらしくなった。「甚振られて強くなるんだよ!」って最後は開き直っていた。

 そして、普及をしようと思えば、顔を売らなきゃいけない。
 あいにく俺はプロだってだけだ。タイトルを取った訳でもないし、イケメンでもないし、教えるノウハウもない。俺が女流棋士だったら…なんて女性の前で言えばセクハラまがいのことだって脳裏に浮かばなかったと言ったらうそになる。
 俺の地元の碁会所の伝手で、碁盤屋を紹介されたんだ。

「入段の頃から期待していました」
「今は調子が悪いようですが、あなたならきっと上に行けると信じています」
「応援させてください。」


 陳腐なお世辞だし,実のところお世辞だってことくらいは俺にも分かってた。
 だが陳腐なお世辞だと分かっていても自分を気にかけてくれれば嬉しいものさ。俺は碁盤屋とすっかり仲良くなった。

 これが良くなかったんだろうな。
 碁盤屋と仲良くなったもんで、俺はその碁盤屋ともっと仲良くしようと思って、囲碁イベントの度にあの碁盤屋を引き入れた。碁盤屋もお礼と言って売り上げのいくらかを俺にくれたんだ。正直言って,対局料なんか目じゃない金額だったね。
 しっかり碁盤屋を調査すべきだったんだろうが、棋士に調査なんかできると思うかい?特に悪い噂を聞いた訳でもなかったから信用できる,そんな風に思っていた。俺の行かないイベントにすらあの碁盤屋を推薦して、それでも売り上げがあればバックしてくれるんだ。

 一度,あの碁盤屋の化けの皮がはがれかかった。カヤ盤と似た新カヤ盤をカヤ盤と言って売りつけたんで、日本棋院に苦情が行ったのさ。その時は、派遣された碁盤屋の番頭の説明が悪くてお客さんを誤解させたって事にして、碁盤の返品を認めて一件落着という事になったし,碁盤屋も泣いて俺に謝ってたから、むしろ助けてあげたくなっちまった。案外,あの時まではあの碁盤屋も真っ当な商売してたのかもな。
 だがな,あの番頭はあの碁盤屋でずっと働き続けて,その後も何食わぬ顔でイベントに顔を出していたのさ。普通ならそんなことやらかせば懲戒免職か、仕事をさせるにしてもしばらくはイベントには出さない仕事をさせるもんだろ?気になってその後もそれとなく見ると、碁盤屋の商売はエスカレートしてやがった。
 カヤ盤はカヤ盤でも粗悪品に高額をつけたり、解説の冊子の隅っこに虫眼鏡でも読めないちっこく「カヤと新カヤの違い」なんて解説を書いて、それで説明したって開き直る始末だ。

 そこで碁盤屋と縁を切るべきだったんじゃないか?だろうな。
 だが,もう俺にはそんなことをする気は湧かなかった。
 その碁盤屋以外に顔が広かったわけじゃない。碁盤屋は相変わらず金をバックしてくれる。碁盤屋からしてみれば俺はいい仕事づるだろうし、俺にとっては碁盤屋は金づるだった。完全な持ちつ持たれつさ。
 株で金の余裕も無くなって、生活費だっていつまで持つかわからない。勝てるようになったわけでもなく、対局料だって増えない。執筆の仕事がある訳でもない。俺には、自分の生活を放り出す勇気がなかった。
 むしろ俺から碁盤屋に悪い手口を教えるようになるのに、時間はかからなかったさ。明かりを調整させて碁盤の目利きをさせにくくするとかな。



 棋院がこの間、俺に対して事情聴取を通告してきた。行かない訳にもいかない。
 前に囲碁イベントで碁盤が偽物であることを暴かれて碁盤屋がイベント出禁になった。
 更にウソ署名碁盤を売って大金をだまし取ったという事で警察が入ったんだそうだ。サギだかなんだかでイベントを主催する日本棋院にも事情聴取が行ったらしい。
 俺も、紹介した立場だってことで今度警察から事情を聴かれる。
 まあこうやって逮捕はされてないから、皆「俺も碁盤屋に騙された」と思ってんのかねぇ。
 「あの碁盤屋に騙された」と言えば、警察は信じるだろうか?

 棋院も俺があの碁盤屋とつるんでたなんて言ったら棋院のメンツにかかわるから、俺が騙されたってことにして庇ってくれるかもな。
 真実を語った方がいいって?
 悪ぃが俺も刑務所なんかに行きたかない。贖罪のためなら全てを放り出して刑務所に入ろうなんて殊勝な心構えは俺にはないからな。
 刑務所に行けと言われたら抵抗はしないさ。刑務所に行く気力もなければ頑張って戦おうという気力もない。要は無気力さ。俺の碁と同じようにな。




~Fin~


 あえて書きませんが、囲碁とかマンガとかに詳しい人なら、このプロの「元キャラ」は多分わかると思います。
 現実の囲碁界に彼のような不正に手を染めている人はいないと信じますが、悪い誘惑があれば彼と同じになってしまいかねない人はいると思っています。
 彼はクズというより弱かっただけだと思うと、なおのことそう思うのです。






最終更新日  2019年06月13日 23時40分06秒
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2019年02月19日
テーマ:囲碁全般(717)
カテゴリ:囲碁~それ以外
さて、突然ですがここで囲碁に関する「棋力に関係ない」問題です。
 答えは問題文のすぐ下にありますので反転して読んでください。

第1問


「碁盤の材料として最高の木材とされるのは?」
A:かや(榧)の木。量産品はかつら(桂)の木が多い。

第2問


「碁盤の木目によって同じ木材でも価値が分かれると言われますが、どんな木目が最高品?」
A:柾目(まさめ)と呼ばれる木目が最高品。板目(いため)もあるが、価値はある程度落ちるとされる。

第3問


「目碁って何?」
A:賭け碁のうち、何目差で負けたかまでを賭けの対象にするもの。

第4問


「白石の材料として最高のものとされるのは?」
A:ハマグリの貝殻。ちなみに黒石は「那智黒」と呼ばれる石。

第5問


「碁笥の材料として最高のものとされる樹木は?」
A:桑の木。特に御蔵島などから産出される「島桑」が珍重される。

第6問


「大手合ってどんな手合?」
A:段位を決定する手合い。置き碁があったりもした。現在は既に廃止されているが、ヒカルの碁でもちらっと言及されていたりする。

第7問


「かつて九段は名人・八段は準名人と呼ばれました。七段は?」
A:上手(じょうず)

第8問


「江戸時代の囲碁家元4家。本因坊の他には何家がある?」
A:安井・林・井上の3家。

第9問


「第一回囲碁殿堂で顕彰されたのは誰?」
A:徳川家康・本因坊道策・本因坊(跡目)秀策・本因坊算砂

第10問


「「先相先」の意味は?」
A:三局に二局コミなしの黒を持つ手合い。

第11問


「欠け眼活って何のこと?」
A:全体の石がつながっている関係で欠け眼しかないのに生きている状態。「発陽論」などに欠け眼活で生きる詰碁もある。

第12問


「「征」の文字をあてる囲碁用語は何?」
A:シチョウ

第13問


「日本最古の碁盤はどこに収められていますか?」
A:東大寺・正倉院

第14問


「名人戦を主催している新聞社はどこ?」
A:朝日新聞社

第15問


「爛柯(らんか)という囲碁の別名がありますが,なぜ囲碁を爛柯というのか説明しなさい。」
A:囲碁を見ていたら斧の柄(=柯)が腐り落ちている(=爛)ほど長い時間が経っていたという故事から。

第16問

「秀哉忌って一年のいつ頃?」
A:1月18日

第17問


「1980年代から90年代前半に中国棋士に圧倒的勝率を誇り、中国で「鬼」と呼ばれた日本棋士は誰でしょう?」
A:小林光一九段

第18問


「三国志演義に登場する関羽は、碁を打ちながらあることをしたことで知られています。何をしたでしょう?」
A:腕を切り開いて手術をした。対局相手は特に優れている者を指す「白眉」という言葉の由来となった馬良。


 私がとっさに思いついた囲碁の「棋力とはほとんど関係ない囲碁雑学問題集」です。
 私がたまたま知っているものだけ、とっさに思いついたものを並べただけですので、問題の種類にも偏りがありますし、私自身答えを知らない問題も思いついたのに外していたりします(汗)。
 品質の保証はしませんが、15問以上解けたら結構詳しい方じゃないでしょうか。




