会社のプラス思考9「すべての人に使命がある」「使命を思い出すには?」「企業の活性化とは?」+今日のいいこと「自然が残してくれた大プロジェクト」
■すべての人に「使命(役割)」がある もしカールルイス(古ければモーリス・グリーン)が小さな頃から音楽の練習に励んでいたら、ひょっとしたら一流の音楽家になっていたかも知れない。しかし、陸上競技のような世界的な音楽家になっていたかどうかは分からない。やはり、彼は陸上競技、しかも短距離に天賦の才があったと考えるのが自然ではないだろうか。福島大学助教授の飯田史彦氏の「生きがいの創造」によると、人間は「次生の自分の使命を決めて」生まれてくるが、誕生の瞬間に記憶が消されるため、せっかく決めた自分の使命を忘れているそうだ。「使命」というのが大袈裟すぎるという人は、「役割」と言い替えてもいいだろう。これは膨大な科学的資料に基づいて、客観的に導き出された結果だそうだ。私はこれが真理かどうか分からないが、これまでの様々な体験から、間違いないと思っている。※えらいこっちゃ! この文章で「間違いないと思っている」が「間違い と思っている」になっていました。 今、れおなるど・てんぷうさんからご指摘があり、 大笑いしてしまいました。 いや、大笑いしている場合ではありませんね。 まったく反対の意味ですものね。 100名くらいの方がすでにアクセスしてくれてい ますので・・・・反省。 すぐに修正しました。 すでに読んでいただいた方には、深くお詫びいたし ます。 れおなるど・てんぷうさん、ありがとう!はい、気を取り直して、では、どうすれば「自分の使命」を思い出すことができるのだろうか?■使命を思い出すには?記憶が消えていたとしても、心の奥深く、つまり潜在意識では確実に覚えている。さて、「自分の使命」を思い出すための最も有効な方法は、天職のところで触れたことがあるが、「自分が一番好きなこと」「好きなことをしているだけで、自分も周りの人も幸せな気分になること」「いくら徹夜しても疲れないこと」などをチェックすることだ。また、案外「自分が最も嫌なこと」が「使命」に関係しているかもしれない。飯田氏によると、「人生の節目節目に自分を試す試験問題を用意していて、これをどう乗り切るかで後の人生が変わる」そうだ。この意味で「自分が最も嫌なこと」が自分が用意した試験問題であり、これを乗り越えたとき大いなる「使命」を発見できるのかもしれない。さらに、「使命」の多くは、「天賦の才能(天分)」として備わっているようだ。ただ、使命を自分ひとりで発見できるとは限らない。両親、学校の先生、会社の上司などが見つけてくれることもよくあることだ。そのためには、見栄や過度な期待や思い込みを外し、一人ひとりの人間をありのまま受け入れることが必要になる。カール・ルイスやモーリス・グリーンがオリンピックで大活躍できたのも、「陸上の短距離界のスーパースターになることですべての人類に希望を与える」という彼の使命を見抜き、育てた人がいたからだ。世の中には飯田氏の見解に対して、「そんなオカルトみたいなことは信じられない」という人が大勢いる。しかし「そんなこともあるかもしれない」と肯定的に受け入れ、「すべての人に使命(役割)がある」と思って周囲の人を見回してみよう。「あの人には使命がある」「あっ、あの人にも使命がある」「・・・・あの人にも・・・・あの人にも・・・・」「みんな、使命を持って生きているんだ!」どうだろうか?すべての人が、輝いて見えてこないだろうか?そして、その視点を自分にも振り向けよう!すると見えてくるはずだ。いや、思い出すはずだ。自分の使命を。自分の役割を。■企業の活性化とは?企業の活性化とは、単に笑顔があるとか、挨拶の声が大きいというだけでなく、社員一人ひとりが使命(役割)を自覚してイキイキと活動している状態をいう。昔から、企業の活性化策として社員教育の充実が求められてきた。教育の本来の意味は「引き出す」ということ。何を引き出すのかというと、過剰な競争心や嫉妬の心でなく、一人ひとりの使命や役割だ。この意味で、経営者の最も大きな仕事は、本物の社員教育(共育)を行うことだ。そして、すべての社員が自らの使命を発見し、自覚する手助けをすること、そして使命を自覚した社員同士を融合させ、価値を生み出し、世の中のあらゆる存在に喜んでいただくこと。これこそが、経営者の使命なのだ。