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令和5年の安藤平左衛門日記

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2019年03月11日
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元和3年(1617年)

東照社(東照宮)造営副奉行を務めた本多正盛は同僚との意見の対立がもとで

諍いとなり相手を刀の鞘で打ちすえてしまったそうです。この件が原因で相手の

山城宮内は自害、その責任をとって正盛も妻の妹の嫁ぎ先である板橋城の城下

で自刃、遺骸は例幣使街道(国道121号)に面した板橋の福生寺に葬られました。

元和3年4月22日41歳でした。直前の4月4日には東照社が完成、16日には

将軍秀忠が日光へ到着して17日に東照社の祭礼が行われるという大事な時に

不祥事を起こした責任を取らされたわけです。諍いの真相は分かりませんが

恐らく東照社造営工事に関する意見の食い違いがあったのでしょう。

(東照社が東照宮となるのは宮号が宣下された正保2年(1645)11月以降)



家康側近の剛弓の名手の内藤正成
織田信長が、諸国の知名の士の氏名を書き集めさせたとき、武功で知られたものには、その氏名の上にみずから黒点を加えた。正成もその一人で、そのため「点のかかった覚えの人」と称せられた。 (徳川十六神将と讃えられた武将の一人で
武田軍にも恐れられた武勇の人)

正盛は正成のの三男として生まれ、本多忠信の養子となり


下総小見川藩や高崎藩主であった安藤重信の娘と結婚、正盛の子三人は後に

安藤家の養子となり長男重長は家督を継いで高崎藩主となっています。

天海僧正と関係が深い右京之進重長は寺社奉行を勤めておりました。

(天海大僧正は全国の七福神めぐりや江戸の町づくり*日光東照宮造営など~~

江戸幕府初期に活躍しました。)

ちなみに正盛公は若い時「神君伊賀越え」に随行したとか〈7歳ぐらい)?
東海の大大名の徳川家康ですから少なくても100人前後が随行したとか?
神君の命を何回も弓で救った内藤正成の息子ですから随行も考えられるかもしれませんね!

ちなみに伊香保「山子田」安藤家ですが、ご先祖が高崎領山子田村の柳澤寺にて江戸時代初期に
事件に関与して出家した僧だそうです?「寛永年間の駿河大納言か?荒木又右エ門の仇討ちか?~~はわかりません。」





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最終更新日  2019年03月12日 07時35分54秒
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