 さて、この手の「囲碁に対する教養」って、棋士や院生の皆さんはどこで身につけているのだろう?
 それ以前に知っているのだろうか?という点がふと気になりました。

 私はプロ試験や院生試験は経験したこともありませんが、筆記試験は特になかったと聞いていますし、その試験のために勉強する、ということも考えにくいと思います。
 私個人的には、小さい頃に読んだ囲碁書籍や雑誌のコラムなどが主要情報源ですが,その後も囲碁関係の記事などを追ったり、ウィキペディアなどで関係記事を読んだら書いてあって「へー」と思うこともしばしばです。


 プロ棋士は、圧倒的な棋力が必要なのは当然としても、仕事として囲碁を扱う以上、こうした囲碁教養についても、ある程度は知っておいた方が良いのではないでしょうか。
 また、日本囲碁規約にも精通している必要があるでしょう。審判長としてアマチュアの大会に呼ばれたプロ棋士がありがちなトラブルにも対処できないのでは困ってしまいます。
 無論、これらの知識は、棋力に比べれば簡単に身につくものだと思いますので、これらについてはプロになった上で各人の勉強にお任せする、ということなのかもしれませんが…

 囲碁道場とかでもこういうのをきっちり教えている道場は聞いたことがなかったりします。
 大学時代の囲碁サークルとかでも特にこういうのが話題になった記憶はありませんし…


 ちなみに将棋界では将棋文化検定という盤上の駒とは関係ない将棋の文化的側面に着目した検定が何度か開催され、現役将棋棋士も受験していたそうです。(クイズに造詣の深い事で有名な森内俊之九段など)
 囲碁界もそういうのやってもいい気もします。



 ある程度は内情を知ってると思われる院生経験者の皆様やプロ棋士の皆様、もしこの記事を読んでいたら、その内情をこっそり広めていただけると幸いでございます。






最終更新日  2019年02月19日 23時10分06秒
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2016年10月14日
テーマ:ニュース(76472)
カテゴリ:囲碁~それ以外

 かつて,羽生善治七冠の全タイトル制覇を167日で終わらせた三浦弘行九段が,スマートフォンによるカンニング疑惑などを理由に将棋連盟ともめ,最終的には年内いっぱい出場禁止,挑戦が決まっていた竜王戦について挑戦者を丸山忠久九段と差し替えるという事態になったようです。

 

 情報がいろいろとあるようですが,連盟からの情報開示が不十分という印象です。

 日本将棋連盟の公式サイトでの告知にはカンニング疑惑については載っていないようですし,処分の直接の理由は「休場すると言っていたのに休場届が出されなかった」ということのようです。

 竜王戦という超重要棋戦の挑戦手合まで進んでおきながら,病気などの正当な理由なく出場しないのだと考えるならば,なるほど処分としては一理あるかとも思います。

 他方,三浦九段側からの反論もあるようです。
 対応は弁護士に任せているということなので(もちろん私は片田舎の弁護士なので頼まれたりはしてませんよ)詳細は待つことになるでしょうか。

 A級経験を持つ某有名棋士は「1億%クロ」と宣言したりしていますし,A級棋士経験者としての将棋の力量をもってすればその辺りに敏感になれる要素もあるのかもしれませんが,個人的には外していた場合が恐ろしすぎるし,他の有力棋士にも疑問を感じている棋士もいるようですし,連盟の発表が全てとも限らないと言えば限らないので,本件についての事実関係の断定は差し控えます。

 

 

 なお,三浦九段の離席が疑われた原因と一部で言われているようですが,アマチュア碁打ちの私個人としては,対局中の離席はそれなりにやります。

 緊張が度を超すと本当に吐きそうなので,何とか気息を落ち着けるためには場を離れるという手法は非常に有効だと思います。また,休みの時に何をするかも気分次第です。外に行って深呼吸してくる,トイレ行ってくる,何もすることがないけどとりあえずトイレ行ってやっぱり出ずに戻る,なんてこともありますし,1回1回の休みに何をしたかなんて私はいちいち覚えていません。

 一手誤ると即投了、誤ってなくても投了一直線コースなのかも…みたいな勝負所になると私としては本当に脳みそが沸騰しているかのような感覚を覚えるので,勝負どころになるほど離席が増える,というのも全くおかしくないと思います。もちろん離席することで集中が切れてしまう例もありますから,この辺りは持ち時間の使い方同様,人次第だといえるでしょう。

 「ヒカルの碁」でも,プロ試験編でヒカルと対局した椿が対局中に気分転換としてバイクで近くを走り回っているシーンがありました。

 プロよりはるかに短い持ち時間で打っている私ですらそうで,中には時間がある間は一手打つごとに席を離れているような人すらいます。
 アマチュアよりはるかに長い持ち時間と更なる集中を求められる環境で戦うトップ棋士が長期間の離席を行うことは何もおかしな話ではないだろうし,むしろ否定されたら大変だと考えます。

 

 さて,私が今回の件に関して考えたことは,日本将棋連盟,将来的には日本棋院もそうでしょうが,カンニングなどの不正行為に対して,きちんとした調査の規則などはあったのか,なかったとすれば作っておくべきではないのだろうか,ということです。

 どういう処罰をするかに関しては,先日除名まで含めた厳しい処分を定めたという話が記事にあったのを覚えています。
 しかし,具体的にどのような事実があってどのような事実が認められたのか,その辺りの歯切れが竜王戦の挑戦者変更という大事件にもかかわらず悪いと感じられます。
 三浦九段本人からの聴聞はしたようですが,そのやりとりもよく分からず,むしろ三浦九段からは調査への反発ともとれる言い分が出たという話までがあるため,こうした疑問がわいてきたのです。



 競技への信頼性を揺るがす不正行為を阻止するために,競技を主催する組織などが相当な範囲で検査をする。

 これ自体は非常に真っ当で正当であり,社会的な承認も得られていると思います。

 

 スポーツ界におけるドーピング検査がまさしくそうで,囲碁界ですら,2010年のアジア競技大会でドーピング検査がルール化され,実施されました。選手たちもドーピングについて研修を受けたようですし,一部には違和感を表明する棋士もいたようですが,だからと言って検査拒否と言い出せば,当然失格になっていたことでしょう。

 
 また,労働法的に考えれば,非違行為の疑いが存在した場合に社内でそれを調査する権利は企業にはありますし,労働者にも必要かつ合理的な範囲であれば労務提供義務の一部として応じる義務があります(富士重工業事件・最判昭和52年12月13日)。

 棋士は労働者には当たらないと思われる(関西棋院の厚生年金関係でそのような判例があります)のでそっくりそのままの考え方を持ってくることは難しいでしょうが,正当な検査をし,そのための調査に理由なく応じないことについて競技界として一定の制裁を行うことに関しての正当化は十分できるとは思います。

 

 しかし,現にきちんと調査についてルールが定められそれに従って運用されているのであれば,ルールに従って粛々と事実認定をし,それに従って処分をすればよく,その過程や結果・調査ルールを同時に公表すれば,本当なのかが問題となるような事態にはならなかった(問題だとする声は出るにしても,一定の信用性は担保された)はずですが,それがないのが気になるのです。

 こうした調査や処分に関して,隅から隅まで完全な形で決めきることは難しいとは思います。

 しかしながら,処分ルールと同時に調査方法についてもルールが定められていないと,調査を受ける側としても「自分ばかり不公平に抜き打ちされた」という感覚になりかねません。立場上そういう調査を受けることは明示されたルールがなくとも受忍すべきなのではないかな,と個人的には思いますが,無用な反発を避けるべきこと,棋士たちに「どのような自己防衛をしておけば無用な疑いを抱かれずに済むのか」という意味での準備をさせる必要があることからしても,やはり調査に関しての基本的なルールは決めておき,しっかり棋士たちにも周知徹底させ,その上で従わせるべきだと思うのです。

 その上で調査に非協力的なら,それなりの対応を取ることだってできたと考えられます。
 

  