まず経営者自身が、すべての社員に使命(役割)があると自覚することが、企業にとって最高の「プラス思考」なのだ。--------------------------◎今日のいいこと■自然が残してくれた大プロジェクト こんな言葉を見つけた。 自然が山野を描く如く、描きうる画家がいる だろうか? 自然がほどこす彩色に挑みうる想像力を、 誰がもちうるだろうか? 【トムソン】トムソンは、18世紀初めに活躍したイギリスの詩人。溢れんばかりの詩人の感受性をもってしても捉えきれない自然の圧倒的なスケール。そして美。眼前の自然に息をのみながら畏怖する詩人の姿が目に浮かぶ。さて、ここ数年、美しい自然に囲まれた地域から、地球環境問題の講演を依頼されることが多くなってきた。「こんなに緑が多くて、美しい川が流れるところでも地球に思いを寄せる人たちがいるなんて、嬉しいな」と思うこの頃だ。地元の人は、「この美しい自然を未来の子どもたちに残したい」と異口同音におっしゃる。私としてもこの言葉を聞くたびに、地球環境の実態を正しく伝える大切さを実感する。 ところで、地元の人たちと話を進めるうちに、必ずと言っていいほど「開発」という言葉が出てくる。「美しい自然を残したいという思い」と「開発が遅れることで周辺地域から取り残される不安」とが交錯しているのだそうだ。「周辺地域はリゾート開発によって人が集まり、どんどんにぎわいを増しているのに、この地域では人を集めるものが何もないので、さびれるばかり。自然を残したいという意欲も揺らいできます」。これが代表的な声だろう。 私は、「そうですか。多くの人が集まると活気が出てきますからね」と受けとめる一方で次のような話をする。「以前、沖縄の宮古島に遊びに行きました。なぜ宮古島にしたかというと、沖縄本島や石垣島などに比べて開発が遅れているからです。何もないというのは、それだけで素晴らしい価値があります。自然がそのまま残っていということですからね。宮古島に来ていた多くの人もそう言っていました」。つまり、これからは「何もない」ということが大きな魅力になるのだ。 もし、東京や大阪に1000メートル級の山並み、美しい水の流れる渓流、サンゴ礁が輝くマリンブルーの海などを造るとしたらどれほどのお金がかかるだろうか。おそらく数兆円以上、というよりも実現不可能だろう。私たちは、10億円のリゾート施設を作るために、何兆円も出しても創れない自然を壊しているのだ。こう考えると、何もないように見えて、実は「大自然が巨大プロジェクトを遥か昔に完了してくれていた」ということが分かる。私たちは、いまさら「開発」に頼らなくても、自然の残してくれた「大プロジェクト」を思う存分活用すればよいのだ。 私たち人間は、その地方特有の自然を活かした本当の意味での「開発」と自然を根こそぎはぎ取り、巨大な建造物にとって変わらせる「乱開発」とを混同している。『開発』は本来仏教用語で「かいほつ」と読むそうだ。本来の意味は、「如来を信じる心が起こること、真実の智慧が起こること」、具体的には「その土地やその人の特長を活かしきる」ということだ。現在私たちが使っている「開発」は本当は「乱開発」と呼ばれるべきものなのだ。乱開発によって、土地が根こそぎにされていることは衆知の通りだ。付け加えるならば、阪神淡路大震災のとき、何でもあると信じられていた都心部には、生きていくのに必要なものは何もなかった。一方、何もないと信じていた農村や山間部には、生きるに必要なもの(水や山菜など)がすべて揃っていた。私たちは、この事実を思い知ったのではなかったのか。ノドもと過ぎれば熱さ忘れる。またもや「かいはつ」合戦が、以前にも増して進行している。 とはいうものの、これからは、何も手を加えられていない素晴らしさを求める人が増えてくるだろう。彼ら・彼女らは、自然を愛し、美しい自然を未来に残そうとする人たちだ。多くのリゾート地のように、ごみのポイ捨てに悩む心配もないだろう。以上のことは、自然に含まれる我々人間にも当然あてはまる。人間開発(かいはつ)ではなく個性開発(かいほつ)を心がけることが、特に子育てにとって必要ではないだろうか。 私は、「開発が遅れていること」を喜び、「何もないこと(実は何でもある)」に感謝できる時代がすぐそこに来ていると実感できる。私たち人間もすべての飾りをはずすことで、「自然のままの魅力」を発見できるはずだ。何もない人こそ、輝いている!