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花と野菜とクラシック音楽と...~松江市の農家より

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2013年09月09日
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カテゴリ:観光

 出雲札所18番、巌倉寺と19番、観音寺にお参りしました。さらに、広瀬町内の他の寺や神社もお参りしました。

IMG_1960.JPG

巌倉寺参道。

IMG_1962.JPG

観音寺。巌倉寺の境内にあります。

IMG_1964.JPG

巌倉寺にある堀尾吉晴墓。

以下、その説明文。

 堀尾吉晴は、尾張国丹羽(にわ)郡御供所(ごくしょ)村(愛知県丹羽郡大口町豊田)
出身の武将。織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉配下の武将として活躍し、
後の豊臣政権においては、三中老の一人に任命されるなど、秀吉の信任が大変
厚かった。

 遠江国浜松(静岡県浜松市)城主時代の慶長4年(1599)に隠居し、息子の忠氏
(ただうじ)に家督を譲り、徳川家康から越前府中(福井県)に5万石を隠居料として
与えられた。

 慶長5年(1600)、 忠氏が関ヶ原の戦いでの戦功を賞され、出雲・隠岐24万石の
領主となった際、共に富田(とだ)城に入城したが、慶長9年(1604)に忠氏が急死
したため、まだ幼少であった孫の忠晴の後見として政務に復帰した。

 吉晴は松江城の築城と城下町の整備に着手し、慶長16年(1611)松江城が完成
すると、同年65才で没した。戒名は「法雲院殿前佩帯松庭世柏大居士」。遺骸は、
遺言により当地に葬られたと伝わる。

 この五輪塔は来待石製で、高さはおよそ3mを測り、来待石製五輪塔としては
最大級のものである。空風輪・火輪・水輪・地輪の各石材の四方には薬研彫りに
よって梵字が刻まれている。

 また、墓の前面には灯篭の基礎と見られる四角形の石柱があり、四方に仏像が
陽刻されている。

IMG_1965.JPG

巌倉寺。

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城安寺。

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富田八幡宮参道。

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富田八幡宮。

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須賀神社。

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洞光寺。


以下、境内にあった追悼碑由緒の説明文です。 

 出雲守護尼子氏は、宇多天皇の末裔で世にいう宇多源氏である。当初、尼子持久
は、 京極高詮(たかのり)の守護代として出雲に入国したが、清定を経て経久の
時代になると、領国大名として大きく成長し、大永年間には陰陽11ヶ国に覇を唱える
に至った。かくして81年、孫晴久を経て義久の代に至り、毛利元就の抬頭にあい、
これが攻略を受けて遂に降るにいたった。しかし尼子氏の後裔は、今日尚連綿として
続き、時あたかも尼子氏500年の大遠忌に祭り、その子孫である佐川英輝、佐川
守利、尼子瀧雄氏等の一族は共に相はかり、尼子氏歴代諸霊の追悼碑をその遠祖
清定、経久両公の開基である洞光寺境内に建立して、その冥福を祈られる事となった
ので、ここにその由緒を誌す次第である。

 昭和47年5月吉日    尼子旧史顕彰会

IMG_1974.JPG

洞光寺から望む月山。

IMG_1975.JPG
月山富田城主 尼子清定・経久両公墓所(以下その説明文)

 この宝篋(ほうきょう)印塔は、もと洞光寺所在地であった月山麓金尾の地に設け
られていた。

 寛永年間(1624~43)、金尾より現在地に移寺した際、開山歴代住職の墓標と
共に、開基、尼子清定・経久両公父子の墓標も奉遷され、開山歴住墓と並んで
まつられていた。

 降って、昭和33年(1958)、金尾洞光寺跡を仔細に調査し、かねて欠けていた
経久公墓標の上部にあるべき相輪部分を現地に発見し、これを持ち帰り、また更に
現地墓地跡より石垣用の組石200数個を運搬して石垣を組み上げたのがこの塋域
(えいいき)である。

 両公の墓所については他説もあるが、寛永年間、つまり経久公没後83年後金尾の
故地から、この地へ寺基と共に塔を奉遷した当時の人々の熱い信念を慕うものである。

 右 洞光寺殿華山常金大居士(尼子清定公) 没年月日不詳

 左 興國院殿月叟省心大居士(尼子経久公) 天文10年(1541)旧暦11月13日
                             僧名省心・84歳 富田城内にて没

                                              住職誌

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子供に混じって90歳の方が書かれた似顔絵が...。






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最終更新日  2013年09月19日 06時27分35秒
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