 囲碁界ではどうでしょうか。
 
 囲碁界でも,実は不正行為と取られても仕方のない緩い行為はあるように思います。
 一例として,ヒカルの碁の北斗杯編で描かれた森下九段vs進藤ヒカル戦。

 昼食休憩中に局面を見てヒカルと同門の冴木プロが濁し気味にいろいろ言っていますが,あれだって本来は対局の信頼性を疑わせる行為です。しかし,棋士の監修あるヒカルの碁であのように描かれていて,かつ特に作中問題にもされていなかったということは,ひとまずあれもあり得ることだったと考えられるでしょう。

 昭和でも,本因坊秀哉vs呉清源の160手目の妙手を前田陳爾が発見していてそれを瀬越憲作がばらしたことでトラブルになり,瀬越は日本棋院理事長を辞める羽目になったことがありました。

 こうした,勝負の公正を疑わせる「緩さ」は,特に国際棋戦を想定する場合,将来的には熾烈な争いになってしまうことも予想されます。

 大橋拓文六段が書かれているように,囲碁ソフトもプロ並みソフトが市販されるようになる可能性は十分あります。先日李世ドルを4-1で倒したAlphaGoは市販を予定していないようですが,Zenもプロに近くなってきているということですし,現在でも市販ソフトが市販のパソコンでアマチュア大会に出たら県代表くらいは十分目指すことができると考えられるでしょう。今棋士がカンニングをやってもバレるバレないは別にして得策ではないだろうとは思いますが,将来的にはバレない限りやった方が得策になることは十分考えられます。
 そして,なんとしてでも勝ちたい,そのためならば反則だってやってやるという気になる可能性もあるでしょう。アマチュアのネット将棋でも,既にソフト指しの問題は指摘されているところです。
 プロの場合生活がかかっているため,なおのことその誘惑が強くなったとしてもおかしくはありません。

 そうすると,囲碁界も,AlphaGoやそれに類するレベルの囲碁ソフトが市販されていない現状のうちにきちんとした性善説のみに頼らないルールを作っておくことが必要だと思います。

 きちんとルールを作らないままに今回のような何らかの疑惑事件が発生し,泥縄な調査を行うならば,ルールをきちんと作っていれば本来避けられたはずの不愉快な思いをする棋士やファンができ,囲碁界や棋士・棋戦への信頼が無意味に害されてしまうことは間違いありません。



 今回の事件の真相が何かについては今後も状況注視ですが,三浦九段にかかった嫌疑の真実がどのようなものであれ,本件は問題提起としては重要なものを含むように思います。







最終更新日  2016年10月14日 16時07分52秒
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2015年07月03日
テーマ:囲碁全般(717)
カテゴリ:囲碁~それ以外
 流石に最近アマ棋戦と疎遠となりがちですが、先日久々にアマ本因坊戦に出てきました。

 1回戦早々大苦戦でしたが逆転勝ち、2・3回戦を難なく下し、準決勝は死闘でしたが時計の叩き合いの中ヨセで技を決めまくって突き放し勝利。

 が、決勝は序盤から変で完敗しました。相手が強かった訳ですが、相性も悪すぎです。
 棋譜の中身も変でしたが、後述するように対局態度に関しても大変お見苦しいところを見せてしまい、皆様には申し訳ありませんでした。

 ・・・と、自分の対局の話はこの程度にして、今日は気になったことを書かせていただこうかと思いました。



 アマ棋戦でも、上位対局になれば棋譜取りが付きます。
 私の碁も、決勝は棋譜取りがつきました(なお、決勝は切れ負け制でした)。

 スポンサーである新聞社の方としては棋譜を掲載したいところでしょう(実際私の棋譜も載ったことがありました)。
 参加するからにはスポンサーサイドで任意で棋譜を取られることは当然で、棋譜取られたくないというのは無理だろうと思っています。(本音は恥ずかしいのでできれば会心の棋譜だけにしてもらえると嬉しいのですが・・・)

 ところが、決勝で付いた棋譜取りの方が、どうも棋譜取りの要領を得ないのです。
 かなり序盤、ゆっくり打っている間であるにも関わらず棋譜取りのために止められたのみならず、時計の叩き合いのところでも止められる始末。
 しかもその時はアタリになってるところを抜きましたと指示しても理解が追いつかずに手間取るありさまで、私自身形勢芳しくない盤上より棋譜取りに苛立っていました。(周囲にはお見苦しいところをお見せいたしました)
 時計の叩き合いは本当に極限の集中状態であり、ペースがあっという間に狂ってしまうので、他所から止められるのは勘弁してもらいたいところです。

 実は、2年前にも同様のことがあり、その時はたまたまかな?とも思っていたのですが、再びこのような事態になったことで、どうも棋譜を取る方について問題意識がないのではなかろうかと考えるようになりました。

 棋譜取りは、やってみるとわかりますがそれ相応に技術もいります。
 プロの棋譜を○分で並べられれば○級・×段というのもあるように、棋譜取りも実はそれ相応の技術が必要です。
 棋譜を取り慣れていない方に棋譜取りをやらせるのは、不正確な棋譜の元になります。
 
 私は高校大学と関東リーグウォッチャーだったので棋譜取りはある程度は慣れました。
 それでも、高2の時に生まれて初めて棋譜取りをやって、その時は一応アマ高段者と言えるくらいでしたが、時計の叩き合いとかはないにも関わらず、四苦八苦やミスもありました。
 うまくいかなかったから怒られたというわけでもなく、ミスを見逃してもらう中で慣れていった訳ですが…

 そんな風に、慣れないけれどもその分多少の誤りは見逃します、ということであればそれはそれでありでしょう。
 しかし、棋譜の不正確を見逃すことができないのならば、結局は対局をいちいち止めるなど対局者に重大な迷惑をかけ、勝負に余計な横槍を入れることになります。


 その意味でも、アマ棋戦の棋譜を取る方々は、それなりに選ぶべきではなかろうか、と思います。
 何局か練習対局の棋譜をとるか、並行しての棋譜取りなどで棋譜取りの訓練をする。
 また、敗退が決まっても会場に残って検討している方(多くはアマ高段~県代表クラス)も多いわけですから、そういった方々に棋譜取りを頼む(私が敗退してる状態で頼まれれば無料でも引き受けます)。
 終盤戦は映像として録画しておく。

 そういった工夫をすることが求められるのではないかと思います。



 なお、時計の叩き合いの最中に止められた件については、その時点で形勢は既に定まっており私の敗北はこの件とは全く関係なかったことを申し添えておきます。






最終更新日  2015年07月03日 21時50分36秒
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2013年05月09日
テーマ:囲碁全般(717)
カテゴリ:囲碁~それ以外
さて、約束の記事です。


囲碁界にもひたひたと強いコンピュータの波が押し寄せています。
CrazyStoneやZen等のプログラムがじわじわと力を上げてきているのです。

将棋電王戦はもちろんですが、囲碁界でも「電聖戦」という棋戦(?)が組まれ、その中で武宮正樹九段を4子で下し、更に石田秀芳24世本因坊も4子で倒す水準になっているということです。


武宮九段や石田24世本因坊に四子で勝てるなら、一般アマなら「県代表狙ってます」と言っても恥ずかしくないでしょう(実際取るに至るには居住地選びや強運も必要でしょうが・・・)。
 私が高校2か3年生だった頃、雑誌「囲碁」で1年かけて学生の強豪12名(実人数11名)がトッププロと置き碁で打つ企画では、概ね手合は三子。阪本寧生現プロ(学生十傑優勝)も相手は工藤紀夫九段だったと思いますが、三子で負かされたはずです。
 あの辺の学生トップに私は全く太刀打ちできませんでした。それでも当時からすれば腕は上げましたが、まだまだ勝つにはほど遠いのではと思っています。

 プログラムの碁は、これまでの序・中盤の棋譜を見る限り、私に太刀打ちできるレベルではありません。
 しかしながら、結果を出していることを踏まえると、この辺の私の判断に誤りがあるという可能性も一概に否定できません。

 私と大差ないレベルか、いや私より強い可能性も?などと、将棋電王戦を見て私も興味が湧き、武宮九段に4子で勝ったZenがプログラムされた「天頂の囲碁4」を購入して打ってみました。







 最初はとりあえず互先で黒を持ち、プログラムに一手30秒の時間を与えて打ってみました。
 棋力設定は段位としては最高設定の五段でしたが、五段では10秒も考えないので、30秒与えた方が強いのです(と知ったのは次の碁を打った後ですが)。
 対局は、序盤一瞬(でもかなり)ヒヤッとしましたが、急所で自ら首を差し出してきたので要石がとれてしまい、後はボコボコ。しまいには盤上の石がデスラッシュを起こしました。

 次いで、棋力設定五段で向二子にしてみましたが、これも勝ちました。
 大コウが勃発し、まあソバコウもあるし死にゃあせんよなと思って打っていたら突然全くの無コウを放ってきて終了。周辺のアヤで死なない石を無理に中手で取りに来たために大損したり、余計な手を決めまくって打てば打つほどこちらは安心と言うシーンもありました。

 一手120秒与えて白をもって打ってみました(手元で用意できる中ではプログラムに一番有利な条件)が、それも勝ちました。流石に前二局と比べれば歯応えがあるかなという感触は抱きましたが、それでも急所に石が来ない悪い癖は抜けていません。完全に中盤で地が足りなくなっていますし、近接戦闘も持て余す形で投了しました。
 その後も何局か打っていますが、全て私の勝ちです。

 前述した置き碁での結果から予想された棋力を考えると、むしろ「弱さを見せた」と言う感もありました。
 プログラムと言うと、部分的な筋に強く大局観は弱い、と言うようなイメージでとらえられがちに思いますが、打った感想はむしろ部分的な筋の方が全然ダメと言う感じです。

 武宮九段に置いて勝ったのは、プログラムとプロとの対局は19路盤では置き碁ばかりで、「明確に与えられたリードさえ守ればよい」と言うやや特殊な条件であることや、プログラムを相手にしていることへの武宮九段の戸惑い、武宮九段が当時と比べても高齢になってきていること、使用したパソコンのスペック差などが影響していると見ています。
 ヨセについてはプロも舌を巻くという話がありますが、少なくとも私との互先では、ヨセに至るまでに勝負がついてしまいますし、ヨセでも全体の薄みを狙ってオラオラとやっていくと簡単にぽろっと損をしてくれます。


 むろん、日進月歩している部分がありますから、天頂の囲碁4が全てではありません。
 そもそもコンピュータ選手権の優勝はCrazyStoneです。
 私のパソコンのスペックを上げ(スペックのそこまで高くないノートPCなので、機能が十分に発揮できなかった可能性もある)、十分な時間と設備を与えたらどうかと言う問題が残っていることは事実です。
 将棋電王戦のラスボスであるGPS将棋みたいに700台近いコンピュータの数の暴力(?)でやってきたらどうかは怪しいです(モンテカルロ法は、コンピュータのスペックがけっこう反映されやすそう)
 それでも、前記した条件の下では、まぐれパンチが命中しない限りは、私の方が強いと言って差し支えないはずです。



 30秒碁では、旧早稲田級シングル・・・というにはやや難しく、10級程度(やや甘いか?高1の時の私が12級)でしょうか。
 強い部分と弱い部分がはっきり出ているので単純にとらえるのも妥当ではないようには思いますが。

 2012年までは、1年ごとに大体前年プログラムへの勝率75%程度という感じで進歩を続けているようです。定先程度、1級程度のレベル差でしょうか。
 全く同じパソコンのスペックで成長率ならば、私にプログラムが一発入れるまではあと1,2年、本格的に捕まるのは2015年、2020年までには勝てなくなると言うところでしょうか。
・・・とはいえ、碁ががくんと難しくなるのはここからなので、これまで通りの成長率をキープし続けるというのはなかなか難しい気はしますが。



 とはいえ、「プログラムに人間が勝てなくなる日」が囲碁界においてもそう遠くない未来に来るであろうという事は、無視できない現実としてみておかなければならないでしょう。
 6年半ほど私が生きている間にプログラムは私に勝てるようになることはないだろうと書きましたこちら)が、本記事をもって撤回いたします。






最終更新日  2013年05月09日 17時31分11秒
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2013年04月26日
カテゴリ:囲碁~それ以外
将棋電王戦、私も見ていました。

囲碁で有名(?)な私ですが、将棋も指せますし、序盤の深遠なやり取りはわかりませんが(囲碁ならまずまずわかるのでやっぱり棋力差は大きい)、解説聞けばなるほどと楽しんでみられるくらいのレベルはあるつもりです。

電王戦を見始めたのは3局目からでしたが、個人的に3局目(船江恒平五段vsツツカナ)が一番面白かったですね。
船江五段、ぶっちゃけ名前を知らなかった(ごめんなさい)ですが、ファンになりました。


結果への感想です。
最終局に投入された三浦弘行八段は、三浦八段はA級棋士でタイトル経験者。先日のA級順位戦も7勝2敗で、挑戦者になった羽生三冠を倒しています(渡辺明竜王と橋本崇載八段に負け)。
紛れもないトップ棋士の一人(日本囲碁界で言ったら山田規三生九段くらいでしょうか)ですが、敗れたことで、最強プログラム≧棋士の構図は鮮明になったように思います。
むろん棋士側も羽生善治三冠・渡辺明竜王・森内俊之名人と言った「切り札」を残しています。切り札の他、三浦八段同様のA級棋士も他にも何人もいますし、レーティングでは三浦八段も20位(船江五段で30位)。他にも強い棋士はいるんだ、と言うことは一応立たなくはありません。(ちなみに「切り札」は3人とも出場には消極的だったとのこと)
とはいえ、彼らが出てくれば勝てるか、と言うと・・・内容的にも、終盤には差がはっきり出ていたし、敗因もよく分からないだけに、少なくとも楽観的予測は困難でしょう。
結果的にはビッグネームを温存して、一応の面目がまだ保たれているという形になっていると分析が正しいように思います。


今回の電王戦、興業として1回限りで切り取って判断すれば、まずは大成功ではないでしょうか。
おそらく、(やるかどうかわかりませんが電王戦を開いたとして)次回か次々回あたりまでは同様か、と思います。

ただし、その数回程度のブームの後、「プログラムに勝てなくなった」将棋界が生き残っていけるかはかなり微妙です。
負けたなら負けたで最強プログラムに勝てる棋士を養成すべきだ、と言うのはぜひそうであってほしいしそれを目指すべきだと思う半面、その通りの結果が出せるというのは理想論と言わざるを得ないでしょう。
将棋のプロ棋戦も「最高峰の内容による棋戦を見せる」と言うよりも、「あくまでも人間同士の競技」としての色彩がどんどん強くなっていくことは避けられないかと思います。

そうなった時に、将棋界はどう変わっていくのか。
ファンの多くがプログラムに勝てないのを「単に人間vs車のような異種格闘技戦に負けただけであって、魅力は失われておらず、今後も魅力あるコンテンツとして利用する」と捉えることができるか。
楽観的な見解もありますし説得力はそれなりにあると思いますが、残念なことにしばらく経ってみなければわかりません。
私自身、今囲碁世界戦を追っていないのも、忙しさ(追ってた頃は学生だった)ももちろんですが日本勢がまるで勝てないことと無縁ではありません。学生だった7年前なら「勝てなくなっても世界戦を追う」と言っていたでしょうから、今そう思っていても自分がどうなって行くかはわからないものではないかと思います。
もちろん、第1回電王戦では、引退したとはいえ米長邦雄永世棋聖が敗北した以上、プログラムの実力がプロに匹敵するものになっていたことは将棋連盟も分かっていたはずで、棋士たちの敗北も(考えたい事態ではないにせよ)想定の範囲内で、それを前提に電王戦に棋士を派遣しているはずで、その場合のビジョンもあると思うのです。

また、日本において、将棋界と囲碁界はシステム的にかなり近似します。
電王戦後の将棋界がどうなっていくかというのは囲碁界にとっても貴重な先例であり(現状、革命的なことが起こらない限り5年ではプロの壁は破れないと見ます)、かつ今後の対応の試金石として強く注目されます。
将棋界の今後の動向に注目したいと思います。


また、電王戦は演出的に飽きさせなかったという意味でもよかったと思います。
ナレーションの人はもと将棋プロ志望だったという声優の岡本信彦氏(「とある魔術の禁書目録」の一方通行(アクセラレータ)役で有名)。岡本氏を最初から予想していて、ナレーションの声が岡本氏に聞こえなかったのですが、出てきてあ、やっぱり岡本氏だったのねと微妙ににやっとしたり、声優ってすごいなぁと思ったことを覚えています。岡本氏の将棋の方も橋本崇載八段(前年A級棋士)に飛車落ち(囲碁なら三~四子程度とされる)で勝ったというのですから、記念対局補正(※1)の可能性を考えても相当な腕です。
他にも、つるの剛士氏(羞恥心、ウルトラマンダイナで有名)、柴田ヨクサル氏(ハチワンダイバーの作者)をはじめ、アマでも強いレベルの有名人(記念対局補正にせよ、二人ともA級棋士を飛車落ちで倒している)が普及に協力してくれるのは大変にありがたいことと言えます。
むろん、こうしたエンターテイナーは狙って作れるものではありませんが・・・


もう一つ興味深いこととして、ニコニコではプログラムを使って棋譜を見ている人たちが多数いるようだ、ということです。
ニコニコでの中継では、強豪プログラムであるボンクラーズの形勢判断は常に画面の上に出ていて、観戦者の多くが一喜一憂したコメントを出していましたが、それだけではありません。
市販されている強豪プログラムの形勢判断などを借りながら対局を検討していると思しき人たちが、「自分の激指だと形勢はこう」みたいな感じでたくさん書き込んでいるのです。プログラムを使ってみている人がいる、と言うこと自体は知っていましたし、一人がたくさん書き込んでいるという可能性もあるでしょうが、これも一つの楽しみ方として注目しています。
ハチワンダイバーでも、カードゲームの応用で将棋のほとんどわからない人間が、並の真剣師では勝てないレベルで戦え、しかもそのバトルの様子が人間バトルに準えて画像化されるというものがありましたが、プログラムの力を借りることによって、棋力なしでは視覚化されにくい将棋の盤上の様子が再現できるようになれば、かなりおもしろくなりそうです。
現在のチェス世界最強はコンピュータでも人間でもなくコンピュータと人間の混成チームだそうですが、解説の最強も人間プロの解説とコンピュータの混成チームにできないか、時にはコンピュータと人間の判断でドンパチというのも一つの見どころにできる(第3局でもろに評価が分かれているようなシーンがありましたが・・・)という訳です。

現状の囲碁プログラムの力ではこれは困難と言わざるを得ないでしょうし、モンテカルロ法との相性もかなり悪そうに見えるのですが、将来的に一つの注目すべきあり方と捉えてよいかなと思います。




さて、将棋電王戦を見て、私自身も囲碁界のプログラムと打ってみたくなりました。
そこで、天頂の囲碁4(プログラム「Zen」が入っている)を買ってきて何局か打ってみました。

その結果を次の記事に書きたいと思います。


※1 囲碁では、記念対局などだと、プロはしゃかりきに勝ちに来ることは少なく、基本的に本手だけ打って丁寧に応対されまけたらそれまででいい、と言う対応が割と多く、プロがしゃかりきに勝ちに来るとハンデがどんどん重くなるので、そこそこ強いアマチュアの方がプロよりたくさん石を置かせるという現象があります。記念対局で林海峰に5子(将棋なら二枚落ちくらい)で勝った趙治勲は、入門したら入段前の加藤正夫に星目より打ち込まれた(将棋なら8枚落ちくらい)りしています。
本腰を入れだしたら記念対局での手合ではどうにもならない、と言うのは将棋界でも指摘されています。






最終更新日  2013年04月26日 19時02分43秒
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2009年06月23日
カテゴリ:囲碁~それ以外
私は、最初、神が相手でも悪魔が相手でも勝たなければならないと書いた。
これは、あくまでも「どんなに強い奴が相手でも、たとえ本当に文字通り極め尽くしたような奴が相手でも、勝たなければ否定的に評価される」と言う趣旨。完全知という意味でも、超越者という意味でも、どちらでも趣旨も結論も変わらないのである。

その後、棋士の努力義務を導くために、このような現状を前提に考え、打つからには打つ碁は勝たなければならない(余談ながら、自由参加制度などは考えてもいい話な気がする)、しかし現実にはそれは無理であろう(それができている人は今世界中どこ探してもいない)、それならば努力義務がなければならないという趣旨であった。
少し話を折るが、こう考えれば、彼の「絶対を求めるというのは身の程知らず」という批判の的外れも理解できるであろう。私自身「できたらいいけど、それは無理だろう」と組み立てているのだから。また、努力なんて当然過ぎて前提にさえなっていないというのも、実は私と発想が同じである。そもそもこんな話が出てきた原因はと言えば、ロクな根拠を示さず、違っていても他人のせいと開き直るような姿勢で努力をしていないと非難するなと言う某氏との軋轢が原因なのだから。
当然の大前提なればこそ、そこへの非難は激烈なものである、ということである。


話を戻そう。彼は、これに対し、いきなりぶつけてきたのは
「風の精ルーラは碁が分かっていない」
である。


いきなり人を怒らせるに十分な言質である。そりゃあ、私ごときに碁が分かるなら苦労はしないが、囲碁ブログとしても売っている私に向かってよそから言ってくれば、全面応戦したくもなる。しかも、出だしにこれを書いたことで、あとの文章は私の理解に対する攻撃となってしまった。彼は分けて書いているつもりらしかったが、残念ながら先述したような私の論法自体がよく分かっていないのだから全く意味がなかった。
内容面でも、私自身は上記のような現状を盾に分析していたにもかかわらず、彼は「神の目線からの碁」に終始した論法を貫いた。コミ6(または7)目半が現実の世界で、さらに自分の持論であるコミ選択制を押し立てた。
その後も、「例えとしての神や悪魔」について、マッチポンプのごとくお前がお前がと言いたて続けていたのである。

単に碁と言うのはこうするべきなんだというだけなら、これらの理屈も、ふーんなるほどで終わっていたはずだった。個別につまめば賛成できる点も少なくない。
しかし、現状を導く理由づけに対する攻撃にそのような論法を用いたことで、しかもそこで強力な言葉を用いたことで、彼の論法は横合いから変な人が来て、テーマからずれたところで攻撃している、非現実的な論法を盾に文句をつけているととる他はなくなったのである。

その傾向は今も変わらない。

× 碁に勝たなければならない
○ 碁に負けてはならない。

の違いは、神の目線の囲碁なら両者に違いは有意に現れるだろう。
しかし現実の棋戦評価においてはこれがイコールとして表れるのが現実であるし、それを前提に話をしていた。
しかし、彼にとって碁が分かっている分かっていないは神様≒自分目線に沿っているかどうかなのだから、私にはどうしようもない。


話を戻すと、決定的に事態をまずくしたのは私の応戦であろう。彼の言い分に乗っかって、神だ悪魔だという言葉を使用してしまったのである。これが燃料を与えてしまった。神や悪魔は例えに過ぎないということが分からない相手に、しつこく使うという愚策(自分で言うのもなんだが、愚策度がかなり高い)を使ってしまった。
後はドロドロである。空想世界と現実界が混ざったような意味不明議論(?)が完成ということになったのである。

私も根本的にまだまだであろう。


最後に。

解釈をすり合わせるチャンスはいくらでもあったなどと彼は言う。
しかし、上述の通り(前回も書いた)、完全知・全知全能という趣旨にとってもらってもまるで間違いではない。勝たなければならないと考えるのは碁を見る人たちだから、彼らにとっては、相手が誰であれという趣旨で書いている。私自身、どっちかではあるけども、どっちと定義する必要性を見出さないままにかの文章を書いている。
そもそもが例えの問題に過ぎなかったのである。

そこについて、いきなり横合いっから自分視点で「碁が分かっていない」などと殴りかかりも同然のことを言われ、しかもそれを連続で言いたてられて、さらに歩み寄れないのはお前の責任だ、などと言われなければならない理由はない。それは、まるでタチの悪い教えてくんのやることである。
彼が以前使っていた論法になぞらえた極端なたとえがまた浮かんだが余計な紛糾を招くのでここは自重しておこう。

※※※※※※※※※※追記※※※※※※※※※※

私自身、現実問題を考えるときに、「今年のアマ本因坊戦には李昌鎬が出ます」と言うような場合にどうなるかといった、現実には考えられない事態が今起こった場合を想定した上でこうなるだろう、と言う点から現実分析を説明したことは、彼との問答の中でもあった。

棋士は相手が人間を超えた相手でも、下手をすれば全知全能でも勝たなければ否定的に評価されるのは、少なくとも今の囲碁界ではその通りである。
彼は、そういった現状分析に対し、お前は分かっていないという。
しかし、彼は私が「現状このように見られている」という分析に対し、その「見られている中身」を盾に、人に分かっていないとか言っているのである。事実分析として「世間において刑事弁護が理解されていない」と言ったら「お前は刑事弁護の当然の倫理が分かってないんだ!!」と言われれば、頭は?マーク。
「世間ではこうだけどこうあるべきなんだ」と返せば十分に意味はあるのだが。(と言うか、それを以前さんざん叫んだ)

この点について、そんなことを言うのは一部の分かってない人だ、と彼はかなり後になってようやく言ってきて、少しの噛みあいに期待して論拠を追加するけれど、彼はやっぱり重大なことを見落としていると思われる。

例えば、今いきなりどこぞの天才少年少女が何らかの原因で本当に碁を極め尽くしてしまったと仮定しよう。(サヴァン症候群とか?)そうなった彼の極め尽くしに国際戦で全く勝てない日本棋士がどう扱われるか。相手が全知全能だから仕方ないと取ってもらえるだろうか。

答えはノーだ。当然マイナス評価である。達観して終わるだけで済ませてくれるかもしれないが、マイナスに評価されることは全く疑いようがない。
何と言っても、彼が「事実上無敵だ」と言うことは分かったとしても、解を出すかたまたま解と同じように打つしか勝つ余地のない全知全能だなんて、おそらく99.9999999%の人には「わかりようがない」からである。分かるには見ている人も全知全能あるいはそれに極めて近い水準になるしかない。そもそも山の険しさは頂上に近づいてやっと分かってくるものだ。(by海原雄山)


他の棋士がみんな6なら、7でも8でもいいかもしれない。
私がいつも言っている研鑚義務も、「常に勝てる」ならいらないと言っている。(無論、真理探究者としての棋士としての問題は別問題)
しかし、それはありえない。棋士は日本だけで何百人もいるのだから。それこそ矛盾である。
だが、棋士たるもの仮に90が出たら91がなければいけない。
99が出たら100がなければいけない。
100が出たら100で対抗するしかない。(この場合、常に○目差の碁ばかりか、無勝負の碁ばかり打たれることだろう)
それができなければ、やっぱり×。というより、ここまで高次の義務を第一次的に要求する代わりに、無理ならばという防衛ラインがあると言う面もあるが。


最後に。彼はレトリックだというのを逃げだという。

しかし、レトリックといっても一般名詞同然に使われている派生語などいくらでもあるし、例えとして実際にはまずないけど起こったらどうなるというのは往々にしてある。。
そしてそれを周辺の文脈と合わせて趣旨を理解するのは、当然読み手側の責任となることはいくらでもある。そして、その例えを現実把握のために使ったことも説明してきた。
ある一定程度のレトリックにおける書き手と読み手の齟齬は、書き手の責任を問われることもあるし、残念ながら少なくとも書き手の責任ではない不幸な誤解と判断されたり、内容によっては読み取れない読み手の方が非難されるようなこともある。
ぶっちゃけた話、私自身の根拠もあやふやな個人的予想と断った上で言えば、神様という言葉を使ったことに威勢良くつっこんだはいいけど、結論的に定義がそこまで本題と関係なかったので、私の言葉遣いが悪いんだ、といっているようにも思える。この点、被告人の弁解を作り上げた、と騒ぎたててそれが違うと分かった途端に説明責任に話をシフトしたどこかの府知事に近いものを感じているのもまた事実である。(まあ、弁護における世間への説明責任論と違ってこちらはもう少し論拠としてまともなものであるが)

今回の騒動が上記のうち、誰が非難されるべきレトリック(あるいは、不幸な誤解で済まされるべきレトリック)に当たるか、また私の予想が当たっているのかどうかについては、彼はいろいろ言うかもしれないが、読者諸賢の判断に任せることとしたい。



再追記

まさしくダメだこりゃである。なぜ彼が大きな顔をできるのだろうか。

>勝手に今の囲碁界ではその通りと言っているが、「棋士は全知全能の神が相手でも勝たなければ否定的に評価される」なんて言う人間が、風の精ルーラ氏以外にいるのか?

彼は、私自身も数回書いた一番大切なプロセスを見落としている。
それは、全知全能と理解するかということ。本当に全知全能と分かるなら、勝てなくても仕方ない扱いされるかもしれない。
しかし、現実には「とにかく強い人間」としか見られない。勝つ機会のない相手だなどとみなしてもらえるとは考えにくい。私はそれも含め、例え本当に全知全能が現れたところで、負けたら非難される構図は変わらないと判断している。(無論、相手が強いということで事実上見逃されることはあるだろうが)



余談だけど事実上の本題。

今度のアマ本因坊戦では李昌鎬が出るというのは、あり得ないことが起こったと仮定して、それに対してどのような反応が起こるかという話であり、今回もまさに全知全能の登場というあり得ないことが起こって、それに対してどのような反応が起こるかを考えている。
無論根拠は脳内。論拠はあってもアンケートを取ってはいない。それを開陳したからと言って客観的事実の捏造になるわけなどない。競馬新聞の予想が外れたからと言って客観的事実の捏造になるわけがないのと同じだ。

私の分析が間違っているという指摘自体は見解の相違であろう。

しかし、こういった分析の開陳をもって客観的事実の捏造と評されては、予測し、それをもとに言論を展開することは不可能になる。
それどころか、彼自身、「自分の解釈」を騒ぎ散らしているではないか。そっちには客観的根拠があるというわけではない。

自説を開陳するからには、自分の意見は正しいと思うだろうし、世論分析をするなら世間はそう考えると判断するのは当たり前。それを

>客観的事実を捏造してまでとんちんかんな主張をする。

客観的裏付けのない想像世界において、反対説は全て事実の捏造で道理がわかっていない扱いする気なのだろうか。彼自身、自分の発想と違うから騒いでいるようにしか見えないが、それを私が彼の事実の捏造やら道理がわかっていないと評してよいのだろうか。私は彼の理解に反対だがそこまでしない。

日本の言論の自由さを改めて感じた(もちろん大切なこと)次第である。






最終更新日  2009年06月27日 02時42分33秒
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2009年06月20日
カテゴリ:囲碁~それ以外
>その功利的な発想が「分かっていない」と言われるゆえんである。「何かの役に立つ」から(囲碁、数学、哲学などを)考えるわけではない。そこに問題があるから考え、誤りがあればツッコミを入れる、というだけの話だ。

彼に何が分かっているのか実に怪しい気もするがそれはさておくとして、棋士の努力義務と言う現実的な問題を考えるに対し、「そこに問題があるから」と言う姿勢で臨むことが適切であるのか。しかも、彼はそれを盾に、現実的な問題に対して否定説をぶち上げているではないか。

>神や悪魔という「非現実」のレトリックを先に使っておいて、その誤りを指摘されると全く関係ない、今回は現実的な問題と言って逃げる。

いや、当然の話ですから。
神とか悪魔と言う言葉にいくつもの意味があり、文章の中で意味が異なるのは当たり前の話。
まして、あの文章の主題は「神(ここでは碁を極め尽くした者の意味)から」見た碁がどうかではないのだから。

神とか悪魔と言う言葉は、人外の何かを持った者、あるいは概念としての全知全能者に対してよく使われる言葉で、もはや一般名詞として通用する言葉であろう。2ちゃんねるのスラングに限った話ではない。
これをもって文字通り宗教上の神しか浮かばないよと言うのであれば、本当に彼の目の前では故事成語一句ろくに使えない。
趙治勲が「番碁の鬼」といわれるのは、別に彼が本当に鬼だからではなく、空想上の鬼のように強かったからだ。
神とて同じである。碁神道策なんて本が売り出されているが、実際道策が神だった、あるいは碁を極め尽くした人物であるとは考えにくい。少なくともあの時代においてはもはや他が全く太刀打ちできない、神のごとく強かったからだ。

無論、それでも間違わせたのは、書いた方の力量が足りないのかもしれず、その意味で偉そうなことは言えないのは間違いない。
ただ、ここまで通用している言葉を一方的に曲解し、人にも空想の話だと理解してほしいなどと言っておきながら、攻撃的な言説をいつまで経ってもはき続けなければ気が済まない彼は一体何なのだろう。

>まず本題とは関係ないことを書いてしまった自分の文章を反省すべきだろう。

残念ながら無関係ではない。相手が誰であろうと負けたらダメな世界であるというのが、勝つ義務の後ろ側にある棋士の努力義務を導く理屈になっているのだから。
論理展開に違和感があるというのは結構だが、一番神という言葉にこだわっているのは彼であろう。 

>彼は、「まるで宗教家」という言葉を「低級ギャグ・茶化す」という意図で使っていたことを自ら白状した。

少なくとも、現役の誠実な宗教家の人には詫びるべき表現であると今にして思えば思う。
と言う訳でかの文章を読んで気分を害した宗教関係者の皆さんがいるのであれば、ぜひここでお詫びしたい。


ただし、少なくとも、現実社会の問題に対して、空想的な観念を持ち出し、それを盾にあーだこーだといいたて続けるのでは、結局何にも変わらない。現実社会とあい入れようとしない、言ってみればカルト宗教の悪い部分と同じ病巣が出ている。
その意味で、少なくとも茶化しとしてあの言葉を使ったわけではないことは、声を大にして宣言させていただく。

他方、私のHNがどうであったところで、この本題になど何の関係もありはしない。それが分からぬ彼ではないはず。
それがいかにくだらないことか、彼のHNでも指摘したが、不興を買ったようである。確かに、相手のおかしな行為のまねをするというのは、反例を示すという意味では悪くないとは思うけども、場を選ばなければならなかった。結局私自らどっちもどっちの世界に落ちたことは間違いあるまい。






最終更新日  2009年06月20日 20時19分34秒
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2009年06月14日
カテゴリ:囲碁~それ以外
少なくとも、彼がTBした内容は、そうとしか評しようのないものだった。


>「神様」という言葉を使っているのだから、非現実・仮定の話(極論)だと理解してほしいものだ。その極論を「宗教」と言ったり「芸術」と言ったりするのは、言葉を間違えている上に話の本質も捉えていない。

その通りである。これが仮定の話であることを今さら否定する気はない。
ぶっちゃけ、そこだけつまめば賛成ですらある・・・と前も書いた。


問題なのは、今この論争が、そういった非現実・仮定の論争を持ち出して何の役に立つのかという話である。哲学を論じたり、論理を考えるにあたって仮定の論争を持ち出すことに意味があることを否定する気は全くない。私自身常々使う。
しかし、神と神とで碁を打った時にどうなるという話が、「囲碁界の現実」は負けたら相手がだれであっても文句を言われてしまうということに何の関係があるのだろう?ということである。

全く関係ない。今回の問題は棋士の努力義務という現実的な問題なのである。
現在の刑罰をどうあるべきか考えるときに刑罰のない理想社会の話ばかりされているようなものである。
全く関係ないところに仮定の芸術論、神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう、現実社会について考える気のない人かということになってきてしまうのである。


むろん、比喩を比喩でないと誤認させたのは、私の落ち度かもしれない。
もっとも、例えば李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔であったとしても、現実には負けたら叩かれるのであるし、その意味で囲碁界の現実はこういうものだと示す趣旨は十分に示せているものと思うが。(たとえそうであったところで彼が神や悪魔だなんて認識できるはずがないのだから)
 出番の違うことになってそれは違うと言われたらマッチポンプなどと言われても、はい?の一言である。
 例え相手は碁の神だ、勝てなくて当たり前と達観できる人がいたとしても、そんな仙人みたいな人基準で囲碁界は運営できないのが現実であろう。


>「宗教家のような名前」と言われただけなのに、この発言はなんだろう。もしかして彼の中で宗教は「公序良俗に反すること」なのだろうか。

 少なくとも茶化されにゃならぬHNではないと言いたいだけである。
 風の精だからさっぱりした人間を想像してたけど実物見たら全然違ったと書かれたこともあったけど、そんなことで心から怒ることなどない。(ネタにして後輩にハッパをかけたことはありましたけど)



>「本当に強い人は自分の「無知」を知っている。」

 別に実際自分のレベルがどれくらいであるかを悟ることと、究極的な目標をどうするということは何らの矛盾もない。
 むろん、そのための中間目標を設定することはよくあることである。それが、タイトルを取るだったり、誰それに勝つだったりする。
 ヒカルの碁でも「碁の神様が自分の相手をさせるために人に碁をさせている」みたいな話はあったが、あれは彼にとってなんなのだろうか?碁が分かってない人たちがあのマンガを描いたというのであろうか。


 また、新幹線を光速にしようというのであれば無茶なことを、しかも意味がないということになるが、「宇宙船を光速にしよう」という目標であれば、意味があることと言えるだろう。(光速宇宙船ができれば、ケンタウルス座αやシリウスと言った星系を人類が探索することも可能となりえる)
 しかも、囲碁と違ってこちらには現実解がある保証がない。必死に探り探って「ありませんでした」と言う可能性と闘わなければならない。超光速に関していえば、解がないという保証が少なくとも現段階の科学ではある領域だ。

 しかし、囲碁には少なくとも「何らかの解がある」ことは明らかだ。だから、こんな目標を「究極として」設定することにもそれなりに意味があるのである。
 もっとも、さらに現実的な話を言えば、別に神様同然に碁が打てる必要まではなく、他の誰にでも勝てればよいのだけども。 


※追記※



>「尊厳」の辞書的な意味は「尊く、厳かなこと」である。当然有すべき価値ではなく、前に書いていた 尊重されるべき価値 の方が正しい。使っている本人の定義がブレてしまう言葉は使わない方がいいだろう。

残念ながら、個人の尊厳は憲法の最高価値である。
尊重すべき価値ということで訂正させていただきたい。

>囲碁ファンは「勝利の物語」「魅せる棋譜」を買う。

 そして、そのためには下まで買わなければいけない。
 勝利の物語や見せる棋譜だけつまみあげて買えばいいというほど囲碁は甘くない、それだけのこと。
 では、そこで下は無償で上にあずかって金だけもらうのか。そういうものではあるまい、といっているのである。

>「本因坊戦で4勝する」のは勤労ではない?

 ポカーンである。
 「義務という言葉はもっと重いものだ」と言ったから、精神的訓示程度にしか使われない義務の例として勤労の義務という言葉を出したのだ。しかも、納税の義務という言葉を使ったから、納税の義務と並ぶ勤労の義務を引き合いに出してこんなのでも義務だと言ったのである。
 勤労の義務は、当然憲法の条文に由来。その程度で義務とよばれるものも世の中には確かに存在するということの反証を掲げたら、途端にすれた反論が返ってくる。

 それでもって二言目には「碁が分かっていない。」
 彼の考えている碁がどうなのか、片鱗くらいは知っているが、彼の理解する碁と、今の社会で根付いている碁というのの違いをはっきり認識していないのではなかろうかと思えてならない。
 彼の大好きなコミ自由選択制が今どこの公式戦で採用されているのか、教えてもらいたいものだ。別にそれは彼の考える碁の本質が間違っているからとかそういう問題ではなく、現実がどうであるか。現実を前提に、どのように考えるべきなのか。私が論じたいのはそれだけだったのに、彼がいつしか碁の本質がどーたらこーたら議論を横合いからぶつけてきた。
 もちろん、私の現実分析がおかしいという批判なら、真摯に受け止めなければなるまい。
 だが、それをもって、私が碁が分かっていないと判断するのならば、もうそれで結構、ご勝手にしてくれである。現実の囲碁界を考えられない人たち相手にそんなことを言われても何の痛みも感じない。それはあたかも、わけのわからない宗教の人たちに「あなたの行為は神の教えに反する!」といきなり言われたのと同じ反応である。
 まあ、現実にどれほど碁(棋理)が分かっているかと言えば、小さい頃から積み上げた勘だけで打っている私などコンマの後に0がいくついるのか分かったものではない。
 
 

 >(プロの対局は)それ自体1文も生産しないという発言といい、芸術・娯楽分野に関する理解がなさすぎである。

 何度でもいう。
 碁に対して金を出すかどうかは人々が決めること。それはどんな芸術分野、スポーツ分野とて同じ。囲碁なんかに金を払わないと皆が考えれば結局捨てられる。それだけのことである。第一次、二次といった産業と異なり、なくたって困りはしない。

 誤解のないように言えば、囲碁というゲームは楽しいゲームだし深遠なものだと私は思う。
 だからといって子供のような芸術マンセー、囲碁マンセー論をぶち上げるだけの言説には、私は価値を見出さない(子供や初心者に普及するのとは違うのだから)。
 例えピカソの絵でさえ、価値を見出す人がいなければ破られ灰になってようが上から駄作な絵が描かれようが、いずれにせよ1円の価値にもならないのだ。






最終更新日  2009年06月16日 03時39分38秒
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2009年06月07日
カテゴリ:囲碁~それ以外
~冒頭の独り言~

なぜ官僚や法律家が現在のようなやり方をやっているのか。なぜ官僚作文が必要かと言ったら、「官僚は誤れない」からである。
拙速に判断して誤ることは原則として許されず、検討すべき点を検討することが何より重視される。行政処分を取り消せという裁判になれば、重要な争点は「検討すべき点は何で、それを本当に検討したのかどうか」である。
その結果、結論をホイホイ出すことができず、それでも検討中の事項について中間的な判断や私見を求められる場合が少なくない。その結果、奥歯にものの挟まったような、結論は結局どっちなんだというような文章が増える。つまり、結論が出ていない状態で出せるコメントに、所詮結論が含まれるはずもない。

一刀両断型が好きな人たちにとっては、「いらっ」とくるのは分かる。

しかし、その「いらっ」のままに官僚が活動することが許されるのかどうか、ということがある。


さて、この文章に対する反論の文章は以下の通りである。


>「風の精霊」というペンネーム。

ポカーンである。
それを言い出すならhidew氏のHNなど、私に言わせればまるで通じない暗号である。

仮にも4年以上このHNに親しんできたのである。
事ここに至って人のHNを茶化すとは低級ギャグも極まれりだろう。このHNで囲碁界言論論争などちっぽけ論争に思えるくらい悲惨な事件も、ぎりぎりな事項も論じてきているし、それを知らない訳ではあるまい。無論、その際にはそれにふさわしい筆致にしているつもりでもある。(筆が滑っている面も無論あるかもしれないが)
また、公序良俗に反するHNではないと自負はしている。また、前々からhide-w氏が楽天ブログを嫌っていることは知っているし私自身不便を感じることも多いが、4年以上温めたブログを放置したいとは思わない。

ちなみに、風の精霊と風の精ルーラは気分次第である。初期は、ある程度区別してもらおうかと考えていたが、相当程度浸透してしまったためにどちらでもよくなった。
厳密にいえば、ブログ主との人格の同一性をある程度強調したい場合は後者ということになるのだろうが、あまりこだわりはない。

>「神様同士が碁を打ったら…」という比喩が理解できないのは、やはり「碁が分かっていない」ということなのだ。

いや、実に宗教的な話である。と言ったら宗教の人に失礼かもしれない。
別に神を信じるとかの話ではない。現実問題として、絵のような碁を打てる棋士などどこにもいないというのが今回の問題における検討の大前提である。
なるほど名局好局と言われる碁はいくつもある。しかし、それが碁というゲームを極め尽くした結果であるのかと言えば、それはノーだというのがまずは常識的な感覚だろう。本当に極め尽くしているのなら、絶対無敵将軍である。(可能性があるとすればコミがおかしいことだが、コミのせいで負ける碁しかないとは、残念ながら私には考えられない)
当然そんな人物には、過去にも現在にもいないし、今後出ることもおそらくないであろうと思われる。そして、そのような人物が「現実に出る」ことを前提に考えるのはばかばかしいことである。少なくとも、勝負という視点が主眼である、囲碁界における棋士論を考えるにあたって、神と神とで碁を打った際の理由など「どうだってよい」のである。そこにおいて囲碁の芸術とかそんなのを持ってきてあーだこーだわめかれても、宗教家を相手にしているとしか思えないことになる。
少なくとも現実世界において、勝負のつく世界に関しての現実議論であーだこーだ考えるべきことではないし、そこにおいて彼の言う意味で碁が分かっているかどうかは、この問題について何の関係もない。

ちなみに、私個人としては、神と神が碁を打てば芸術品のようなものという見解には全く賛成だし、究極的には、そういった芸術品のような碁を打つという目標が棋士には設定されていると考えている。
問題は、現在の囲碁界がそうなのか、それを前提に構築されているのか、いないのに勝手に非現実的囲碁論=神様的囲碁論を持ち出すから宗教的だというのである。自分がどの点で?と思われているのかご理解できていない方に、碁が分かっていないといわれるのはなかなか来るものがある。(ま、尊厳がどうだという問題だとは思わないけど)

>おそらく「名誉毀損」の「名誉」と同じ用法で、「尊厳」という言葉を使いたいのだろう。

自分勝手な推測に基づいて意味を設定してしまっている。自分で藁人形を作るのは楽だし、ケースによっては必要なことも認めるけど。
確かに、この事例では、その用法でも結論においては似たようなものだ。
とはいえ、私はもっと尊厳という言葉を重い意味で使っている。尊厳とは私には「当然有すべき価値」である。その価値の一つには名誉も入っていると考えているのだ。

>プロが努力をするのは第一に「自分のため」であり、第二に「ファンの期待に応えるため」である。「期待に応える」という程度のことを「義務」と言ってしまうのも無用にややこしく、おおげさな表現である。「義務」というのは納税の例えにある通り、もっと重いものだ。

 そういう期待にこたえさせんがために、碁という「それ自体1文も生産しないゲーム」をやっていろ、それで生活させるというのである。
当然、棋士としてはそれに対応する義務が発生して当たり前ということになる。でなければこの不況の時期かつ多くの棋士が棋譜を目に触れさせることなく沈んでいく現代において、誰がプロ棋士に対局料や給料を払うものか。セーフティーネットという色彩があることも否定はしないが、慈善事業だけで億単位の金を新聞社が払ってくれると思ったらそれは甘いだろう。(個人で指導などを依頼するのは別)新聞社とて、ただで金をばらまく趣味などあるまい。
また、義務は重いというけれど、国民には「勤労の義務がある」ということはどう考えているのやら。かつて指摘したが、勤労の義務という概念は法的にはさほどの内容がない。相続財産がたっぷりあるから、働かずに生きていきますと言ったって何のケチも付けられない、言ってみれば精神的訓示である。
仮にも「納税の義務」を引っ張ってきたということは、今さら憲法が悪文だなどという主張をするわけではよもやないのであろうが・・・


>音楽家や小説家は、ファンから「努力の義務がある」などと言われることはない。優れた作品を創って、それを売って生活する、それだけの話である。

私は研鑽という言葉を用いるのであるが、ここでは彼の努力を私の用語の研鑽に置き換えて話すとしよう。
私の用語の研鑚は、もっと大きなもので、言ってみれば勝つために最善を尽くすと言ってもよいものだ。もしも「俺は毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れない方が勝てるんだよ」という棋士がいれば、(無論いないし、いても信じてもらえないだろう)、毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れないのも、研鑚と私は考えている。
なんにもしなくても優れた碁が打てる、勝てるというのであれば、私は一切の研鑚を求めないであろう。
だが現実がそうではない。死に物狂いで勝つために色々なことをしている(であろう)トップ棋士でさえ、勝てないという現実が存在している。

勝てばよい。しかし勝てないのが基本。
それなら、勝つために最大限のことをせよ。それが私の言い分の骨子である。

ちなみに小説や絵画は勝負ではなく、ただ自分一人で素晴らしいものを作ればいい、それだけ。それに、駄作は誰も勝ってくれないし、生活の面倒も見ない。囲碁界はそうではないのだ。宗教世界における芸術としての碁はともかく、現実世界における勝負のつく碁とはおのずと異なる。
ある時はゲルニカ、ある時はひまわり、あるときは風神雷神が出てくる、いわば至高の存在が無制限に、しかも人によって(!)存在しうるのが芸術世界である。だから、誰かに勝てなどという目標を設定する必要は全くない。






最終更新日  2009年06月08日 23時59分15秒
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